「耳を激すませば」 まだ薄暗い早朝。 ふと目を覚ました宍戸が自室の窓を開けて下を見ると、遠い異国にいるはずの長太郎が自転車に乗ってこちらを見上げていました。 「ウソだろ」 長太郎は宍戸に気付くと自転車の後部座席を指さしました。 「ま、待ってろっ」 小さな声で叫ぶと、宍戸は家族が起きないよう注意を払いつつも大慌てでマンションを下りて行きました。 宍戸が現れると長太郎は自転車で宍戸の周りをくるりと方向転換して満面の笑顔で言いました。 「奇跡ですっ。本当に会えた!」 「夢じゃねぇよな?」 「飛行機を一日早くしたんです。――乗って下さい」 長太郎は急ぐように自転車の後部席に宍戸を促します。 「あ、ちょっと待って。それじゃ寒いですよ」 そして着ていたジャケットを、着の身着のまま飛び出してきた薄着の宍戸に羽織らせました。 「さぁ乗って」 「俺、コート取って来る」 「時間が無いんです。乗って!しっかり掴まってて下さい」 長太郎は宍戸を後ろに乗せると、冷たく澄んだ空気の中ペダルをぐんぐん漕ぎ出しました。 どこへ向かおうとしているのでしょう。 長太郎は行き先も告げずに話しだしました。 「宍戸さんに早く会いたくて……何度も心の中で呼んだんです。”宍戸さぁーん!”って。そしたらホントに宍戸さんが顔出すんだもん。すごいよ、俺達」 宍戸もこの奇跡としか言いようのない偶然に胸の鼓動が高鳴るのを感じました。 「俺も会いたかった……まだ夢みてぇ……」 揺れる背中にそっと額を寄せると懐かしい長太郎の匂いがしました。 夜明け前から行き交うトラックや車に追い越されながら、二人を乗せた自転車は颯爽と走り続けます。 まだ街灯は白い光を薄く灯していましたが、それもいらないほどに徐々に空が明るくなってきていました。 主要道路から外れて住宅街に入ると目の前に急な坂道が現れました。 宍戸が心配する中、長太郎はサドルから立ち上がりそのまま上ろうとします。 「降りるか?」 「大、丈夫、です。あなたを乗せて、坂道上るって、決めたんです……!」 「……!そんなのズルイぜっ」 宍戸は下りて自転車を押し始めました。 「お荷物だけなんて激ダサだ!俺だって、役に立ちたいんだからな!!」 こんな小さなことでも力になりたいと思う。 もう自分を嘆いたり、ましてや卑屈になったりはしない。お互い支え合い、共に成長していきたい。 一人じゃないんだ。 宍戸は自転車を押す手にそんな思いを込めて、力いっぱい押しました。 自転車はようやくてっぺんを越えると、下り坂に再び滑り出しました。 長太郎はブレーキを掛け、坂の頂上で呼吸を整えている宍戸を急かします。 「宍戸さん、早く乗って」 「はぁ……はぁ……、間に合った」 長太郎が宍戸を連れてきたのは住宅街の外れにある鉄塔の下でした。 「持ちましょうか」 「平気」 宍戸は長太郎のジャケットを持ったまま身軽に段差を下りついて行きます。 「こっちです」 促され鉄塔の裏へ回ると、そこには街が一望できる絶景が広がっていました。 「すげぇ……朝もやで海みたいだ……」 家々が白い波に埋もれ、なんとも神秘的な光景です。 「ここ、俺の秘密の場所なんです。もうじきっスよ」 長太郎と同じようにじっと黙って街並みを見ていると、遠く雲の隙間から燃えるような朝日が昇り始めました。 光に洗われ、生き生きとし始める街。言葉をなくしてしまうほどの光景。 「これを宍戸さんに見せたかったんだ」 宍戸が感動に目を見張っていると、長太郎は計画が成功したことに嬉しそうに微笑みました。 けれどまた朝焼けに視線を戻すと真剣な声をして言いました。 「……榊お爺様から宍戸さんのこと聞きました。俺、何も応援しなかったから。自分のことばっかり考えてて……」 「ううん。長太郎がいたから頑張れたんだぜ。……俺、背伸びして良かった。自分のこと前より少し分かったから。高等部ヘも行こうって決めたんだ」 長太郎のいない2ヶ月、自分を見つめ直し、今やるべきこと、進むべき道を定めた宍戸には、もう迷いなどありません。 そんな気持ちで見る朝日は、なんと清々しいのでしょう。 「宍戸さん、」 すると長太郎がもじもじと言いにくそうに話し始めました。 「あのですね、俺、今すぐって訳にはいかないけど……」 たどたどしい高めの声を宍戸はゆっくりと待ちました。 「俺と結婚してくれませんか」 「え」 宍戸は予想もしていなかった長太郎の発言に驚きました。 「俺、きっと一人前のピアニストになるから。そしたら……」 自分でも信じられないくらい嬉しさが込み上げてきます。 顔が綻んで、自然に言葉がこぼれました。 「うん」 宍戸は頬を赤らめながら、小さいけれどはっきりとした声で返事をしました。 「ほんとですか!?」 長太郎は両手を胸の前で握りしめ、訊き返しました。 「嬉しい。そうなれたらいいなって思ってた」 「そうですか!……やった!!」 長太郎は勢いよくガッツポーズをして体中で溢れる喜びを噛みしめています。 宍戸ははしゃぐ長太郎が寒いのではないかと思い、ジャケットを分けようと腕を伸ばしました。 「待て。風冷てぇ」 しかし長い腕がパッと伸びて、宍戸のほうが暖かな体温に包まれたのでした。 「宍戸さん、大好きです!」 End. 前 次 Text | Top |