壺中の天 1 中天に浮かぶ、大きなまるい月。 濃紺の空に浮かぶ雲はゆっくりと流れ、いたずらに月光を遮断する。 開けた視界はどこまでも草原で、ところどころ名前の分からない白い小花が咲いている。 照らされた場所は青く光り、そうでない場所は蒼く翳る。 辺りは薄青のフィルターがかかったようだ。 「おい、長太郎」 鈴のような夏虫の声に紛れて優しく呼ばれた。 誰?……いや、この声はよく知っている。 「長太郎」 ああ、ほら、思い出せ。 ついこの間まで毎日のように呼ばれてただろ? 声のする方を見ると、草原ばかりだと思っていた景色にぽつんと一つ、池があった。 黒光りした石でぐるりと囲まれた池の端では、睡蓮が堅い蕾を付けて静かな水面に佇んでいた。 鏡のような池にはまた、月が沈んで。 水の円の真ん中には小さな朱い橋が架かっていた。 橋の先、反対岸には脚を水に浸けた東屋が小暗がりにぼうっと見える。 「長太郎、こっちだ」 その橋の手すりに座って、青白磁色の直衣(のうし)姿の若い男がいた。 髪は高い位置で一つに括り、横髪を少し残して垂らしている。 下駄を履いた足を水面に向けて嬉々としたようにぶらつかせ、早く来いと鳳を急かす。 「また来てくれたんだな、長太郎。俺も、ずうっと待ってた。おまえのこと」 ああ、ししどさんだ。 * ♪〜 「ん……」 部屋いっぱいに鳴り響くアラーム音で目が覚めると朝だった。 大音量でクラシックを奏でる携帯電話に手を伸ばして液晶画面を開くと、いつもならすでに朝食を済ませている時間が表示されていた。 完全に寝坊した。 「やべ!―――わっ」 鳳は飛び起きた拍子にベットから転がり落ちた。 「いったぁ……」 しこたまぶつけた膝が痛い。 でも、そんなことに構ってられない。 鳳は膝をさすりながら慌ててクローゼットから制服とテニスバックを取り出した。 夜更かしをした訳でもないのに何をやってるんだ、自分は。 今日という日は絶対に遅刻できないのだ。 家を飛び出して全速力で走ったからなんとか部活には間に合った。 しかし髪は寝癖がついたまま、急いで着込んだ制服もどこかだらしない。 今日は久しぶりに宍戸が部活に顔を出しに来るというのに。 跡部率いる3年生陣が引退してから、今日で一週間が経とうとしていた。 コートへ向かうとそこには宍戸の姿があった。 「よぉ、長太郎」 「宍戸さん。おはようございます」 氷帝男子テニス部専用ジャージに身を包んだ宍戸は久々に見る。鳳は思わず目を細めて笑った。 「おまえギリギリだぞ……つか、頭ぐしゃぐしゃな!」 激ダサ。 そう言って宍戸がプッと吹き出す。 鳳は自分のあられもない格好のことなど宍戸を一目見てすっかり忘れていた。 「笑わないで下さいよう。……ちょっと寝坊したんです」 鳳は笑われて恥ずかしいのと宍戸に会えて嬉しいのが混ざって妙な気分になった。 しかし喜びの方がやはり大きい。 「まぁ、おまえが寝坊って珍しいよな。つか、引退前は俺のが遅刻してたし」 鳳は今まで一度か二度、遅刻したくらいだ。 昨夜はどちらかというと早めに就寝したのだが。 いや、ただ眠りこけていたわけではない。 あの不思議な夢から醒めることが出来なくて―――。 「……今日はなんか、夢見ちゃって」 夢なんていつもなら起きたときには憶えていても、すぐに忘れてしまうというのに。 ずっと頭から離れない、一碧万頃の月夜の草原。 そして、自分を呼ぶ優しい声――― 「んだよ。イヤラシイ夢でも見たのか?」 青の風景へと思い馳せていた鳳に宍戸が茶化したようなことを言う。 「ち、……全然、違いますってば!!」 慌てふためく鳳を見て宍戸は爆笑した。 「あぁ、おまえ本当おもしれぇや。……にしてもしょうがねぇヤツだな。練習終わったら俺が直してやるよ、そのツンツン」 鳳の髪をくしゃりと掴んだ宍戸は口角をきれいに上げて微笑んだ。 きりりとした瞳が穏やかに弛緩する。 この眩しい笑みを見るのも久しぶりだ。 「あ、ありがとうございます」 ふいに胸が高鳴ってしまい鳳は少しどもった。 なぜかこの人を前にすると、心が弾むように嬉しくなる。 前 次 Text | Top |