ミ★1st Anniversary! | ナノ
閉園時間 9


目覚めは白い部屋の中だった。
見覚えのない天井を見まわしていると、突然ガタンと何か大きな物音がする。ゆっくりとそちらへ視線を動かすと、パイプ椅子が倒れていて、眼鏡をかけた男が顔を覗いてきた。
男の目は大きく見開かれ「起きた」と呟いた。

ししどさん、だいじょうぶですか?
ここがどこだかわかりますか?

耳に流れ込んでくる音。
はっきり聞こえているのに、どうしても意味が分からなかった。
男は俺の答えを待つことなく、枕もとのボタンを押すと誰かを呼んでいた。


医師によると、俺は1ヶ月ほど前に交通事故に遭い、そのまま今日まで意識が戻らなかったそうだ。
身体中傷だらけだったが、命に関わるものはないらしい。
けれど大きな問題が残された。

「宍戸さんは記憶障害のようです。思い出せるものと思い出せないものがある、部分健忘と言われる種類の」

『宍戸さん』とは俺の名前だった。
聞いても、とくにそうだという実感は湧かない。
俺はただただ、医師の言うことを受け入れていくだけだった。

「残念ながら事故以前の記憶はまだ戻らないようですね。でも、お気を確かに。時間をかけて思い出したという人はたくさんいらっしゃいます」

数日後、見舞いにやってきた夫婦に俺は「亮」と呼ばれて抱きしめられた。
心配そうに涙ぐむその人たちが俺の両親だという。
いきなりそんなことを言われても、悲しそうな顔をされても、どうすることもできなかった。

会いに来る人達に「憶えていない」と告げるたび、残念そうな顔をされる。
家族や友人に会って、俺はかえって塞ぎ込んでいった。
どこへぶつければ良いのかわからない悔しさや憎しみが次第に自分の中に溜まり、へどろのようになって、呼吸を苦しくさせた。

しかし、リハビリに付き合ってくれる若い医者は、そんな俺を憐れむこともなく、下手に慰めることなく接してくる。それだけがほんの少しの救いだった。

「そや。来週は大部屋へ移動ですよ」
「…え」
「外傷の回復も早いですし、いつまでも辛気臭い部屋に一人でいるのはあきませんからね」

彼――忍足先生は、この頃、言葉の節々に油断したように不思議なアクセントを付ける。
俺はこの医者が関西出身ではないか、ということにようやく気がついた。

他にもそういった知識や生活習慣に分類される記憶が、少しずつ思い出されてきている。

「忍足先生。俺、いつ退院できるんでしょうか?」
「ちょっとの辛抱ですよ。頑張りましょう、宍戸さん」

男は丸い眼鏡の奥で目を細めて笑った。




8名分のベットがある大部屋へ移動した俺は、忍足先生が言ったとおり少し辛気臭い気分がやわらいだ。
他の入院患者と話すのは気分が紛れたし、みんなも怪我や病気をしても頑張っているのかと思うと、自分だけ沈んでばかりいられなかった。

今日は散歩へ行きましょう。
忍足先生に連れ出されて、俺は病院の庭へ散歩にきた。

花壇に咲く色とりどりの花。きれいに剪定された庭木。秋の麗らかな陽気に思わず深呼吸すると、忍足先生に「久しぶりですもんねえ」と笑われる。
ほほえましい、といったような笑顔で、俺は恥ずかしくなってすぐにいつもの仏頂面に戻った。

「少しゆっくりしましょうか。どうぞ」
「…すみません」

自販機で買ったコーヒーをおごられて、俺達は庭の隅に置かれたベンチに腰かけた。

「まぁ、僕からもちょっとお話あるんですわ」
「話?」
「事故のことで」
「ああ……」

庭の緑を眺める俺の脳裏に、赤く揺れるさざ波が映り込む。

目が覚めて数日が経った頃から、不思議な夢を見るようになった。
ゆらゆらと血の海に浮かぶ夢。
その夢を見た夜はいつもうなされた。
それで、ただの夢ではないと気がついたのだ。あれはおそらく事故の記憶だ。
何度も何度も見てしまうため、カウンセリングの時に忍足先生に話したが、いまいち掴みきれない記憶なので彼も難しい顔をしていた。
その夢は今でも見続けているが、いつも同じ、あやふやな映像ばかりで、前後の繋がりが現れることはなかった。

「宍戸さんの気分も落ち着かれたと思うのでお話しするんですが……。宍戸さんは、あの悪夢が事故の記憶ではないかと考えていますよね?」
「ええ…」
「実は、宍戸さんのお話と僕の知っている事実はとても違うんです」
「…え…?」

胸が勝手に鼓動を速めていく。
頭ではわずかな記憶が、よく見るあの夢が何度も再生されたが、どこが間違っているのかさっぱり分からなかった。

「もう一度、夢の内容を思い出してみて下さい」
「…俺は……よくわからないけど、その、海か川か…水のあるところへ行って、事故に遭って、溺れて…それで赤い血が、たくさん流れていて……えっ、と、すごく、苦しくて…その…」

次の忍足先生の言葉に、俺の視界は真っ暗になった。

「確かに血はたくさん流れました。死者4名。宍戸さんも含めて負傷者が8名でました」

記憶を失くしていたものだから、はっきりと事故の全容を聞かされたのは初めてだった。
ひどい事故だとは想像していたが、実際に聞くと足元から凍っていくような恐怖を感じる。

「宍戸さん。この病院の裏手に何があるか、見たことはありますか?」

その言葉に凄惨な事故現場から引き戻された意識は、背後に立つ白い建物のそのまた遠くを眺めた。
裏手には大きな山がある。

「僕もたまに行きますけれど、あそこは山間も麓も温泉街なんですよ。とても良い所なんですが…道程はカーブが多いんです。時折、どうしても事故が起きてしまう。…あなたの乗っていたバスも同じ。前方から来た車と衝突して、激しく横転しました。……ひどい、事故やったんですよ」


……俺は、バスに乗っていたのか?


「ですから僕は宍戸さんの見る夢が不思議で」


両親の住む家から遠いこの地で、どこに向かっていたんだろう。
俺は何をしようとしていた?
何が真実なんだ?


俺の中に残ったあの記憶は、全部ただの夢だったのか?
心に残る恐怖が作り出した妄想だったのか…?


忍足先生は白衣のポケットから何かを取り出すと、かすかに震えだした俺の手を取った。

「でも、これが宍戸さんを守ってくれたんやろな。それだけは本当です」

重なる手のひらがあたたかい。
握りしめられた指をゆっくり開くと、見覚えのないネックレスがあった。
止め具の壊れたチェーンと、少し血のこびりついた銀の十字架のペンダントトップ。
それを見た途端、擦り切れそうなほど再生し続けた赤い海の記憶とともに、胸が締め付けられたように疼きだして、俺は理由も分からず涙をこぼした。

「…宍戸さん…」





 ―――…ししどさん





「…なんすか、これっ…見たこと、ないです…」
「あなたの物じゃない、と?」

バス事故の記憶は戻ってこない。
俺の中にはあの赤い海しかない。
でも、いつか俺を呼んだ誰かの声が、確かに聞こえた。
あれはきっと、ただの夢なんかじゃない。そうでなければ、この頬を伝うものは何なのか分からなくなる。

この十字架が、証明してくれたんだ。

「いえ、…これ、俺のです。…きっと、俺の、だ…」

この病院は事故現場から一番近く、多くの負傷者が運び込まれたそうだ。
そして、俺はこの十字架を握りしめたまま搬送されてきた。
他の荷物は崖下の川に流されたのか見つかっていないらしいが、命が助かったことを幸福だと思って欲しい、と忍足先生は強く言う。

しばらくして俺が落ち着くと、病室へ戻らないかと優しく促された。

「こんなところで事故の話してしまって、申し訳なかったです。すみません」
「いえ…。自分でももっと冷静に受け止められると思っていました。…今はもう、大丈夫です」

松葉杖をついて立ち上がる。
負傷した身体が、ふと軽く感じた。まるで、全身にまとわりついていた重たいものを、この十字架が清めてしまったようだった。
太陽光を反射するそれを見ていると、記憶を失くした自分の生かされた意味がまだこの世にあるような気がした。


[* | #]

<< Text
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -