◆黒ちょ部屋 | ナノ


向春のみぎり


2年生の今時期の体育は本当にやってられない。
こんなに寒い中、1限丸々長距離走なんて。

けれど日々の部活で基礎体力の身に付いている鳳は、人よりも少し早くコースを走り終えゴールした。
全員が戻るにはもう少し時間がかかるだろう。クラスメイトが息を切らして倒れ込んでいるグラウンド脇の草むらに、鳳も走る前に放り置いたジャージを取りに向かう。

汗が止まらない。
鳳はジャージを着ることなく、タオルを被って瞳を閉じた。
シャツ一枚に吹きつける冬の風はいつもなら突き刺さるように冷たいのに、今だけはとても心地好かった。
苦しい8qの道程も、頭の靄をちょっとだけ拭ってくれたようだ。


「あ。腕ケガしてるよ、鳳君」






その声は、鳳が草むらに仰向けになり腕を伸ばした時に降ってきた。
タオルを首に掛け身体を起こして、彼女の指差す左の二の腕を見る。と、2本の赤い線が走っていた。

「…ああ。ホントだ」
「痛そうね。ミミズ腫れになってる」

激しい運動後の今、血の巡りが良くなっているそこは赤く浮き出て痛々しく見えた。けれど、そう見えるだけで痛みはほぼない。――痛いのは頭の方だ。頭の、ずっと奥の方。

「痛くないよ」

鳳はその筋にそっと指で触れた。

「猫にでもやられたの、それ」
「……怒らせて。…引っ掻かれた」

罰が悪そうに呟くと、彼女は笑った。

「構い過ぎるからよ」
「部屋に来てくれたら、構いたくなるだろ」
「そうだけど〜」

彼女は頭の後ろで一つに括った髪を揺らしてまた笑う。

「ルイちゃんだっけ。今、気が立ってるんだね。2月は猫の恋の季節だから」
「…外に気持ちが行っちゃってるのはいつものことだから、分かるけど」
「まぁ、室内飼いだとねえ」
「…ていうか…俺なんて、そもそも好きじゃないのかも」
「やだ。なに?ペット依存症みたい」
「俺は自分勝手でわがままで、しつこいんだ。分かってる」

鳳は静かにそう言うと、タオルを被って俯いてしまった。

「ふふ。それ、猫のセリフなの?」
「……猫のセリフ」

ぼそぼそしたその声に、ずいぶん拗ねているなぁ、と彼女は心の中でそっと呆れた。
鳳に聞こえないようこっそりと溜息を零してから、ポケットの中を確認する。

「私、絆創膏持ってるけど」

彼女は少し屈んで鳳の顔を覗きこむ。心配そうな瞳をまっすぐ向けられ、鳳は思わず逸らしてしまった。今はそういう善意がいちばん鳳の傷を抉るのだ。

「手当するような傷じゃないから、いいよ」
「けど、念のため…」
「遠藤!女子集合だよ!」

その時、少し向こうで彼女を呼ぶ声がした。

「あ。今行くー!」

彼女はジャージの上着を探ると、鳳に手を突き出した。

「一応持っときな」
「別に貼らなくて大丈夫だよ。……それより、ノド乾いた」
「それはご自分でどうぞ」

彼女はにっこりと気品の良い笑顔を浮かべると、元気に友達のもとへ駆け出した。鳳の胸に絆創膏をポンと押し付けるのも忘れずに。

女子よりも数分遅れて男子にも集合が掛かった。
気がつくと汗も引いてすっかり身体が冷えている。鳳は芝生に投げ出していたジャージに袖を通し、もう誰にも見つからないよう赤いラインを隠した。







授業の帰り道、上着のポケットに入れておいた携帯が震えた。

「おはようございます」

…はよ。
無愛想に返された声。
それは今日はじめて聴いたもので、たった一言ではあったけれど、胸の奥底にまで響き渡るようだった。

「…宍戸さん」

鳳は誰もいない校舎へ続く渡り廊下で、携帯電話の向こうへ耳を澄ませた。
伝わってくるのは冷たい空気だけ。
甘い空気なんて、いつもないようなものだけれど。

「……昨日、……」

宍戸は鳳がゆっくりと零す呟きを黙って待っている。
鳳は瞳を閉じて左手の機械からかすかに伝わる宍戸の気配を辿った。

まさか向こうから電話してくれるなんて思っていなかったのだ。
昨日のことを考えれば当然だった。

やめろと怒鳴られて拒絶されて、引っかかれて、部屋を出て行かれたんだから。

「……ごめん。…なさい」

受話器の向こうの空気が少しだけ緊張感を持った気がした。いや、緊張しているのはきっと自分だけだ。
宍戸は自分のことをあまり重要に見ていない。

だけど。

だけど、電話をしてくれた。
歩み寄ろうとしてくれた。

宍戸は物静かだったけれど、鳳はそれでも救われていた。
もう一度、ごめん。もう嫌がることしないから、と呟いた後、少しの間を置いて19時間ぶりの愛しい声がした。内容は短くて素っ気なく、いつもよりさらに乱暴な口調。

反省したんなら、もういい。
もう二度と勝手なことはするな。
次やったら…ぶっ殺す。

鳳はもう一度「ごめんなさい」と謝った。
許してくれるなら、またそばに居てくれるのならいくらでも言う。

もういいよ。少しだけ柔らかくなった声がした。
胸の奥にわずかな期待がこみ上げる。
やっぱり。やっぱり突き放さないでいてくれる。きっとまた、嫌がることをしてしまうのに。


「宍戸さん」


小さくて欠片しかない愛情でも、手を伸ばし続ける。

離さない。
逃がさない。
どこへもやらない。

気がつくと鳳は左の二の腕をきつく握りしめていた。


「宍戸さん。お昼、会える?…引っ掻いたとこ、絆創膏貼りに来てください」




End.





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