憎しみに溶けてゆく愛情 「はぁ…はぁ…」 一日中陽の差すことがない薄暗い地下室。 三十分前に来た時はコンクリートの冷たい色をしていた床が、今は真っ赤な鮮血に染め上げられている。 鉄柵の扉を開くと、足もとに輸血用のビニールパックがビリビリに引きちぎられていた。 「…く、…うぅ、っあ…」 汚してしまったのは、赤い部屋の隅に蹲る男。 昨日までは穏やかに微笑んでくれた、俺の好きな人。 「…長太郎…大丈夫か?」 そっと囁いてみたけれど、長太郎は薄く口を開き、荒い呼吸を続けるだけ。そこから覗く牙と同じに尖る爪先。床をひっかく耳障りな音が途切れ途切れに聞こえる。 「……く、るしい…咽喉が、焼けそう、……ししど、さん……」 たすけて、ください。 初めて感じる抗いようのない飢え。 長太郎はすでに一晩もがき苦しんでいた。 「たすけ、て…宍戸…さん」 「ああ…わかったよ」 俺は長太郎が好きだ。他の何にも代えがたいほど。 だから…だから、咬んだ。 抵抗されないように、絶対に失敗しないように、後ろからそっと抱きついて。そして、左の首筋に。俺の歯を。 長太郎は突然抱きしめられて驚いたのか、びくりとしただけでなにも抵抗しなかった。 呆気ないほど簡単に、すべてが終わった。 しかし咬まれたことがショックだったのか、長太郎はその数分の記憶を失くしてしまったようだ。今も思い出すことなく、檻に閉じ込められていることすら怪しまず、俺だけが苦しみから救ってくれると信じて、ずっと助けを乞うている。 「辛いだろ?どうして飲まなかったんだ。こんな、部屋中汚す真似して」 辺りには血のにおいが充満して、適度に欲求が満たされている俺でも凶悪な気持ちが芽生えてくる。それは本能。それは性。 目覚めたばかりの長太郎には拷問だろう。 「ほら、新しいの持ってきたから…な?」 汗で額にはりつく長太郎の髪を梳く。 そして赤く、紅く満たされたグラスを口もとへ… 「――やめろっ!」 弾かれたグラスはガシャンと音を立てて砕けた。 長太郎の爪があたったらしく、俺の手首にも血が滲む。ああ、ますます血生臭い。 「そんな…誰のものかも分からないもの…それ、厭な臭いがする…。宍戸さん、それなんですか?すごく厭な臭いがする…きもちわるい…。宍戸さん、ねえ、水を下さい。水…みず…、喉が渇いて仕方ないんです…どうしてだろう……俺、おかし、くて……」 ――“そんな…誰のものかも分からないもの…” 「…やっぱり嫌なのか…?」 咽喉を押さえて呻く長太郎を、俺はそっと抱き起こした。 首をへし折ってしまいそうなほどに力んだ手のひらを解いてやると、自然と俺の背中に回る。 「宍戸さん、やっぱりだめです。そばにいて下さい。どこにも行かないで。一人になったら、気が狂いそうなんです」 「水は?」 「いらない。喉、…渇いてる、けど…」 「腹、減ったんだな?」 俺は微笑むと、長太郎の首に腕を回した。頭が肩に凭れるような体勢を取ってやり、優しく背中を撫でた。 するとそれを合図にしたように長太郎の唇が首筋に触れた。わざと頭を首に押し付けてやったが、まだ理性が勝つのか、舐めたり吸いついたりを繰り返した。 「宍戸さん…俺、」 でも、だんだんと何が欲しいのか気付き始めたようだ。 まるで幼い吸血鬼に手ほどきしているようでおもしろい。 けれど長太郎は本当に苦しんでいるし、早く血を与えないと死んでしまう状況だ。 「長太郎、こっちもしてみろ」 血の滲んだ手首を差し出すと、長太郎はなんの抵抗もなく口づけた。 そしてこくりと咽喉の鳴る音がした。 「そう…何も考えなくていいから、そうやって…」 何度も咽仏が上下するのを見ていると、その白い首に咬みついてやりたくなった。 しばらくすると、長太郎は時折、甘咬みの様なことをしはじめた。だが、まだためらっている。 「くすぐってえな。…もうおしまいだ」 「え…」 身体を少し離して見上げると、長太郎の瞳はすでに獣のように獰猛な色をしていた。離れていく手首を目で追って、そして俺の目を見て「もっと欲しい」という顔になる。それなら力ずくで奪えばいいのに、長太郎はそれをしない。 なぜまだ我慢できるのか、生まれた時から野蛮な生き物だった俺には到底理解できない。けれど長太郎らしくて愛しいとも思う。 「次は、ここに牙、刺していいから」 自分の首筋を人差し指でトントンと叩くと、長太郎はますます辛い顔になる。 「そんな、痛いですよ…!」 「平気だって。なぁ…欲しいんだろ?」 ちょっと手首の味見しただけで、顔色が大分戻ってきた。 早く元気になって笑ってほしい。 花のほころぶような笑顔もいい。けれど口角を上げた唇からこぼれる牙もきっといいだろう。 「その…宍戸さんのは、欲しい、かもしれないです……でも、傷つけたくない」 甘く潤い、揺れる瞳。 それでも飢えた荒い息遣いは止まらない。 人間ってつくづく弱い生き物だ。 でも俺は長太郎のそんなところが大好きだった。そして離れていくのが怖かった。 「好きな人は、傷つけたくない」 これから長い長い時を共に過ごすことになる。せめて、同じ歳になるまで待てば良かっただろうか。いや無理だっただろう。 吸血鬼の衝動的な性質はこんな時よろしくない。 「俺はおまえを傷つけられるよ。どんなに好きでも平気」 「宍戸さん…本当…?」 長太郎は俺の答えに驚いて呆然とする。しかしすぐにハッとなり、眉を顰めた。 「…宍戸さん……そうだ、あの時、俺に……」 ああ、俺がおまえを咬んだこと、やっと思い出してくれたんだな。 「そう。おまえのこと、噛んだよ俺は」 「…どう、して…っ。まさか、俺、」 長太郎は動揺しきって、額を抑えて震えだす。ようやく“飢え”の正体に気がついたのだろう。 涙が一筋、溢れてこぼれた。 「全部俺がやった。ごめんな」 そっと抱きしめ、慰めるように頭を撫でた。何度も何度も。 長太郎はサーブがうまくできたりすると、こうやって褒められることを子供扱いしないでと言いつつ喜んだから。 「俺のこと、殺したいほど憎いか?それなら、銀の銃がいい。おまえの髪と同じ色だから」 耳元で鳴り響いたブツリという皮膚の裂かれる音。 血の抜かれる心地良い感覚に目を閉じる。 もし殺さないなら長太郎はずっと俺の傍にいてくれるだろう。 俺以外の血が飲めないなんて、呪いなのかアレルギーなのか知らないが最高の奇跡だ。 今なら十字架にも祈れそうだ。 End. 前 次 Text | Top |