二.浅き夢見しいろはの恋 前編 何でも人並み以上に出来る鳳だが、ヴァイオリンだけはとても熱心に練習した。 どこか淡白な自分も弦を引く時だけはいなくなる。それは安堵にも似たような瞬間だった。 鳳はこの手に馴染む小さな弦楽器が本当に好きだった。 今日の昼休みは取り巻いてくる女子生徒や恋人のしおりからも逃れて、一人音楽室で愛器を奏でたい気分だった。 「……ふざ…………じゃねぇ……」 「…………も、……んなんだよ………から……」 辿り着いてみると人気のないはずの特別棟の音楽室から声が微かにした。 鳳は教室前で立ち止まり中の気配を伺った。 (誰かいるのかな……?) 自分もたまにこうして人の来ない教室を見つけては女の子と会ったりする。 中にいる彼らも、もしかすると。 「……やめ……っ!」 そんな邪険な想像をしていた鳳の耳に穏やかでない声が届く。 (えっ) 続いて、人がもがいて暴れるような音。 (まずい) 音楽室内で何が行われているのか分らなかったが、確実に誰かの身に危機が迫っている。 頭で考える前に身体が動いた。ガラッと大きな音をたててドアを引くと中に飛び込み、そして大声で叫んだ。 「何やってるんだ!」 もし大人数だとしても不意を突けば勝機が少しでも上がるかもしれないと、そんなことを考えた。 そして鳳の考え通りに相手は怯んだ。 「!?」 「……んんっ……」 すぐにはその状況を飲み込めなかった。 「……!」 あまりの衝撃に目から脳への情報伝達がストップした。 その光景は鳳の想像を遙かに超えていた。 加害者であろう覆い被さっている男と、組み敷かれて自由を奪われている、男。 男? ついたじろいでしまったが、助けなければ。 動揺と混乱に固まる身体をなんとか動かすと男を引きはがした。 男は床に尻もちをついた。悪事を暴かれ怖くなったのか必死に体勢を立て直すとそのまま慌てて逃げて行った。 「待て!」 鳳は追いかけようとしたが、組み敷かれていた男の苦しそうなうめき声にその足をやむなく止めた。 「だ、大丈夫ですか……?」 「……っ」 その男子生徒は顔をしかめながら起き上がると唇の端に触れた。 切れて血が滲んでいる。 「……あの、保健室へ」 「いい」 きっぱりと断られて鳳は取りつく島もなかった。 こういうときはどうしたら良いのだろうか。まさか男に襲われそうになった男を助けたことなどない。 俯く彼の様子を伺うと、制服は多少乱されていたが他には乱暴されたような痕跡も無かった。 つまり悪行は未然に防げたようだけれど。 黙ってこのまま立ち去るなんて鳳には出来なかった。 彼の指が小さく震えているのを見つけてしまった。 鳳は彼を安心させてあげたくて、なんでもいいからと勢い任せに喋り出した。 「と、とにかくもう大丈夫ですよ!……そうだ。もし不安でしたらSP呼びますよ」 「は?」 彼はやっと鳳の顔を見つめた。きょとんと見開かれたその瞳をまっすぐ見て、鳳はもう一度きっぱり宣言した。 「うちのSPにガードさせますよ!」 「………おまえ、」 その時廊下から駆け足の音が響いて音楽室へと飛び込んできた。 「平気か、宍戸!」 青い瞳が焦燥を漂わせている。 跡部だった。 「景吾さん」 「―――長太郎!?まさか、テメェ……!」 跡部は鳳の胸倉に掴みかかろうとした。 「え?」 なぜ跡部の怒りを買ったのかも分らず鳳が動揺していると、明瞭な声がその場を遮った。 「あー、違う違う。ちげーよ」 見ると先ほどまで険しく寄せていた眉根を弛緩させてへらりと苦笑する彼がいた。 「アン?」 「助けてくれたんだ」 短かく刈られた黒髪を掻きながら宍戸は言った。 室内を見回して、ちらと鳳を見た跡部はどうやら納得したようだった。 「そういうことか。……なら、てめぇの口端切った犯人は最近しつこく言い寄って来てたE組の野郎か」 「……あぁ、うん」 「宍戸。今日はもう帰れ。車は手配してあるから正門へ行け」 「悪ぃな」 鳳が展開に着いていけずに呆けていると、跡部は宍戸に歪んだ笑みを浮かべた。 「んなこと言うぐれぇなら怪我しないうちにとっとと逃げておけ。しかもこんな人気のないところにおびき寄せられて………てめぇは学習能力がねーのか?バーカ」 「うっせーなぁ。話をきっぱりつけてやろうとしただけだ。それにちょっと、油断しただけだろ……」 宍戸はムッとして歯切れ悪く呟いた。 しかし跡部はその曖昧さを見逃さない。 「油断?だから変態に襲われたりするんだよ」 嘲笑する跡部に彼はカッときたようだった。吊り目をさらに鋭くすると青い双眼を睨みつけた。 「気色悪いこと思い出させんな!このアホべ!」 「あぁん?俺様が物分かりの悪い馬鹿のために懇切丁寧に忠告してやってんだろうが!その口は飾りか?礼ぐらい言えないのか」 「今さら遅っせんだよ!誰が言うかっつの」 二人は鳳の存在など忘れて罵声をけたたましく飛ばし合う。 跡部は普段からこのような態度だが、負けじと買い言葉を返す彼はカンカンに怒ってはいるが、先程のことなどなかったように元気だ。 鳳は一人ホッとした。 「ハッ、当てつけだな。結局は長太郎に助けてもらってんじゃねぇか」 跡部が少しトーンを落として言うと、宍戸はまくし立てようとする勢いをピタリと止め、鳳を見つめた。 「あ……、そういえばあんたに礼も言ってなかったな、俺」 鳳はぽかんと二人のやり取りを聞いていたので、急に会話を振られて驚いた。 「え」 「ありがとうな。その、なんだ。……助かったよ、マジで」 上背のある鳳を見上げるその深い黒に、ふと記憶が蘇った。 紅を差した艶かしいまなじり。舞う白粉の指先。淡い桃色の紙吹雪。 「いえ。ご無事で何よりです」 頭の中に煙る霧を振り払おうとする鳳に跡部が答えを導いた。 「昨日の礼も言っておけ、宍戸。長太郎は俺と一緒におまえの舞台を観た」 「そうなのか?」 ああ、そうだ。忘れていた。 彼は『宍戸亮』だ。 「あなたが、宍戸亮さん」 「そうだぜ」 鳳は先日見惚れた女形の素顔に思わず胸が高鳴った。 「わぁ……」 「え?な、なんだよ」 「長太郎はてめぇの演じた小町桜の精に感激してたからな」 「ああ」 鳳はこれ以上ないというくらいに瞳を輝かせ、前のめりに語り出した。 「はい!素晴らしくて見入ってしまいました!先輩もすごく綺麗でした」 「おう、ありがとよ。そう言ってくれっとやる気出る」 「ぜひまた景吾さんにご一緒させていただきます」 「勝手に決めるな。昨日誘った時は乗り気じゃなかったのに、ずいぶん変わり身早ぇな」 「まぁ、歌舞伎なんてガキが観るようなもんでもねえしな。気に入ってくれたんならまた跡部に付いてこいよ。待ってるぜ」 わずか笑顔を見せた彼に鳳は喜びが湧きあがるのを感じた。 「はい。ぜひ、また」 意気投合する二人に溜め息を吐くと跡部は宍戸に帰るよう促した。 前 次 Text | Top |