◇誕生日 | ナノ



差出人は夜の淵に3

「なぁ。だーれも話しかけて来んな」
「……ああ」

普通の客を装いながらも、俺も忍足も時折まわりの様子を伺っていた。
やがて数人の客の出入りはあったものの、俺の顔を見て反応した奴は一人もいなかった。どういうことなんだろうか?

「変な話やなぁ。自分からここに誘っといて、姿現さんのかい」
「今日はいないとか。場所、間違ったとか?」
「はぁ?もっかい手紙見してみぃな」

カバンから手紙を取り出すと、忍足はそれをテーブルの上に広げた。

「えー、『croix』……合ってるやん」
「じゃあ…勘違いとかか?」
「どこをどう勘違いするん?お前と“公園の紅葉した並木道を歩きたい”思うてる男がここにおるって書いてあるやん」

忍足が言い終わるのと同時だった。
俺達のテーブルの前に、一人の男が立ち止まった。
二人同時に顔を上げると、そこにはさきほどまで優雅にピアノを奏でていた男がいた。
表情を強張らせて、視線を突き刺すようにテーブルを見下ろしていた。正確には、テーブルの上の白い便箋を。

「あの…どうかされました?」

忍足が問いかけながら、そっと便箋を畳もうとする。しかし男は、それを遮るように手紙を奪った。見上げると、寛げられたワイシャツの間からクロスのペンダントが光って見えた。

「ちょっと」
「これ、どうしたんですか?」

男はかなり背が高く、銀髪になかなか整った顔立ちをしていたから、意図的に低くした声は迫力があった。
俺は、まったく予想していなかった展開に、いまだ反応できずにいた。
ストーカーだなんて雰囲気はどこにもない。
どうしてこの男は怒っているんだろう。
どうして瞳の奥は悲しそうに沈んでいるのだろう。
酔いは一気に冷めていた。

「これを、どこから拾って来たんですか?それとも…誰かから、もらったんですか…?」

男は、おそらく年上だ。
落ち着いた佇まいに、上等そうなスーツ。
宍戸の何十倍もこのバーが似合う。

「……」
「宍戸。…宍戸、言ったれ」

忍足の呼びかけでようやく我に返った俺は、声を絞り出すように呟いた。

「俺の家の、ポストに。たまに、投函されてて…」

なんでこんなビビらなくちゃならねーんだと思ったが、どこか委縮とはまた違う緊張感があった。
ピアニストの男は数秒間、俺の顔をじっと見て、手紙を持っていた手をだらんと力なく降ろした。
警戒していた忍足も、心配そうにそれを見ていた。

「……あのアパートの2階の隅の部屋、今はあなたの家なんだ」
「はい」
「……はは。妙な手紙が来て怖かったでしょうね。あれは、別の人に宛てたものでした」
「…」
「他に連絡手段がなかったものですから。…返事もないし、つい何度も何度も…。悪いことをしました。申し訳ありません」

ピアニストの男は深くお辞儀をすると、福沢諭吉の描かれたお札をそっとテーブルに置いた。

「あ、あの。これは」
「イタズラの犯人を確かめに来たんでしょう?帰りのタクシー代です」

男はまた丁寧に一礼すると、カウンター席に行き、酒を注文していた。
明らかにその額は貰いすぎだったけれど、その背中に声をかけるなんてできなかった。
俺も忍足も、黙って店を後にした。





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