◇パラレル | ナノ



僕と所長と雪女


弁護士を目指して勉強に試験にと明け暮れていた日々は、将来へ大きな夢と希望を抱いていた。
きれいなオフィス。高層ビルの一フロア。東京の一等地もありえる。そんなところには仕事の出来る上司がいるはずだ。そして自分は、そこで同期達と切磋琢磨しながら、忙しくも充実している毎日を送る――そんな未来が、きっと待っているのだと。

ところが今、俺は片田舎の寂びれた法律事務所で、灯油ストーブにあたりながら必死に凍える指先を温めていた。
東北地方でも豪雪地帯と言われる県だ。ここのところ大雪が続き、室内温度計は常に一桁の数字を指していた。

弁護士の卵は、一人前になる前に司法修習を受けるため、全国各地に飛ばされるのだ。
それにしてもこんな過疎地……素敵なオフィスライフに強い憧れを抱いていた俺には大打撃だった。
しかも、もうひとつ。
大、大、大打撃が。

「おっす、長太郎」
「っ冷た…!!」

ようやく指先が温まってきたところに、背後からいきなり首元に抱きつかれる。俺は瞬時に伝染してきたその冷気に飛び上がった。

「宍戸さん!」
「くっくっく。その大げさな反応、一日一回は見たくなるな」
「こんなこと毎日してたら俺死んでしまいますよ!」

そう言うと宍戸さんは両手を腰に、ポニーテールを揺らしてハハハなんて笑っていたけど、可能性はゼロではないのだ。
俺が大げさなんじゃない。
宍戸さんの身体が冷たすぎるんだ。
では、それはなぜか。
宍戸さんが人間じゃないから。

「まったく、この事務所もどうかしていますよ…なんで雪女が事務員として働い」
「ちがーう!俺は雪男!お前が想像してるような、毛むくじゃらじゃないのもいるんだよ!」

そう。この人は雪男らしい。
長い黒髪、白い肌、こんな真冬に着物と草履なんていう、かなり雪女のような見た目だけど。
だから俺は触れられるたび氷のような体温に飛び上がってしまうというわけ。

妖怪も今の時代は人間を脅かすだけでは食っていけない、とは宍戸さんの受け売り。
宍戸さんはここの所長である忍足さんに昔拾われて、以来ずっとここで働いているのだそうだ。
雪男だとしても、3ヶ月前にここに来た俺には頭の上がらない先輩である。
最初はものすごく驚いたけれど、人間の慣性とは大したものだ。

「雪男なんて言われても…その髪、雪女っぽいですよ」
「キレイだろ?毎朝、八甲田山の冷た〜い湧水で丁寧に洗い流してるからな」
「うわ。聞いてるだけで身体が凍りつきそう」
「なんだよ。よく見惚れてるくせに」

図星をつかれ面食らう俺を、宍戸さんは笑い、半纏をポンと投げてきた。

「ははは、カワイー反応。それでも着てろ」
「…からかわないでください…」

踵を返す宍戸さんのポニーテールが黒く艶やかにひるがえる。
こんなやりとりも、もう何度繰り返したか。
俺はしぶしぶと半纏を着込み、すぐ隣の机に戻った。
逆に宍戸さんの机は、ストーブから一番遠い、冷気の残る部屋の隅だ。
パソコンのキーボードを打ち始めた宍戸さんの瞳は、きりりと真剣な色になる。
宍戸さんはよく俺をからかったり、ふざけたりしているけど、仕事となるとすごく真面目だ。
だから俺は、その手が氷のように冷たくても、ちょっかい掛けられても、宍戸さんを嫌いになれない。

「は、は……っくしゅ!うう…やっぱり寒い、この部屋…」
「ったく、都会育ちの坊ちゃんはうるせーなぁ!適温だろ!」
「ど、どこが……わふっ」

宍戸さんは苛々とした様子で、マフラーやブランケットと、周りにある物で俺を手当たり次第に包み始めた。と、その時、事務所の扉が開き、部屋に冷たい風が吹き込んできた。

「ただ〜いま〜!帰ったで〜!」
「おう、忍足。今コーヒー入れてやる」
「おおきに」

賑やかな方言とともに入ってきたこの人は、俺の働く「忍足法律事務所」の所長、忍足さんだ。
もっともらしく紹介してみたが、事務所に勤めるのは俺と宍戸さんを合わせた、この三名だけだ。こんな田舎だと、これで人出が足りてしまうのだ。
忍足所長はドアを閉めると、さきほどの俺同様、灯油ストーブの前にしゃがみこみ、かじかんだ手を擦り合わせていた。

「忍足所長、お疲れ様です」
「おう鳳、お疲れさん」
「裁判所の方はどうでした?」
「ん。必要書類も提出してきたし、訴訟人の奥さんともなんとか話まとまったわ。…いやいやあの奥さん、美人やけどヒステリック気味でな、興奮すると口走る方言が聞き取れんねん…」

忍足所長は愚痴りながら曇った眼鏡を外し、ハンカチで拭いている。

「けどまぁ、ひと段落やな。鳳、お前仕事どう?進んだ?」
「はい。あとはこれを少し直して…」
「おん?なんや、それまだ一日余裕あるやん」
「あ、はい」
「よっし、今日は終わりや!」
「…へ?」
「亮ちゃーん、飲み行こぉ。あったかーいおでん食いたいねん♪」
「え?あの、ちょっと…!?」
「おい、亮ちゃんって呼ぶなって言ってるだろ。…ところでそれは忍足所長の奢りでしょうね?」

宍戸さんはパソコンを閉じ、立ち上がった。
表情は怖いけど飲む気満々じゃないか、宍戸さん。

「え?こんなときだけ所長扱い?ははは、しゃーないなぁ。ほなその着物からチラリと覗く脚線美に免じて!はははは」
「凍死したいのか?」
「うわ、鳳〜。亮ちゃん冷たいんやけど〜」

なごやかに(?)会話する二人に置いてけぼりで、俺は慌てて忍足所長に抗議した。

「あの、俺、仕事残すなんて気がかりなんですが…その…!」
「なにカタイこと言うてんねん。たかが町弁がそない細かいこと気にしとったらアカンで。さ、ほらほら」
「長太郎、忍足の奢りなんだから気にすることねーぞ。ほら」
「えっ、ちょ、ちょっと待っ…」










大概のことは2対1(忍足所長&宍戸さん対俺)になる。
だから、毎週一度は開催される飲み会が中止になることなんてない。
俺はテーブルに置かれたおでんの土鍋を見つめて溜め息を吐いた。
いいかげん学習するべきだよな…。

「っかぁ〜!うまい!」
「おっ、亮ちゃんイイ飲みっぷり〜!ヨッ、雪男!」
「はは、意味わかんねえし」
「もう、二人とも、ほどほどにしてくださいよ?明日も仕事なんですから」
「うるさいこと言わんと飲めや鳳。ってお前が一番弱いんやから気を付けや」
「歓迎会ん時みたいにトイレで潰れんなよ〜」
「……」

俺はいまだ乾杯のビールをちびちびと飲みながら、二人の間に置かれた芋焼酎の瓶をちらりと見やった。うぅ、匂いだけで酔いそうだ…。本当にこの二人は…。
でもかなりの酒豪達なのは事実。忍足先輩はそれなりに飲めば酔ってくるけど、宍戸さんはザルみたいだ。

この田舎町にもずいぶん慣れてきたけど、一風変わったこの二人にはまだまだ驚かされ続けるんだろうな。
雪女…じゃなかった、雪男なんていう宍戸さんもそうだけど、妖怪を雇っている忍足所長もそうとう変わり者だと思う。
彼に関することは、昔は都会の大きな事務所で敏腕弁護士として有名だったとか、バツイチらしいとかいろんな噂を聞くけれど、本当のところは分からない。本人もそういうことは話さないし。
ってまぁ、それはいいんだけど。

「長太郎、追加頼むけどなんか食うか?」
「え、あ…じゃあ、なんか魚食べたいです」
「えーと、魚、魚……“ほっけの一夜干し”“鯖の味噌煮”“子持ちししゃも”……」
「ししゃもください」
「お、俺もそれがいいって思ってた」

宍戸さんは微笑んで、忍足所長にもメニューを差し出していた。
俺は二人を眺めながら、ぼーっと今の光景を思い返した。
――今の一瞬の笑顔、よかったな。
そのあと、忍足所長の方を振り返った時もよかった。ポニーテールが揺れて、きれいだった。
別に人間観察(いや妖怪観察か?)が好きなわけではないけど、宍戸さんって不思議と見つめていたくなる。
お酒がまわってきたというより、たぶん店が暑いのだろう。宍戸さんの横顔はほんのり赤くなっていた。
こうして隣に座っていても、冷気は感じない。

ところで、こんなに暑いと宍戸さんが溶けてなくなってしまうんじゃないかと思う方もいるだろう。俺も初めは心配だったけど、そんな怪談どおりになったことは一度もない。
雪男も暑いと汗をかく。それだけ。
でもやっぱり人間よりは汗をかくかな。忍足所長によると、夏なんて午前と午後で浴衣を着替えるらしいから。
『その浴衣がまたお洒落でファッションショーみたいやで〜』なんて、何を想像しているのかニヤつく忍足所長を、宍戸さんは殴っていたけど、ちょっと恥ずかしそうだった。
あの狭い事務所だし…、男同士だし…、ささっと忍足所長の目の前で着替えちゃうとか?
って何を考えているんだろう俺は。

「まだ頼むのあるのか?」
「へっ?」
「こっち見てたろ。追加?」
「え、あ…ち、違いますよ!」

俺は慌てて目を逸らしたが、宍戸さんは首をかしげている。
その視線から逃れるように俺は手もとのグラスを掴み、残りを一気に飲みした。
すると、忍足所長がニヤニヤしながら俺に話しかけてくる。

「ふふ、鳳くん。さては君…」
「な…なんですか、忍足所長…」

眼鏡の奥で光る忍足所長の視線も、俺を見つめる宍戸さんの視線も怖くて、俺はきょろきょろと目を泳がせた。
怯える俺に、忍足所長は断言した。

「さては、髪フェチやろ」
「……はい?」
「髪ふぇち?忍足、ふぇちってなんだ?」
「フェチってのは身体の一部とか一種の服装とかが好きで好きで、ときめいてしゃーない!っちゅー病気みたいなもんやな。鳳は宍戸の髪よう熱心な目で見とるし、髪フェチなんかなぁって」
「み、見てませんって!」
「いーや。無自覚でも相当や」

俺はまた反論したけど、忍足所長は柳に風といったように飄々と受け流してしまう。
隣に座る宍戸さんからの視線も感じて、俺は妙な汗をかいた。

「ふうん」

しかし、宍戸さんはそう感心なさげに呟いて、またメニューを眺め始めた。

「……」
「なんや宍戸、うわーとかキャーとか反応ないんか」
「キャーってなんだよ。ねぇよ」
「せやって自慢の髪なんやろ?俺が褒めたら喜ぶやん」
「え」
「あーもううっせぇな!眼鏡氷漬けにするぞ!」
「亮ちゃん怖…ってお酒が氷に…!!」

忍足所長は涙目になりながら、グラスを逆さに振っている。
焼酎は宍戸さんの力により瞬間冷凍されており、一滴もこぼれることはない。

「すいませーん!ししゃもと柚子アイス」
「はいよ」

宍戸さんは無視して店員に注文する。

「…宍戸さん、もうシメですか?」
「え?…いや、店暑いから」

宍戸さんはそう言うと、俺と目も合わせずに、そっぽを向いてしまう。
そこにまた忍足所長が絡んでいって、二人で会話だか喧嘩だかわからない騒ぎが始まった。
目の前で黒く艶やかなポニーテールが揺れていたが、俺はそれより宍戸さんの視線が欲しいと思ってしまった。




End.





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