◇パラレル | ナノ



狐の灯 2


たまたま一つだけ空いていたという座敷に長太郎は通された。

「おいあんた。まずは風呂でも入ってきたらどうだい?」

先程、屋敷の裏口へ回ろうとした長太郎を引き留めた女が彼の胸にぽんと手ぬぐいを押し付ける。
彼女はここの主だった。長太郎が道に迷ったことを話すと、頼む前に「泊めてやるよ」と快く言ってくれた。

「いえ。タダで泊めて戴くのにこれ以上はいけません」
「ああ?」

女主人は眉間にしわを寄せ、赤い着物の袖に両手を入れながら不満そうに腕を組む。
緩くくつろげられた着物から零れる胸。

「…っ」

そこに艶やかな黒髪が一束吸い込まれているのを見てしまい、長太郎は目を泳がせた。

「あの、ひ…一晩寝床を貸していただけるだけでいいので…」

宿の女将がここまで色っぽい訳がない。それに、屋敷全体が夜中だというのに正月のように賑わっている。おそらくここは殿様や大名やらがお忍びで来る、秘境の遊郭といった場所なのだろう。

「どうせ残りのお客はあんただけだ。入るも入らないも同じだぜ」
「で、ですが…」
「遠慮すんじゃねえよ。さぁ、行った行った」

今度は着替えの浴衣まで押しつけられて、長太郎は女主人に甘えて風呂で汗を流すことにした。



小さいと思っていた屋敷だが、風呂までの道すがらに見た明かりのついた障子と、聞こえる賑わいの様子から、奥は相当の広さだと伺える。すれ違う小間使いの少女達はいずれも盆に旨そうな料理や酒の入った徳利と猪口を載せて、こんな夜遅くにせかせかと忙しそうに働いていた。

「…まるで江戸の花街に来たようだな…」

行ったことなどないけれど。
農村で細々暮らしていた長太郎には、ここはまるで夢の中のようだった。



「なかなか似合うじゃねえか」

檜の香りに包まれさっぱりしてきた長太郎は、まだ部屋にいた女主人にびっくりした。
それから並べられた豪華な食事と、奥には暖かそうな布団まで敷いてある。
これでは別の部屋でお楽しみ中の旦那達と同じ扱いではないか。

「良い湯でした。浴衣も助かります。着物は山を歩いているうちに汚れきっていたので」
「気にすんなって。困った時はお互い様だ」

困った時はお互い様。確かにそうだとは思うが、これでは助けられ過ぎている。しかし女主人は気にする風もなく、あんたはここへ座りな、と隣に長太郎を促した。

「さぁ、腹が減ったろう?」
「本当に何から何まで…ありがとうございます」

長太郎は頭を下げて、女主人に感謝した。
夜半に突然訪ねてきた何処の誰とも知らない自分に、こんなに優しくしてくれるとは本当に心の広い方だ。

「……いいよ。…あ。そうだな、礼に名前を教えてくれ。『あんた』じゃ呼びにくいからな」

そう言って下げられたままの長太郎の頭を撫でる。その指は銀色の髪を梳いたまま、焦れるくらいゆっくりと離れていった。
ぎょっとして顔を上げると、弧を描く黒い瞳に行燈の火が赤く揺らめいている。

「…お、鳳…長太郎、と…言います…」
「鳳長太郎ね。長太郎は、酒は呑めるか」
「ええ、はい」
「では侍女に運ばせよう」







慣れない雰囲気と女主人の色気に委縮しきっていた長太郎だったが、彼女の話が上手いのと酒が回ったせいですっかり饒舌になっていた。
人を相手に商売をしている彼女とは、いくら話をしても会話が途切れない。きっと、大勢の客が彼女の虜なのだろう。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。

「…長太郎…長太郎。もう布団に入った方が良いんじゃないか?」

壁に背を預けて船を漕ぐ長太郎に女主人は心配そうに肩を揺すった。

「だい、じょぶ…れすよ…」
「もう酒はいいだろ。ほら、布団に来い」

そう言って女主人は長太郎の腕を肩にかけて立たせようとする。
長太郎は熱で霞む視界で、彼女へ必死にピントを合わせようとした。

「すまねえ。飲ませ過ぎちまったな」
「ん…」

近くで見ても、本当に美しい人だ。
今なら道に迷ったことを神様に感謝してもいい。

「俺…まだ…あなたと、話がしたい…」
「……長太郎、」

どんなことでもいい。話がしたい。もっと声を聞かせて欲しい。
最初は乱暴だと思った彼女の口調も、愛嬌があって可愛いとすら思えてきた。自分にもお金があれば、今夜だけど言わずにまたこの人に会いに来れるのに。

「ごめんなさい」
「え?」
「俺、は、…客じゃあないんでした…よね。……あなたが気を遣って相手をしてくれるものだから、本当に…本当に楽しくて、つい浮かれて。ご迷惑を」
「……」
「もう、寝ます。明日はご迷惑をかけないよう、早くに出て行くので……。え?あ、あの…、」

長太郎は女主人に手を引っ張られて敷布団まで連れて行かれた。

「寝ろ」

そんなに自分の相手をするのに疲れてしまったのだろうか。申し訳ないことをした。謝ろう。そう口を開いた時だった。

「…長太郎…」

弱々しい声を漏らし、彼女は長太郎を押し倒すとその上に跨ってきた。
するりと自分の帯紐を弛め、肩から着物を少し落とすと顔を近づけてくる。

「えっ、あの、女将さん…っ!?」
「…俺のことは…亮って呼んでくれ…」

指先で下唇を撫でられて、潤んだ瞳に見つめられ、長太郎は誘惑に負ける寸前だった。
しかし長太郎は彼女の露出された肌から視線を逸らし、なんとかその肩を押し返した。

「ま、ま、待って下さい亮さん…っ、お、俺は金も持っていないし、そもそも客ではないですし、そのっ…」
「金?んなもんいらねえよ。いいじゃねえか…俺は長太郎に礼がしたいんだよ…」
「え…?な、なんの…」

すると亮はぴくりと片眉を上げた気がしたが、すぐにもとの、長太郎を誘うような目つきに戻る。

「いい部屋でくつろいで、いいもん食って酒も飲み…あとは女だろうが」

亮は早口でそういうと、長太郎の浴衣の帯に手を掛ける。

「い、いけませんっ!お世話になったあなたにこんな――あっ、」

不意にものを掴まれて、背筋を何かが駆け抜けた。

「いいから」

亮は長太郎の手を自分の胸に触れさせると身を屈める。

「それとも俺は好みじゃないか。長太郎?我ながら良い出来だと思うんだが」

長太郎の頬に美しい黒髪が落ちてくる。
良い出来、とは、自分の容姿のことだろうか。確かにその通りだ。行燈に照らされて浮かび上がる白い肌も、釣りがちな漆黒の瞳も、赤い唇も、すべてに目を奪われてしまう。
肌蹴た素足が絡みつく感触に、とうとう理性がぷつりと切れた。

「あなたほど美しい人に誘われて、どう我慢しろと言うのです」
「我慢しなくていいから、長太郎」





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