◇誕生日 | ナノ



カミツレの咲く丘で 1

月のない夜はよく夢をみた。いや、あれは夢ではなく、セピア色に褪せてしまった昔の記憶。毎日が夢のように楽しかった、若い頃の想い出。

最初は淡々とした声で“オオトリ”と呼ばれていた。
それから“長太郎”“おまえ”“なぁ”――なんて、段々と近づいて、そして雑になっていった。けれどそれがうれしかったのだ。あの頃はどんな変化も刺激的で幸福に感じたから。

あれから一世紀以上を生きた。科学は目覚ましい進歩を遂げ、人間は「第二の人生」を手に入れることが可能となったのだ。
鳳も最初の寿命が尽きる頃、用意されていた自分のクローンに記憶の転送作業をした。
これは『生まれ変わり』と呼ばれている。
世界中の人々は皆こうして二度目の人生を手に入れる。ただ、その作業には莫大な資金と膨大なエネルギーを要するため、ほとんどの人間にそれ以上の実現は難しかったし、悪用の危険性も案じて『生まれ変わり』は一人一度が限度だった。

人は死への焦燥を失くし、世界は平和になった。
鳳も最初の人生のときから続けている法律家の仕事をしながら、愛する人と片田舎でひっそり穏やかな暮らしをしている。地球環境の変化でゆるやかな四季に恵まれたこの町は、二月だというのに春のように暖かく、年中心地良い風が吹いていた。



「長太郎。なんかの書類が届いたけど」

机から顔を上げて振り向くと、書斎の入口に宍戸がいた。
宍戸は、鳳が生涯愛したただ一人の人物だ。艶やかな黒髪に猫のような目をした人で、まっすぐで優しい性格をしている。鳳はそのすべてを愛している。
宍戸は家周りで庭仕事でもしていたのか、白いシャツや頬が泥で汚れている。でもそれは日常の風景で、鳳は注意することなく微笑むだけに留めた。きっとこの後もまた汚れるのだろうから。

「たぶん裁判所に頼んでいたものかな。どうもありがとうございます」
「おう」

宍戸は頷くと、何事もなかったかのように出て行こうとする。
鳳も仕事に戻ろうと机に向き直ったが、窓の外に広がる風景を見てはたとした。

「あ、待って」
「何?」
「カミツレを摘んできてもらえますか」

二人の暮らす家の周りには平原が広がっていて、宍戸が長年育てている草花でいっぱいだった。鳳も時々手伝うのだが、飽きっぽいのか向いていないのか、宍戸の様にはならない。
今の時期に書斎から一望できるカミツレの花畑も宍戸が毎年きれいに咲かせているものだ。

「いいけど。なんでだ?」
「あとでお茶にしましょう」
「…ああ、カモミールティーにするってことか」

カミツレはカモミールの別名で、ハーブの一種だ。宍戸は納得したようだが、少し怪訝な顔をして、鳳を剪定ばさみの柄で指した。

「摘んで来るけど、淹れんのはおまえだぞ」
「もちろん。宍戸さんが淹れるの上手なのはコーヒーだけですからね」
「うるせえ、俺は万能給仕じゃねんだよ。じゃあ三時になったらちゃんと降りて来いよ」
「分かりました」

宍戸は書斎を出て行った。
本当に昔と変わらないな。鳳は机に向き直り、クスクスと笑った。宍戸は凝り性だけれど繊細な作業があまり得意ではない。そしてそれを認めなかったり、開き直ったりする。
遠い昔……十代の頃なら反抗したくなるようなこともあったが、今となっては愛らしさや不思議な安堵を感じる態度だ。

宍戸は昔のまま。自分も昔のまま、彼のそんなところを愛しいと想い、ずっとそばでその姿を見つめていたいと願った。
現状はそれが叶ったと言っていいのだろうか。
幸せだったが、時々胸が苦しくなった。
最初の人生での宍戸との想い出が、鳳をそうさせる。

今一緒に暮らしている宍戸は人間ではないのだ。
宍戸の性格と記憶を組み込み、姿を似せたアンドロイドであった。

宍戸は一度目の寿命が終わる日――『生まれ変わり』を拒んでしまった。
そういう人も稀にいるにはいた。ただ、まさか宍戸がそう選択するとは思ってもおらず、亡くなった後に知らされた鳳は狂いそうなほど嘆き悲しんだ。
宍戸は家族にすら何も言わずに決めたらしく、その理由は永遠に分からなくなってしまった。

若い頃、ふたりは付き合い始めた。
だが宍戸には他に恋人がいて、鳳もそれを承知した上での関係だった。宍戸は同性同士で恋愛することにそれ以上真剣になれなかったのだろう。鳳は幾度となく悲しみに暮れたが、あの頃はそれでも満足だった。どんな形であっても、人生で一番欲しいものを手に入れられたから。そう盲目になれるほど、宍戸を好きだったから。

けれど、一度目の死を迎えたあの日、鳳も宍戸も遠く離れた場所にいた。
たまにしか会わない程度の付き合い、恋人とはいえないような曖昧な関係になっていた。
宍戸はいくら時を共有しても、身体に触れても、永遠に変化のみられない態度で鳳と接した。
そうして、いつのまにか遠ざけてしまっていたのは鳳の方。宍戸を好きな気持ちはずっと消えなかったけれど、長い年月を経て、心のどこかであきらめかけていたのかもしれない。

そんな状態で恋人を失って、一層後悔の念が押し寄せた。苦悩し続け、割り切れずにとうとうアンドロイドを作ってまで宍戸を取り戻したいと思った。
今、宍戸の心を得たアンドロイドが鳳の前で自然な態度でいて愛情を示してくれるのは、そういった事情を添削した記憶を与えてあるからだった。

ただ、宍戸と平穏に暮らしたかった。一度目の人生のように、常に不安に付きまとわれて、届かない想いに苦しみながら生きるようなことはしたくない。
できることならあの頃の宍戸に聞いてみたいことがたくさんあったが、今はただ目の前にいる宍戸と幸せになりたいと思っている。
宍戸と過ごす時間が増え、笑顔を見る機会もたくさんできた。誰にも邪魔されず、心も体もすべてを独占し合えるようになった。
鳳の望み通り、二度目の人生は本当に幸せなものとなった。

でも時々、月のない夜などに鳳は夢をみる。いや、あれは夢ではなく、セピア色に褪せてしまった昔の記憶。毎日が楽しく、息苦しく、辛くとも幸せを追い続けた……若い頃の想い出。





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