五.此処でひらり華と散る 後編 「失礼します」 第一声に勇気を振り絞ると「入れ」と返事が聞こえた。 汗ばむ手でドアノブを引くと、宍戸が座敷の鏡の前に正座していた。 瞼に紅を差す手を休めることなく、真摯なまなざしで鏡を見つめる。 「その辺に座れよ」 「……はい」 鳳は革靴を脱ぎ、静かに畳へ上がった。 宍戸と十分に距離を離して同じく正座すると、宍戸は化粧の手を止め、鳳の方へ向き直った。 夜の舞台への準備も整いつつある宍戸は美しい姫君のような出で立ちだった。 跡部ならこの姿を一目見ただけで演目が分かるのだろうか。 鳳には、ただ、その美しさしか分からなかった。 幾重にも着重ねた振り袖は金糸に縁取られた真紅の花をあやなす。 白粉に覆われたその肌は間近に見ても静謐な美を醸しており、まるで陶器のよう。 瞼や唇へくっきり引かれた紅と墨は鮮やか過ぎるほどで、精巧な出来にぞっとする。それでも魂の無い人形でない宍戸からは芳醇な色香が漂う。 心身ともに舞台へ向かいつつある彼は、動作や視線も奥ゆかしい古の女性を思わせた。 「宍戸さん……、お久しぶり、です」 鳳はそれに見惚れていた。一瞬のことなのか、数分経っていたのか、自分でも分からないくらいに見入っていた。 我に返り話しかけるまで、宍戸が黙っていたことも気付かなかった。 「久しぶりだな」 目を合わせて言葉を交わすのはいつぶりだろう。 たったこれだけのことが奇跡のように思えて、今このときだけは胸の痛みも忘れてしまえそうだった。 「元気だったか」 「……え」 「元気にしてたか、長太郎。もう十日以上顔を見ていなかった」 あの怯えた宍戸を忘れたわけではない。 けれど。 その声も瞳も不思議と鳳を慈しむように響いてきて、無性に涙がこみ上げてくる。 「はい。それなりに、生きていました」 泣きたくなるなんて、安心するなんて、変だ。 定まらない感情が入り混ざり、愛想笑うと口元が歪んだ。 「それなり?なんだそりゃ」 「あの……、いえ。分からなくなってしまって……宍戸さんの顔を見たら、自分が一週間何をしていたのか、どう過ごしていたのか………思い出せなく、なりました」 「………」 その言葉に宍戸は明らかに困惑した。 「ごめんなさい。まだ、気持ちの整理がつかないんです」 「……」 不器用な宍戸はもう演技で平気なそぶりをすることも出来ずに沈黙してしまった。 鳳はそれでも、覚悟は決めてきたつもりだ。 空っぽの今の自分なら、それを受け入れることが出来るはず。 出来る。受け入れられる。 心で暗示を繰り返して、自分に言い聞かせた。 「ごめんね、宍戸さん。もう少しだけ待ってくれたら、きっと」 笑顔で謝った。 笑えていたかなんて、分からないけれど。 宍戸に穏やかな日々を返したい。 そのために此処へ来たのだから。 「……おまえさぁ、人の気持ち無視してキスすんなよ」 宍戸はきちんと姿勢良く正座をしているのに、どこか肩の力が抜けたような話し方をした。 「ごめ、なさい」 「すっげービックリしたぜ。それにちょっと、怖かったし」 「本当に、すみませんでした」 「許す」 「うん……………え、………は……?」 鳳は涙を噛み殺してひたすら謝罪しようとしていた。 なのに、思考がピタリと止まってしまった。 宍戸の発した一言が解釈できないまま脳の枝葉を伝播していく。 「許してやんよ。全然、怒ってねぇからさ」 許してくれる、と言った? 怒っていないのか? 宍戸が、自分に、笑顔を。 「長太郎」 セピア色に繰り返された声が色を取り戻してゆく。 「はい」 「長太郎、長太郎」 長太郎、砂丘を撫ぜる波のような声。 懐かしい、自分を呼ぶ優しい声。 大好きな宍戸の声。 宍戸は鳳の名を呟きながら苦しげに笑った。 「はい、何ですか。宍戸さん」 鳳はまだ少し混乱しながらも、長太郎、長太郎、と呼び続ける宍戸に、律儀にはい、と答えていった。 宍戸は膝で白い両手をきゅっと握りしめた。 「おまえ呼ぶの好きだよ、俺。それにおまえが嬉しそうに、ハイって言うのがすげぇ好きなんだ。おまえの笑顔がたくさん見れるだろ」 「宍戸さん……」 宍戸は俯いた。 「俺さ……、野郎に何回も押し倒されて、怖い目散々見てきた。触られて鳥肌立ったし、愛してるだとか可愛いだとか、仕舞にゃやらせろだとか言われて、嫌悪感しかなかった」 「……」 「でも、おまえは……おまえのことはそういう奴らと同じに出来ない。一緒に過ごして、いっぱい遊んで、それが楽しくて仕方なかった。こんな俺のこと、長太郎は気に掛けてくれたし、優しくしてくれたし……、今さら………嫌いになんてなれねぇよ」 「………」 宍戸は両手を畳に着いた。 「おまえがいなくなって、そう思ったんだ」 俯いた表情が小さく息を詰める。 宍戸は声を弱々しく震わせてくずおれた。 「手放したく、ない。長太郎……」 控室の扉を開けた時にいた精美な役者は跡形もなく消えていた。 いつも気丈な宍戸がすべてを鳳に曝け出した。 それほどに鳳を思って、考えてくれたのだろう。 嬉しかった。 嬉しかったけれど、哀しかった。 同じように、いやそれ以上に鳳も宍戸を想い、考えている。 だからこそ熱い感情に飲まれることなく冷静になれた。 自分を大切だと言ってくれた宍戸が嬉しかったけれど、自分も宍戸を大切に思っているからこそ、それを利用したり、思い違えてはいけない。 「………戻りますか、友達に」 宍戸はびくりと身体を竦めて顔を上げた。 「違う……!そう言ってんじゃねぇよ!」 「宍戸さんは一人が怖いだけだよ」 「違えよ!俺は、」 「宍戸さん」 「黙れ。無理してなんかない……!おまえは好きだとか言っておいて、俺の言葉が信じられねえのかよ!?」 宍戸の怒気の凄まじさに鳳は言葉を飲み込んだ。 「そこ動くなよ、テメェ」 まるでこれから殴り掛かりに来るかと思うほど殺気のこもった声でそう言うと宍戸は立ち上がった。 綺麗に纏った色とりどりの重ねをするりと脱ぎ捨て、白い着物一枚になる。 正座する鳳にずんずんと近づきながら、黒髪に咲く赤い花の簪(かんざし)を一つ一つ、取っては投げた。 畳にひらり、椿が散ってゆく。 「宍戸さ……」 がしりと肩を掴まれる。 鳳が現状を理解する前に、宍戸はとん、とその膝に座った。 無表情のまま力ずくで鳳のネクタイを引き、前のめった身体をぎゅっと抱きしめた。 脚を腰に巻きつけられれば、ぴたりと隙間なく身体が触れあう。 「まだ分かんねえの?」 鳳の膝の上でそう言った宍戸は確かに身体が熱い。 予想だにしていなかった行動に面喰ってしまった。 戸惑っているうちに宍戸は待つことなく鳳の手を掴んだ。 「おまえのこと、こんだけ好きなんだよ」 鳳の手を自分の左胸に押し付け、ぎゅっと目を閉じた。 「分かるか……?」 「え、あ、その」 恋しい人に触れている自分が信じられず、鳳は思考が定まらないままだ。 「……あっ、間違った。こっちだ」 宍戸はパッと目を開くと、両手で押さえつけていた鳳の手をそっと首筋にあてた。 「かなり脱いだけどよ、まだいろいろ詰まってんだよな」 だから、ここ。 そうして触れた宍戸のうなじは、トクトクと平静時よりも速い脈拍を刻んでいた。 鳳はどうにかこうにか落ち着くと、瞳を閉じて熱い皮膚の下を流れるそのリズムに集中した。 頭の中でメトロノームの振り子が揺れ始める。 モデラート、……アレグレット、……アレグロ。 宍戸の刻む心音は時を追うごとに早くなっていく。 宍戸の想いが言葉よりも雄弁に伝わる。 鳳は一拍一拍、こぼさないように記憶に焼き付けた。 「うん。……うん。分かる。宍戸さん」 「うん……」 宍戸も目を閉じていて、鳳の手のひらの感触を味わうかのようにじっとしている。 伝わるのは互いの熱と音。 それらを共有し合うこのひとときで、擦れ違っていた時間も分かり合えるようだ。 宍戸は言った。 「まず、俺専用のSPになれ」 「……SP?」 鳳は瞬いて宍戸を見た。 「俺のこと、おまえが守れよな。それからもう一回、友達になれ。俺、まだまだ全っ然、遊び足りねぇんだよ」 宍戸は笑って両手を広げ、ふわりと鳳を抱きしめた。 温もりが伝わってくるのに鳳はどうすることも出来ない。 「そうしてくれたら、恋人になってやる。おまえのことすげえ大切にしてやるよ。だから長太郎はさ」 動けない。 「着飾ってねぇ俺も愛してくれんだろ?」 窒息しそうなほどの高揚感。 再び瞼を閉じると熱くてじんわり滲みた。 「そうだよ。……俺は、ありのままの宍戸さんが好きだよ」 抱きしめ返すと、鳳の胸にようやく安堵が広がった。 「うん」 鳳も自分の感情の行く先が何なのか、分からない。 一つの言葉で括れるほど単純な想いではない。 出会った時から様々な気持ちを宍戸に抱いたが、今もそれは定まることなく万華鏡のようにくるくると移ろい続ける。 ただ、その中に愛が生まれた。 それだけのこと。 「好きです。絶対、誰にも渡さない。死んでも離さない」 きつくその背中を抱いて、肩に顔を埋めた。 白粉の香りが鳳の中で宍戸の匂いとなった。 「バーカ。そんな覚悟、とっくに出来てる」 「長太郎、ヴァイオリン弾け」 跡部が言った猶予は三十分。 宍戸と想いを通わせた今、もう少し幸せを味わっていたいのだが、そろそろ終わりにしなければ。 宍戸はこれから舞台に立つのだ。 「何です、突然」 ざわめいてきた廊下の音。 宍戸は慣れた手つきで豪勢な着物をちゃっちゃと着付け直した。 「緊張してきた。なんか……舞台立ったら頭真っ白になりそ……」 「ええっ?」 「半分おまえのせいだから責任取れよな」 「何です、それ」 ………あ。 鳳は少し考えたのち、宍戸の胸の高鳴りが半分は自分との抱擁のせいだと結びついた。 落ち着いたはずの心がたちまち色めき立つ。 「ねぇ、宍戸さん」 「あ?何」 「俺、いくらでも責任取ります。……というか、いつか全部の責任負わされてみたいなぁなんて……」 「ハァ?何言ってんのおまえ。アホか?」 宍戸は眉間にしわを寄せると帯を絞めた。 「さて、責任取ろうっと」 「もういいわ。おまえ意味不明なこと言うし」 「キャンセルは効きませんよ、宍戸さん」 「……勝手に弾けば」 心地良い脈動を感じながら、ヴァイオリンを取り出す。 嘆息しつつも鳳のそばに座った宍戸に、曲は何がいいかとリクエストを尋ねた。 けれどこんな陽気な自分は、きっと愛しか奏でられない。 End. (Happy Birthday! Ryoh Shishido) 前 次 Text | Top |