ミ★1st Anniversary! | ナノ
閉園時間 1


意識がふっと戻ってくる。

目を閉じているのに、どうしてかそこら中が真っ赤な色に覆われているのが分かる。


ゆらゆら揺れる赤い波。ゆらゆら揺られる、動かない手足。


辺りには誰の気配もない。
波の音以外はなにも聞こえない。
とても穏やかな気持ちだった。
ひんやりと冷たい無重力に包まれて、瞼を閉じ静かな大海原をひとり彷徨う。まるで深い眠りの中、夢に酔ってしまったようだ。

流されることはなく、沈むこともなく、そしてどこに向かうでもなく、どこまでも続く赤い水面を漂い続ける。

怖いとは思わなかった。
俺は何も持っていなかったから。

何も失うものがなかったから。



やわらかな水の響きは幾度となく繰り返される。
不規則な優しい音色と、ゆらゆら揺れる赤い波。
母の腕の中。子守唄。
覚えていなくとも胸の奥に温もりが込み上げてきて、このまま眠ってしまいたいほどに心地よかった。



 ―――……さん



波音に紛れてかすかに音がする。



 ―――……し…、さん



水よりも硬質で、けれど、とてもあたたかい音。
空っぽな身体の奥に不思議と浸透していく響き。


次第に音が近くなり、

ふと、

なにか掠れた音が、






――冷たい。


繰り返し肌に寄せる波が、氷のように肌へと刺さる。


――冷たい……寒い、ああ、寒い。


どうにか首を動かしてみると指先が真っ青になっている。
冷たい水は体温を奪う。身体に力が入らないのは、そのせいだろうか。

気ままに漂っていたのは違う、水を掻く力すらなくて、泳いで岸を目指すことができなかった。
現実の俺はただ水面に浮かぶことしかできないほどに体力を奪われていた。


――このままじゃ、凍えちまう。


いずれ、漂うことすらできなくなるのでは。
視界が霞んでいくのが分かる。
このまま海に浮かぶ力すら失って……暗く深い水底にずるずる引きこまれてしまうのだろうか。
嫌だ。
怖い。


――だれか、


呟きも音にはならない。もし声になったとしても、ここには俺しか存在しなかった。
誰も助けてはくれない。
ただ赤に揺られているのが、誰もいない世界の穏やかさが、あんなにも幸せだったのに。
それなのに。
あの音が頭にこだまして―――誰かに呼ばれたような気が、して。


――だれか、だ れか たすけて だれ か、


……また、あの音がした。先程より大きくなっている。
近づいているのか。
水よりも硬質で、けれどとてもあたたかい、なぜだか懐かしく感じる音。
探してみても姿は見えない。
その声が近づくたびに、俺の目は霞んでいった。


俺の中にはなにもなくて、なにも失うものは持っていなかった。
でも今は。
でも、今は声を出せないのが苦しかった。
身体が動かないのが怖い。誰もいないのが寂しい。
ひとりは、怖い。
空っぽの心すら、失うことが恐ろしい。









 ―――…ししどさん






その声がした時。
もがくこともできない指を撫でる感触があった。
ぼやけた視界を必死にそちらへ向けると、手のひらに絡まるあたたかさがあった。
でもそれが何かはわからなかった。目も見えないし、指先の神経はわずかな温もりしか伝えてくれない。
でも、もう大丈夫だ、助かったと思った。
そんな保証どこにもないのに、胸のずっと奥の方から安心感が生まれた。
身体は凍えるように冷たいし、意識はいつなくしてもおかしくないほど朦朧としている。実際あと幾ばくかしか保てないだろう。


でも、ほっとしたんだ。

誰かがここへ来てくれたから。
手を、握ってくれたから。






視界が暗く、細く、狭まっていく。

色も、熱も、匂いも感じない。
あのとき耳に触れた、繊細な音色も。
もう、思い出せない。





――もう、聞けねえのかなぁ。


心の中で呟いて、意識は途絶えた。


















俺はひとりじゃなかったんだよな?


俺は、誰かの目にいっぱい映ってたんだよな?








なぁ、俺は、




俺は、誰かの中にいたんだよな?





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