◇誕生日 | ナノ



五.此処でひらり華と散る 前編

女の子と遊ぼうとか、彼女を作ろうとか。
とにかく元の自分に戻ろうと思った。
そうして宍戸のことは過去に置き去りにして毎日忙しくしていればいい。
来週か来月か、明日かもしれないいつかに、きっと忘れられるだろうから。




最近、鳳はもっぱら跡部や樺地と行動を共にしていた。
昼休みは二人のランチに割り込んでたくさんの話をする。
鳳は何でも話す。クラスのこと。先生のこと。家で飼っている猫のこと。自分の周りの出来事は余すことなく喋り尽くした。
そんな鳳に跡部は鬱陶しそうな顔をしつつ、なんだかんだと付き合ってくれた。言葉少なに樺地が耳を傾けてくれるのも心地良い。
二人と過ごす時間は楽しかった。いままでも二人と付き合いがあったのに、どうしてかやっと親しくなれたようだった。

部活は遊ぶ気が起きない分、自然に練習量を増した。
ヴァイオリンに対する情熱はもとからあったけれど、まるで視界が開けたようだった。
戯れの恋の、どこが息抜きだったのだろうか?
あんなふうに時間を使わなくともただ肩の力を抜けば良かったのだ。そうすれば張りつめた空気は逃げ道を見つけて身体を離れていく。
空虚な自分を恐れることはない。自分は空っぽなのではなくて、これから様々なものを受け入れるのだ。
残された自分は丸裸で何の檻もない自然体だった。
そうして生まれる音色は清澄で素直だ。
鳳はそれに気がついた時、ヴァイオリンを好きになった頃を思い出した。
いつのまにあの思いを忘れていたのだろう。
力強い情熱と、伸びやかに演奏を楽しむこと。
ヴァイオリンは二つの感情で機微に音を変えた。
忍足は鳳の変化に気付いたのかこの頃は熱心に指導してくれる。
そしてついでに、女の子紹介したろか?などと誘いを掛けて。
鳳がそれに頷くことはなかったが、忍足は返事を鼻から期待している様子でもなく、暇があれば鳳を構う、ということがお気に召しているようだった。
近くにいた親しい人達の存在がとても新鮮に思えた。友達や仲間は居心地の悪いものじゃない。感傷的なつもりはないけど大切だと改めて思う。
――そして、宍戸を思い出す。
彼は言葉には出さないけれど、友人をとても大切にする。不器用な彼らしい優しさで、ずいぶんと遠回りに相手を思い遣る。
鳳は宍戸のそばでそれをいつも感じて幸福をかみ締めていた。
自分が情けないと宍戸は言っていたけれど、誇れる自分があることに気が付いていないだけだ。
小さな世界から連れ出してあげて、外側から自分を見せてやればいい。
そうしたらきっと彼は胸を撫で下ろすだろう。
いつか自由に羽ばたいて、空が広いと知るだろう。
こうなる前に教えてあげられたら良かった。
何もしてあげられなかった。
何か少しでも返してあげたかった。
今は遠くから幸せを願うことしか出来ない。
それすらも、いつかやめなければいけないのだろうか。
今はとても考えられない。
そんなふうには自分をごまかしきれない。
泣きたいし、落ち込みたいし、胸の痛みを叫びたい。
だから時間が過ぎていくことを切望する一方で頼り縋るのだ。
最後に宍戸をこの胸に抱きしめた感覚を、鳳は今も忘れることは出来なかった。









「鳳!跡部様が呼んでるぜ」

氷帝学園の生徒ならば誰もが振り返ってしまうだろう名が聞こえた。
声のした教室の入り口を見やると跡部が腕を組んで立っていた。
登校ラッシュでざわめく教室がさらに沸き立つ。

「きゃあ、跡部様だわ」
「マジ、跡部先輩だ!」
「すてきね」

女子生徒、いや男子生徒も声を上げたり潜めたり、跡部に無遠慮な熱い視線を送った。

「景吾さん」

鳳は視線の的になっても変わらず不遜な態度の跡部に心の中で苦笑した。

「おはようございます。一年の教室棟に来るなんて、一体何事でしょう」

寡黙で巨体のお供もその背後には見えず、鳳は微笑みつつも珍しいものを見るような目で跡部を見た。

「おまえに急用だ」
「昼食ならお誘い頂かなくても押し掛けますよ」

鳳の暢気な笑顔に跡部の眉根ががくりと緩んだ。

「まったく、ずうずうしい奴だな。なんなんだ?最近のおまえは。樺地は何も言わねぇが、あんまり振り回してやるなよ」
「はい」

それは自分より跡部の方では。
込み上げてきたおかしさを堪えながら鳳は返事をした。

「まったく面倒を見てくれる奴がいないと迷惑だ。……おまえも、あいつも……」
「え?」

跡部はビシッと後輩の眼前に指を突きつけた。

「放課後、即行で校門前に来い」
「え、はい」

もうそれは常の凛とした厳しい表情に戻っていて、鳳はただ頷くことしか出来なかった。
跡部の瞳には人を圧倒するものがある。

「部活は休め。いいな、すぐだぞ。遅かったら置いていく」
「はい、分かりました。あの、どういう……」
「話は以上だ。それからヴァイオリンケースを持って来い。じゃあな」

自分の話が終わると、鳳の問い掛けも無視して跡部は颯爽と踵を返した。
結局は何を言いに来たのだろうか。約束だけ取りつけるとさっさと行ってしまった。
鳳は謎に包まれつつ、日常に戻った生徒達のざわめきの中にしばらく茫然と立ち尽くしていた。


終業後まもなく跡部に引っ張って行かれたので、日はまだ傾き始めたところだ。
鳳は空から差し伸べる柔らかな光を車窓からじっと見つめていた。
空には雨雲の名残りから神々しい光が降り注ぎ、天使の梯子を架けていた。
あの梯子を伝って、誰かが自分を救いに来てくれないだろうか。

「もうすぐ着くぞ」

嫌な予感はしていた。
あの日のように燃えるような夕空ではないが、自分は以前、この景色にとりとめもなく視線を逸らせたことがある。それからの出来事になんの期待も高揚もなく、なんとなく友人に連れ回されたことが不満でどこか諦めた目をしていた。

「……ここは」

なのに今、同じ場所へ立つ鳳は全身が竦んでいた。
鳩尾辺りだけが空気のない宇宙空間へ行ってしまったように重力に圧迫される。
苦しい。
逃げ出してしまいたい。
どんなに忘れようと努力しているか、この場で跡部に喚き散らして訴えてやりたい。

「歌舞伎座だ、見りゃ分かるだろ。なぁ?樺地」
「ウス」
「ちょっと待って下さい」

朝から一人勝手に話を進めていく跡部に、ついに鳳はストップをかけた。
まさか歌舞伎座に連行されるとは思わなかった。跡部が鳳を呼び出すのは、大概クラシックコンサートか美術館に限られている。
先週はフランスの新進気鋭の現代画家の個展だったか。いや、それはもっと前だったような気もする。
そうじゃなくて。
鳳は混乱のせいか、ここ一週間の記憶があやふやになった。
しかし、正確には宍戸が鳳の前を去ってからの日常全てが曖昧だったが。
とにかくも歌舞伎鑑賞はあの日以来、一度もないということだ。跡部は、宍戸と鳳の関係に亀裂が生じたことを察知して、それを承知の上でそっとしておいてくれているのだと鳳は思っていた。
しかしこんなお節介をするあたり、それは見当違いだったようだ。

「俺、帰ります。歌舞伎はまったく興味がないので」
「アン?前は終わったらウゼぇくらいに感激して、また来ます、とかほざいてただろう?来月連れて行ってやるって約束してたじゃねえか、長太郎」

感づいているくせに跡部は知らないふりをする。
ならば自分も知らないとうそぶいて鳳は逃げることにした。
まだ現実と正面切って対峙する度胸がない。

「あれは社交辞令ですよ……別に、観たくないです。樺地と二人で見て来て下さい。それじゃ」
「………そんなに宍戸と会いたくないのか?」
「!」

どっちなんだ。一変しない態度に乱されて鳳はぐっと詰まった。
跡部はスッと手を上げた。

「樺地」

優雅にパチンと指を鳴らすと、呼ばれた樺地はおもむろに車から鳳の荷物を運び出し、一人歌舞伎座へ入って行ってしまった。

「あ!ちょっと待てよ、樺地!」

追いかけようとする鳳を跡部が低い声で牽制する。

「話は終わってねぇぜ、長太郎」
「……景吾さん……なんなんですか、もう」

すっかり俺様のペースにされ、ついに鳳は刃向う気を失った。





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