カミツレの咲く丘で 3 ――セピア色に褪せてしまった昔の記憶。毎日が楽しいのに息苦しく、辛くとも幸せだった……若い頃の――。 「長太郎。悪い、あいつと約束あるから週末会えない」 「…またですか」 「ごめん。今度は絶対おまえのとこ行くから」 遠い過去も、夢の中も、いつも同じ展開だ。 そう言って宍戸は二度と帰って来ない。それでも鳳は引き留めずその場に佇み、遠くへ行ってしまう彼をずっと眺めていた。 すると真っ黒な地面が沈んでいき、鳳をゆっくりと飲み込み始めるのだ。どんなに必死にもがいても逃げられず、宍戸の名を呼んでも声にならず、最後は溺れて気を失った。いつも夢はそこで終了する。 だが、今日は違った。 しばらく宍戸を眺めていても、足元が沈んでいくことはなかった。ずっとずっと宍戸を見つめていることができる。 宍戸は、明るい光の方へ歩いて行く。 やがて鳳の目が眩しさに慣れてくると、宍戸が白い花の咲き乱れる丘からこちらを眺めているのが見えた。 なにかその場所に既視感を覚えたが、鳳は怖くて近寄れなかった。 行きたいと思ったが、きっとたどり着けないだろうと思った。 そこで、そっと宍戸の名を呟くと、今度はちゃんと声が出た。 「…宍戸さん、…宍戸さん、宍戸さん!」 もしかすると宍戸に届くかもしれないと、鳳は次第に叫ぶようにして呼び続ける。 気付いてくれたのか分からなかったが、鳳は最後にもう一度だけ叫ぶと、宍戸を見つめた。 宍戸はなにも言わない。だが、振り向いてそっと片手を上げてくれた。 鳳は一瞬喜んだが、それが別れの挨拶のように横に振られ始めると絶望に落ちた。 「宍戸さん、行かないで…!」 耐えられず宍戸のもとへ歩み出そうとすると、それまで鳳を支えてくれていた真っ黒な地面がいつものように沈み始めた。 「嫌だ、待って!…待って宍戸さんっ、宍戸さん…!」 鳳は渾身の力をふりしぼって叫び、もがく。しかし結局は黒い闇に溺れてしまうのだった。 今日は違うと思ったのに、やはりいつもと同じだった。 ――どうしたって、だめなんだ。 鳳は暗闇で意識を失いながらも、悲しみだけが強く残るのを感じた。 翌朝、目覚めると隣のシーツは空になっていた。 宍戸は大抵鳳より早起きなので驚くことはない。不快な寝覚めに鳳はまた布団を被ろうとしたが、瞼の裏に浮かぶ宍戸が気になってしまい、やはり起床した。 しかし、居間へ降りて行っても宍戸の姿は見えなかった。鳳は少々心配しながらもモーニングコーヒーを淹れ、ダイニングについて宍戸が来るのを待つことにする。 やがて、三十分が経ち、一時間が経過した。 それでも帰って来ない宍戸が心配になり、鳳は外に出て庭を見回した。それでも宍戸はおらず、とうとう鳳は人気のない家の中を捜すことにした。 やはり寝室は空で、宍戸の部屋もバスルームも見たがいない。最後に自分の書斎のドアを開けたが、そこにも宍戸の姿はなかった。 「どこに行っちゃったんだろう…」 昨夜見た夢は、今までのものと違った。その翌朝に宍戸が消えてしまうなんて、鳳は一層不安に陥った。 書斎の入口に立ち止まり、宍戸の行きそうなところを考える。思考に意識が向き、視界がぼうっとなった。その目の前に窓があり、そこからはカミツレの花咲く丘が一面に広がって見えた。 「あ…っ」 鳳がそれを夢で見た白い花畑だと気付くのと、目の前のカミツレ畑から黒い頭がのぞき見えたのはほぼ同時だった。 階段を駆け下り裸足のまま草原を走っていくと黒髪の人物がはっきり見えてくる。やはり彼だった。宍戸は白い花の中に座り込み、俯いたまま微動だにしなかった。 「宍戸さん!」 鳳が呼ぶとようやく我に返ったようで、宍戸はハッと顔を上げた。 「…長太郎…」 「どうしてこんなところにいるの?帰って来ないから心配しました…」 そう言うと宍戸はまた俯いてしまう。まるで落ち込んでいるような、悲しげな横顔だった。 どうもいつもと様子が違う。 鳳は優しく尋ねてみようと思い直し、そばに膝をついた。 「宍戸さ…」 すると宍戸の手元が見えた。 手の中には手紙があった。 前 次 Text | Top |