差出人は夜の淵に5 勝手に注文までされたのに、俺は文句を飲み込んでしまった。 年上の余裕というやつだろうか……、押しつけられた行為はどこか心地良い。 ただし、俺はシャンパンなんて飲まないが。 「手紙の件は本当に申し訳ありませんでした。気味が悪かったでしょう」 「あ、その、いえ……俺宛じゃないって分かったんで」 「実は、あの部屋は恋人だった人が住んでいたんです。いつ引っ越して来られたんですか?あ、お名前は?」 「2ヶ月ほど前に……、あ、宍戸っていいます」 「へぇ、宍戸さん。僕は鳳長太郎です。好きなように呼んで下さいね」 「はあ…よろしくお願いします」 頼んだシャンパンとウィスキーが運ばれてきて、俺は鳳という男と改めて乾杯をした。 手慣れたマスターは、予想通りウィスキーを鳳の前へ、シャンパンを俺の前へ置いた。 鳳に倣って一口飲んだが、意外に甘くどくなくて、すっきりした味わいだった。 クリスマスにスーパーで買ってきた奴とは比べ物にならない。 つい、もう一口目を飲むと、鳳が小さく笑った。 「美味しい?」 「あ、はい」 なんだかはしたないことをしてしまった気分になって、思わず視線を下げた。 すると、鳳の胸元に金色のピンバッチがついていたことに気が付いた。 まるでひまわりの花のような…どこかで見たことのある形だった。検事か弁護士か思い出せなかったけれど、鳳の気品の良さには納得した。 「宍戸さんのおかげで、ようやく吹っ切れることができました」 「え」 「自然消滅なんて、よくあることですしね。段々連絡が途絶えてきて、出会ったころを思い出そうと送った手紙の返事ももらえなくなって」 「…そうだったんですか…」 「本当はどこかで分かっていたんです。多分、泣く準備ができていなかった」 そう言うと、鳳は息をつめて俯いた。 顔はよく見えなかったけれど、初対面の人間に泣かれてはどうしていいか分からない。 ハンカチなんて気の利いたものも持っていなくて、俺はものすごくオロオロした。 けれど悲しみはすごく伝わってくる。 励ましたい、慰めたいという思いを込めて、俺は鳳の背中をさすった。 「鳳さん」 「宍戸さん、ありがとうございます。大丈夫です」 「無理しなくてイイっすよ」 鳳は顔を上げると、少し赤くなった目を向けた。 さすがに大泣きしたいのは堪えたらしい。 「ごめんなさい。僕、しつこいタチだってよく言われるんです。でも、好きなものはしょうがないじゃないですか。どうせなら、はっきり振って欲しかった」 「そっといなくなられるのは寂しいですよね。まぁ、しつこいのは裏を返せば一途ってことじゃないですか」 なんだかんだで、鳳の元彼女だって最初は幸せだったろうに。 鳳の気さくな優しさは、出会ってまもない俺でも安心できる。 「この店を教えてくれたのもあの人だったんです…『croix』はフランス語で十字架って意味なんです。それで、僕がいつもクロスをつけているから…」 「それも、鳳さんが彼女に好かれてたからこその出来事じゃないですか。時間が経てば、良い思い出になりますよ」 しかし、一杯付き合うだけなんて言っていたが、これは長丁場になるかもしれない。 同情半分、困惑半分の思いで、俺はシャンパンをもう一口飲んだ。 「宍戸さんは素敵な考え方をされますね…」 「あっ、いや、偉そうにすみません」 「そんなことないです。素敵です」 「いえ…俺はそんな風に誰かを好きになったことないですからね。そうやって一生懸命恋愛されてる鳳さんの方がカッコいいですよ」 「はは。やめてください、失恋したところなのに」 緊張がほぐれたところで、2杯目を勧められてビールを注文した。 しばらく飲みながら鳳の話を聞いて店を出たが、はじめに思っていたような苦痛な時間では決してなかった。 「宍戸さん、良かったら…その、どこか寄って行きませんか?」 「え?あー…俺で良かったら、付き合いますけど」 バーの酒代は結局鳳に奢ってもらったし、次は俺が奢りたい。 それに、2軒目は悲しい話じゃなくて、楽しい話で盛り上がろう。 単純に、鳳との会話は楽しいのだ。 良い友達になれそうだと、俺はすっかり鳳が気に入っていた。 俺が頷くと、鳳はふっと笑った。 「…そんな控えめな返事するなんて、可愛らしいんですね」 「は?」 不意に視界が翳ったかと思うと、鳳が軽くハグしてきた。 「わっ。冗談やめてくださいよ、こんな道端で」 胸を押し返すと、鳳はほんのり赤い頬でまたふっと微笑んだ。 そういえば、鳳は俺よりたくさん酒を飲んでいるんだった。 次は様子を見ながら飲もう…なんて考えながらも、つい俺は鳳にまかせっきりでタクシーに乗り込んだ。 前 次 Text | Top |