五.此処でひらり華と散る 中編 跡部は冷静に攻撃態勢を通し続ける。 「宍戸に会いたくないのか?」 遠ざけていた確信を胸の奥から取り出される。 それだけでもう気力をどっと失くしていた。 なにせ答えは鳳に決定権がない。 「はっきり言え。会いたくないなら、鞄もヴァイオリンもすぐ返してやるぜ」 思い出す。 怯えた目も、震えた肩も。 この頃では、頭の中に鳳を嫌悪し蔑みの目を向ける宍戸も捏造されてしまっている。……鳳が図り知らないだけで、こちらも事実かもしれないが。 「どうなんだ」 でもやはり、そろそろ現実を見なくてはならない。 跡部が取るに足らない友人同士の喧嘩と思っているうちに、心構えを持たなくては。 「……宍戸さんは俺に会いたくないと思います。まして興行前になんて、尚更そうですよ……」 あんなに怯えていたのだ。自分と会ったりしたら落ち着いて舞台に立てないかもしれない。 「人の話をちゃんと聞け。……おまえは。長太郎は、宍戸に会いたくないのか?」 「………」 その青い瞳を見て鳳は自分が思い違いをしているのではないかと感じた。 跡部の方がよっぽど覚悟を決め、現実を見ているようだ。 そうやって目の前でぐずぐずする鳳の背中を半ば強引に後押しする。 「俺は……」 だが会えたとしてもどうしたら良いのだろう。 謝るのか。もう目の前に現れたりしないと誓うのか。 そう言って宍戸が怯えをまとうのも、そっと安心する気配も、悲しむような顔をするのも見たくないのに。 けれど。 「……会いたい……」 言葉が胸から湧き上がってくる。これが本当の気持ちだった。 もう枯れてしまいそうだった。一目会うことが叶い傷を受けるとも、想いが底を尽きそうだった。 宍戸に会いたい。 何度、深く胸を抉られるとしても構わない。 ただ会いたい。 会って、諦める決心がつくのか、さらに未練を引きずるのかは分からない。 それでも会えば何か変わるのではないか。 呼吸する空気が周りからじわじわ凝固していくような苦しい現状をどうにかしたい。 変わって、欲しい。 跡部は先の眼差しとは違い、落ち着き払った声で「ついて来い」と言った。 鳳はその潔白な背について行くことを躊躇しなかった。 跡部の背を必死に追った。 見失うわけもないのにそうして意識を集中していないと、捨て置いてきた迷いに心が再び覆われてしまいそうだった。 「ここが宍戸の控室だ」 気がつけばその背中は歩みを止めていて、やや振り向いて鳳に告げた。 「夜の部の興行まで時間がある。……と言っても準備があるからせいぜい三十分程度だな。人払いしてあるから、会いたいなら会っておけ」 「景吾さん……」 跡部が鳳を急かしてくれたから、こうして宍戸ともう一度会えるチャンスを得られた。 鳳は跡部にいくら感謝してもし足りない思いだった。 「勘違いするなよ。これは俺の本意じゃねぇんだ」 宍戸はムカつく野郎だが、跡部はそう前置いて続けた。 「良い所もあるにはある。周りが見えてねぇのにまっしぐらに前に突き進むわ、無い頭を巡らせ過ぎて相手に誤解を受けるわ……。危なっかしくて付き合い切れねぇと何度思ったか分からねぇな、宍戸には」 鳳はその冴ゆる瞳から視線を逸らせなかった。無表情で冷たささえ感じてしまいそうなそれは、真逆に素直な言葉とともに鳳の心を温かく溶かしていく。 宍戸の翼はずっと跡部が大切に守っていたのだ。 飛び立つための用意はいつでも出来ている。 感動に胸が震えた。 「それでもあいつは腐れ縁で付き合ってやるだけの奴なんだ。何か望みがあるのなら援助してやったっていい。……宍戸が、おまえに会うことを望んでるなら、そのセッティングぐらい」 「景吾さん」 「……分かったなら早く行け、長太郎。ぐずぐず迷ってる時間はねぇんだよ」 跡部は先程からその言葉が伝えられるのを避けているようだったが、鳳は言わずにいられなかった。 「ありがとうございました」 跡部は複雑な表情で鳳を見つめていた。 早く行け、もう一度そう言うと跡部は少し離れた場所に佇む樺地のほうへ行ってしまった。 鳳は宍戸の控室の扉に向き直り深く呼吸した。 戸にかざした拳が音を立てる直前、耳に通し良い声が再び響いた。 「長太郎」 普段の高飛車な笑みに少し柔らかみが増している。 「言っとくがな、俺様はおまえを疑ったことなんざ一度も無えよ」 鳳は誠意を払って一礼すると再び扉に向き直った。 ノックの音。 はい、と聞こえた懐かしい声。 心臓が飛び出しそうなほど鳴る。 緊張しながらそのドアを開いた。 知りたい。どうしてまた、自分を呼んでくれたのだろう。 * 「跡部先輩」 鳳が目の前のドアに姿を消した後、跡部の前に栗色の髪をした少年が現れた。 「日吉か」 日吉は今夜催される演目の盛装な姿だった。 冷やかで険しい表情の下、似つかわしくない穏やかな淡雪の模様が群青に鮮やかだった。 「……なんなら止めても良いんだぜ。お兄ちゃんが心配だろう?」 跡部は嫌味な笑いを浮かべた。 けれど日吉もそれくらいは慣れっこで、今日こそは足を掬い取ってやろうという気合い。 ブラコン扱いされたのは非常に気に食わないが、取るに足らない跡部の皮肉など軽く突っ返してやった。 「言われなくても。そうするつもりなら亮の部屋へ樺地が現れた時に行動していましたよ」 「アーン?一部始終を黙って覗くとは陰気臭えな」 「どっかの誰かのように人の迷惑も顧みず動くのは性に合わないものでね」 「……フン」 日吉が再度如才なく返すと、跡部は簡単に押し黙った。 それに喜ぶでなく、妙だ、と瞳をじっと窺うと、跡部は目を合わせないまま呟いた。 「……悪かったな……」 「……は……?」 日吉はわずかに素っ頓狂な声を上げてしまった。 跡部が跳ねっ返らずに素直に謝るとは、一体全体どういうことだ。 「いつの時代も少数意見は切り捨てられるもんなんだよ」 行くぞ、樺地。そう言って立ち去る背を、日吉は大声で呼び止めた。 「待って下さい!」 こんなに躍起になって、自分らしくない。 いや、跡部こそそんな消極的なのはらしくないだろう。 日吉は空回りし続ける自分を止めることが出来なかった。 でもこれだけははっきりさせておきたい。 「アンタは……反対じゃないんですか?」 日吉にも、目を凝らしてもぼんやりとしたままだった予感めいたものが、徐々に輪郭を持ちつつあった。 宍戸と鳳を会わせてしまえば、きっと何かが転がり出すように始まってしまうのだろう。 それは狭い世界にいる宍戸には善し悪しの判断がつけにくいものだ。 いつの日か後悔するかもしれない。 それを黙って見ていても良いのだろうか。 このまま傍観を続けることは、結果的に二人を促すようなものだ。 宍戸を気に掛け、保護動物か何かのように監視してきた自分も跡部も、それを見過ごしてしまえば――。 「現実を受け入れただけだ」 「……」 現実、を。 「おまえも当の昔に知ってただろうが」 去り際の言葉は不思議なくらいすんなり胸の底へと落ちて行った。 前 次 Text | Top |