一.琴を弾き 紅を引き 嘘を引き 「今日ね、家に誰もいないよ……?」 腕にまとわりつく女生徒の甘い囁きに一瞬舞い上がったけれど、鳳はすぐに落胆した。 「はぁ」 「……何?」 「俺、ついてないや」 「なによ、私が相手じゃ不満だって言うの」 「違います。……今日はもう、先約があって」 彼女は眉をしかめた。 「堂々と浮気?」 すぐに機嫌を損ねる彼女の頬に手を滑らせ、鳳は微笑んだ。 「しおりさんよりも美人なひとがいたらね」 「……分かってるじゃない」 彼女は機嫌を直すのも早い。 嬉々として鳳の背に腕を回し抱きついた。 「それで、先約って誰?」 鳳を手放す気などまったく無い彼女は嫉妬深く問いただす。 遊びの延長のように始まったこの関係も、彼女の束縛によって今はもう「遊び」もろくに出来ない。 だがこの度は特に隠す必要も無い相手だったので、鳳は正直に理由を話した。 「景吾さんですよ。跡部家直々に歌舞伎の舞台鑑賞のお誘い。なんでもすごく懇意にしてる劇団が今夜千秋楽を迎えるらしくて、ぜひ観ないかと。……しおりさんとのデートはキャンセルだし、今から憂鬱です……」 溜め息を吐き、鳳はしおりの肩に額を預けた。 彼女は呆れるように微笑んだ。 「跡部君なら仕方ないわね。……ふふ。それに私より美人だわ、彼。頑張んなさいよ。ご褒美はとっておいてあげるから」 「あーあ」 なおも落ち込んだ様子の鳳に彼女は媚びるような声を出した。 瞳の奥が甘く濡れている。 「ね、キス」 「うん」 * 「出してくれ」 跡部家子息らしく威厳のある声に黒塗りの高級車が学園前を出発した。 放課後、校門前に待ち構えていた跡部と樺地とともに、鳳は車に乗り込んだ。 「今日はずいぶんと急なお誘いでしたね」 鳳のたわいもない質問に跡部は嘲笑を浮かべた。 「フン。女どもとのデートのキャンセルに追われて顔に疲労感が漂ってるぜ?なぁ、樺地」 「………ウス」 樺地が悩んだ挙句に肯定したのを鳳は苦笑いする。 「そんなんじゃありません。ただ楽しくお付き合いしているだけですよ」 「それで名を知られてちゃザマねぇよ」 「有名と言ったら景吾さんの方でしょう。勉強もテニスもトップですか。素晴らしいですね」 この前行われた学年考査の順位で変わらずその名を最上に刻んだことと、二年の頃から氷帝テニス部のシングルス1に君臨し続ける跡部を、鳳でなくとも氷帝学園の生徒なら皆知っている。 「当然だ」 「俺もこう見えて頑張っているんですよ。来年は忍足先輩の後継者になってみせますから」 「コンサートマスターか」 「ええ。忍足先輩にはまだまだ及びませんけど、努力あるのみです」 膝に乗せたヴァイオリンのケースを一撫ですると鳳は笑みを浮かべた。 「秋の定期演奏会が楽しみだな」 跡部の嫌味も通じていないのか鳳はにこやかだった。 「ぜひ見に来て下さい。一番前に座っていますから。樺地も見に来てね」 「ウス」 「……まったく。女と遊んでる時間を稽古に回せば良いだろうが」 「息抜きも必要ですよ」 「少し遊びすぎじゃねぇのか」 「やることはやってます」 「女どもに媚売るのがそんなに楽しいかよ」 跡部が聞くと、鳳は笑顔で即答した。 「それは、ないです」 「アーン?」 鳳は再び笑って、それ以上この話をするつもりはないのか窓を流れる夕景に視線を逸らせた。 このように鳳が淡白なのはいつものことで、跡部もそれ以上は言及しなかった。 舞台を遮るものは何もない、特等席。 跡部、樺地と並んでホールの中央最前列に陣取ると鳳は感嘆の声を上げた。 「さすが景吾さんは良い席に招かれてますね」 跡部はパンフレットに視線を落としながら言った。 「宍戸とは付き合いが長いからな。良い席を用意させた」 「宍戸?」 「今日の主役の一人だ」 鳳は自分もパンフレットを開くと目を通した。 けれど歌舞伎など未知の世界で、慣れない言葉の行列に集中力を削がれる。さらりと読むとすぐに閉じてしまった。 跡部の奥の席に座る樺地を見ると、鳳とは対照的にじっくりとそれを眺めていた。 もしかすると跡部の付き添いでよくここへ来るのだろうか。 「演目は『積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)』。通称『関の扉』だ」 なんの前振りもなく声を発した跡部は真正面の舞台を睨んでいたが、どうやら鳳に話しかけているらしかった。 「関の扉、ですか?」 おそらく鳳が今日の舞台をよく理解していないのに気付いたのだろう。 パンフレットの解説を閉じ、演目について語り始めた。 「逢坂の関に雪の降り積もる中、不思議と咲き誇る桜があった。そこに隠棲していた男と元恋人の女の仲を取持とうとする人の良い関守がいたが、実は謀反を企む悪者だ。野望の成就祈願にその桜を切り倒そうとするが、突如遊女が現れそいつを口説き始める。その遊女は関守の野望を阻止するため人の姿をして現れた桜の精だ。やがて二人は互いの正体を現し、激しく争う」 「つまり……、恋愛ドラマ付きの悪人成敗劇ですか?」 鳳の大雑把なまとめ発言にあからさまに落胆の色を見せると、跡部は樺地へパンフレットを寄越した。 「それで構わん。始まれば分かる」 気がつくと観客席は満員御礼状態で、舞台開始のアナウンスが鳴り響き、どよめきに拍車をかける。 樺地はパンフレットを膝上に置くと姿勢正しくなり、もうすぐ開くだろう目前の幕を静かに見つめた。 「宍戸は女形でな、桜の精を演じる。なかなかだぞ」 跡部は友人の芝居を推すと話をやめた。 開始のブザーが鳴る。 暗くなる視界に、鳳はこれから始まる舞台より、本当なら今頃居たはずのしおりの部屋に思い馳せていた。 舞台は絢爛豪華で、知識もなく大した期待をしていなかった鳳ですら時を忘れ魅了された。 鳳が特に目を奪われたのは、跡部も珍しく褒めていた、艶やかな遊女になりすました桜の精だった。 美しくたおやかな仕草や表情に、ふと舞台に立つ人間がすべて男だということを忘れてしまいそうになる。 (きれいな人だなぁ……) 薄桃色の透かし紙がひらりひらりと降り注ぐ花道。 その中を流麗に舞い踊る姿が、胸の奥へと色濃く焼きついた。 * 「桜の精の役者の方、綺麗な人ですね。名前何でしたっけ?」 歌舞伎座を後にした車中、鳳は舞台の興奮も冷めやらず跡部に話しかけた。 「宍戸だ」 跡部も舞台を楽しんだのか、鳳が歌舞伎に興味を示したことが嬉しいのか、どこか上機嫌だった。 そんな跡部に樺地も嬉しげだ。 「宍戸、なんですか?」 「宍戸亮。同じ学校だろうが」 「え、そうなんですか?」 「本当に興味ねぇんだな……」 跡部の呆れも気にせず鳳はにこにこと思ったことを口にした。 「宍戸亮さん、ですか。本当に男なんですか?とっても美しい人ですね。女性だったら、ぜひお近づきになりたいです」 すると跡部が突然血相を変えて叫んだ。 「バカ野郎!宍戸に近づくんじゃねぇ」 鳳は一瞬あ然として、笑った。 「え?いいじゃないですか。景吾さん酷いですよ。まさか男に手を出したりしません」 鳳がふざけ半分に言った言葉も跡部は半ばキレ気味に否定する。 「当り前だ!………ただ、」 ハッとして言葉を区切ると跡部はその勢いを喉に留めた。 「ただ?」 「…………いや。なんでもねぇ。……とにかく、もうバカな例え話はよせ」 胸に一物抱えたままの跡部が気になったが、鳳は問い詰める気もなく、別の話題を上げた。 前 次 Text | Top |