◇パラレル | ナノ



壺中の天 3


何も見えない。
音の無い闇はしばらく続いたのか、それとも一瞬であったのか。
地に足着いたと思ったら白い光に突き刺され、反射的に目をぎゅっと瞑った。

「おい、長太郎」

その声にハッとして無理矢理に目を開いた。
満ちた月の光に包まれた、穏やかな夜。
やはり、そこには視界一杯に青い草原が広がっていた。
そして少し向こうに静かな池と朱色の橋と、小さな古めかしい東屋がある。
虫の音が何処からともなく響いてくる。
ここは、昨晩の夢で見た、あの。

「長太郎って。何回呼ばせんだよ。俺は此処だ」

昨夜と同じく、髪を一つに結い、見慣れない着物姿の男が橋の手すりに腰掛けている。
その表情も、変わらず嬉しげなまま。

「あ……」
「こっち来いよ」

その声に、その顔に、言葉を失ってしまった。
しかし足はそれを目指して歩を進めていく。

「早く」

そう言われれば自然と急いた。
鳳が橋の淵に辿り着くと、男は手すりから降り自分も鳳の方へ歩み、手を伸ばした。

「逢いたかった」

ふいに抱きすくめられ、身体が硬直する。
見知った顔をしたこの人は、どうして自分を抱きしめているのだろう。
自分は、こんなに熱い抱擁を知らない。

「長太郎」

ますます腕に力を込め、身体を熱くするこの人にどうして良いのか分からない。

「長太郎、逢いたかった」

こんなにも求められて、どうしたら良いのだろう。
鳳は宙を彷徨う両手が汗ばむのを感じながら、結局何も行動出来ずにいた。
けれど堰き止められていた声がようやく喉から漏れた。

「し、しど、さん」

そうとしか考えられない。
その顔もその声も、大好きなあの先輩の分身かのように何処として違わない。
近頃会いたい気持ちを募らせている宍戸がここでは「逢いたい」と鳳に言ってくれる。これは、胸の奥底にある願望の表れなのだろうか。
宍戸にこんな熱い抱擁をさせてしまうほど、自分は彼に会いたいという欲求を胸に溜めこんでいたのか。
そう思うと羞恥心が湧いてきて、どうすることも出来なかった。

「長太郎」

尚も宍戸は熱を帯びた声で鳳を呼ぶ。

「宍戸、さん」

本心が鏡に映されているようで、突きつけられた感情にただ動揺してしまう。
これではまるで自分が思っていた以上に宍戸に思いを寄せていると言われているようだ。
現実ではないと頭の隅では分かっていても、宍戸の顔を見ることなど出来ない。

「長太郎……」

それでも、初めて聞く宍戸の甘い感情的な声に鳳の冷静な気持ちは次第に薄れてきた。
そして心の底にある感情が剥き出しになっていく。

これは現実ではないのだ。何も宍戸に遠慮することはない。ここは自分が生み出した空想の世界なのだから。
気持ちを抑えることはない。そうしたいと思うのなら、すればいい。
自分も彼に会いたいと思っていた。
会って、それから、触れて欲しい。
そう願っていたのだから。
これは、現実では、ないのだから。

「宍戸さん」

鳳は理性の糸が切れたように、寄せられた宍戸の身体を抱きしめ返した。
宍戸はきつく抱きしめていた腕の力を少し抜くと、安心したように息をほうっと吐いた。

「長太郎……」

抱き合ったままで、宍戸の頭は鳳の肩にもたれていて、互いに顔は見えない。
一度心を開いてしまえば、想いは口から溢れだす。
鳳は宍戸の身体の感触を自分の身体に刻みつけながら、震えそうな声で囁いた。
唇がうまく動いてくれないのは伝えたい気持ちが大きすぎるからなのか。

「俺も……会いたかったです。ずっとずっと、宍戸さんのことばかり考えてました」
「そうか」

宍戸は括った黒髪を揺らし、肩に頭を預けたまま鳳を見上げた。
触れてしまいそうな近さでその漆黒の瞳に捉えられるのは、恐ろしいほどに鼓動を速めた。
その鮮やかな笑みも心臓を締め上げるようで。

「じゃあ、今夜はずっと、こうしていよう」

その喜びを奏でるような声も、身体中の神経を甘く痺れさせた。




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