四.椿、おしろい、雪化粧 前編 歌舞伎役者は白粉(おしろい)を塗り、露出する肌は隅々まで白い。 現実のものじゃないみたい。 いっそ夢の中であればいいのに。 しおりと別れて気がついたことがある。 「宍戸さん」 彼の姿がよく視界に映るようになった。廊下で遠くに見かけたり、グラウンドで体育の授業を受けている小さな彼の姿すら、どうしてか探し出せるのだ。 「長太郎。よく分かったなぁ、こんな人混みで」 会ったら挨拶を交わして、そのうち自然に会話できるようになって、都合を合わせて何度か遊んだ。 宍戸は鳳と目が合うと笑いかけてくれるまでになった。 鳳はその瞬間が生まれるのをいつも待ち望んでいた。 宍戸は小脇に教科書類を抱えたまま鳳に歩み寄った。 「俺、宍戸さん探すのうまいですから」 「何言ってんだ。えばることじゃねぇよ」 「えへへ。宍戸さん、次の授業何ですか」 「音楽。……榊のおっさんがさぁ、シューベルトについて延々語るんだよ。つまんねっての。リコーダー吹いてる方がいくらかマシだぜ」 「苦手なんですか?俺は好きですよ。音楽とか、あと美術とか」 「俺はきっとセンスねえんだよ」 「宍戸さんの演奏するリコーダー聴いてみたいです」 「チャルメラなら吹けるけど。……なんでそんなどうでもいいの聴きたがるんだよ?ていうか長太郎のヴァイオリン聴かせろよ。上手いんだろ?」 鳳は耳を疑った。今、ヴァイオリン、と言った? 「宍戸さん、俺がヴァイオリン弾いてること知ってたんですか……?」 「おう。一回だけ見たことあるんだ。長太郎がヴァイオリン弾いてるところ」 自分は知らない。 まさか宍戸が自分を一方的に見ていた時間が過去にあったなんて。 「え、え。それはいつどこでどうしてですか?」 慌てふためいて詰め寄る鳳に宍戸は苦笑した。 「おいおい。落ち着けって」 「教えて下さい」 宍戸は首を触りながら「大したことじゃねえだろ」と呆れた後、訥々と話した。 「えーと。名前は分かんねぇけど、聴いたことある曲がどっかから聞こえてきてよ。確か春頃で……俺は隣の校舎にいて、向こう側の窓辺におまえがいた」 「へえ……」 「長太郎、一人でヴァイオリン弾いてた。嫌いじゃねぇ曲だったし、ちょっと足止めて聴いてたっけな。あれ何ていう曲なんだろうなぁ……」 宍戸の瞳は記憶を馳せて空を見る。 鳳はその柔らかな横顔をそっと眺めて胸が温かくなった。 そのとき頭にふと声が浮かび、また同じことを言う。 ――好きな人が出来たからよ。 いつまでも反響する声が煩わしかったが、むきになって否定するのはもうやめた。 どうにもならない気がしてきたのだ。遠くにくすぶるそれはどんなに必死に追いかけても、がむしゃらに逃げても、距離を一定に保ったままだった。 自分は待つしかない。 鳳は静かに首を振る。 そんな人はいないよ。しおりさん。 答えをくれる人はもういない。 あれが姿を現してくれるまで、自分は待つしかないのだ。 宍戸は視線を鳳に戻した。 「偶然だな。今こうやって長太郎と話せてるなんてさ」 「憶えててくれて、良かった」 「そう?」 「ええ」 宍戸の口から聞くことが出来て良かった。 そうして小さなことも宍戸の中が空になるまで手繰り寄せられたら、もし終わらなくてもずっとこうしていられたら、とても幸福な気持ちになれるから。 「俺、オケ部なんです。今も毎日ヴァイオリン弾いてますよ」 「そうなんだ」 「今度は隣で生演奏いたしますよ、先輩」 「寝ちまうかも」 「ええー」 「拗ねんなよ。嘘うそ、ちゃんと聞くよ」 「じゃあ、春に宍戸さんに聴いてもらった曲を探しましょうよ」 ふわりと気化する胸の内。 このまま浸ってしまいたいとも思う。 けれど鳳は頭の隅では忘れずに意味を探していた。 別れた恋人に押し付けられた不可解な言葉の意味するところ。 繰り返し繰り返し、それを辿り、宍戸を想う。 前 次 Text | Top |