差出人は夜の淵に2 その日の昼食後、俺は忍足に手紙のことを相談した。 「それ……引っ越してきてから一週間おきくらいの頻度でポストに入って来るんだよ。母さんに心配かけたくないし、朝、新聞と一緒にこっそり取ってきて、黙って捨ててるんだけど。いつか目の前に現れるんじゃないかって、ゾッとしてる」 「今時、手紙とはなぁ。思い当たる節あらへんの?」 「ねぇよ」 「知らんうちにタラシ込んだんとちゃうん?」 「忍足と違って俺はそんなことできないっての。つーかさ、なんて書いてあった?」 「人様のラブレター読み上げるなんて悪趣味や。ご自分でどうぞ」 見たくないから忍足に渡したのに。 手紙を突きつけられて、俺は渋々それを開いた。 案の定、想像していた内容ではあったが、ひとつだけ気になった。 「……あ?…ク…クロ、エックス…?」 「“croix”な。クロワや」 「どこのことだろう」 「ググったら出るかもな。よし」 「えっ。調べるのかよ!?」 「どこや言うたの宍戸やろ。多分、なんかの店の名前と思うんやけど……。お、バーで同じ名前のところあったわ」 「えっ、マジで!?」 「うん。近いな。……帰り寄る?」 「やだよ、怖ぇ」 身を引くと、忍足は少しにやにやし始めた。 「ストーカーの正体、確かめたいと思わんの?」 「無理」 「悩みの種ほっといたらあかんで。いやな、俺思うんやけど、ゲイでストーカーやけどこんな丁寧で紳士的な手紙を書く人やで?話せば分かるかもしらんよ」 「おい。説得が全部“こりゃ面白そうだ”って聞こえるぜ」 「せやって宍戸、浮いた話の一つもないやん。経験値積まんと、魔法使いになってまうで」 「なんだよ、経験とか魔法とか。アニメの見すぎじゃねーの」 「アホ。俺は隠れオタなんやから大きい声出さんでや」 「じゃあ俺が童貞なのも黙っとけよバーカ」 結局、言い合いのあと「最近飲みに行ってないやん」と管を巻かれて、おごってくれることを条件に俺はその夜『croix』というショットバーに行くことになった。 ジャズピアノの音色と客達のざわめきがほどよく混ざり合う。 俺達は店内を見渡せそうな奥の席に陣取って一杯目を注文すると、さっそくキョロキョロしはじめた。 店はこじんまりとしていて、L字型のカウンター席に、テーブル席が3つあるだけだった。 そして今流れているBGMは、カウンターの後ろに置かれたアップライト・ピアノが奏でているのだった。 グラス片手に会話するカップル。 カウンター席で一人、音楽に耳を傾けている客。 扉の向こうの現実世界など忘れて、各々が自由なひと時を過ごしている。 ストーカー男は怖いが、このバーは、なんというか、その――― 「落ち着いてて雰囲気あるやん」 「良い店…だな」 「酒旨かったら通おかな、俺」 「冗談はよせよ」 俺達が額を突き合わせてヒソヒソしていると、小さく拍手が上がった。一曲終わったようだ。 ちょうどそのとき、ギャルソンに身を包んだウェイターがスコッチとモヒートを運んできた。 向こうを見るとピアニストも常連客らしき男に酒を奢られているところだった。 「ほんなら乾杯。誕生日おめでとさん」 「…え。あ、今日29日?」 「やっぱり忘れとったんか。奢るっちゅーのはお祝いの意味も込めてや」 「マジかよ。サンキューな」 「来年は彼女に祝ってもらえよ」 「努力する」 グラスを鳴らして、モヒートを一口。 ライムとミントの清涼感が疲れた体に染みわたる。 自然に仕事の話が始まると、忍足は胸ポケットから煙草を取り出し、火を付ける。 話は弾み、灰皿に吸い殻が溜まっていく。 前 次 Text | Top |