雨の始まり 愛する人 二 真冬の気温の変化は容赦ない。 ようやく芥川家の墓地の前に跪いて亮は一息吐く。 片道二日、農業に慣らされた身体は体力に自信はあったものの日中の寒暖差は自慢の体力さえ奪っていった。 周りは薄暗くなっていて宿の手配をしなければこの墓地に隣接している寺などで野宿になってしまうのに、疲れて足が動かない。 慈郎の命日は明日。 今日はゆっくり宿で疲れを癒して命日のお参りが終わったら長太郎の待っている村へとんぼ返りしなければいけないのに、夕刻独特の下から這い上がってくるような冷気に気力さえも奪われてしまう。 「こんなんじゃいけねぇ…」 やっとのことで寺の外まで出てきたものの、周囲は人通りも少なく小料理屋はあるが宿屋は見つからない。 そういえばここ半日ものを口にしてなかったことも思い出し、亮は重い足を引きずって腹を満たすため一番手前にあるひっそりとした小料理屋の扉を開いた。 「らっしゃい」 小料理屋の親仁はこちらを見ずに菜箸で小鉢に惣菜を盛っていた。 そして店の中には客が一人だけ徳利を傾けていた。 「とりあえず酒と…、ちょっと腹減ってるもんで腹に溜るものを適当に見繕ってください」 「あいよ」 亮は調理場と対面になっている席に先にいた客との間を一つ空けて座った。 その客をちらっと見ると、亮と同じぐらいの年の目が鋭い野郎だった。 「お邪魔しますよ」 一応挨拶がてらに先客に声をかける。 客は声のした方を伺うようにゆっくり顔を向けた。 そして目が合った途端その客の驚く顔を見て何事かと亮も驚く。 はて、自分は初めて会った客に何かしただろうか? 先程挨拶をしただけで驚かれる覚えはない。 もしかしたら自分の顔に疲労の色が濃く滲み出すぎていて、その形相に驚いているのかもしれない。 何だか気持ちが悪い、隣の客に聞いてみないと治まらない。 驚きが消えた顔を猪口に向けてしまった客を一瞥しながら様子を伺う。 ほどなくして調理場から親仁が手を伸ばしてきて熱燗と肴が調子よく置かれた。 まずは一杯、と亮は隣を気にしつつも人肌に温められた酒を一気に煽る。 かっと喉を通った液体が腹に凍みて思わず溜め息が出た。 続けてもう一つと徳利を傾けようと手に掛けたとき、先客が亮を見ず正面を向いたまま呟いてきた。 「…鳳殿はお元気か?」 独り言にはやや大きいその呟きは亮に言っているのであって、まずはそれを理解するのに時間を要した。 そして持ち掛けた徳利を置いてからその呟かれた内容を理解するのにかなりの時間を必要とした。 長太郎を、知ってる…のか? しかも俺までも知ってるってことだ。 さっき俺の顔を見て驚いたのとも関係があることが、こっちが聞かなくてもはっきりした。 「…あんた…何もんだ…」 「その凄味のある口調もお変わりなく、見た目よりもお元気そうで何より…」 「だから名を名乗れって言ってんだよ」 心の中には多少なりとも不安はあるが、それでも亮は持ち前の強気な姿勢を崩さずに詰め寄る。 だが先客は余裕を含んだ笑みを見せて亮の気持ちを逆撫でするだけで問いには応えず静かに盃を傾けた。 「おい!」 「まぁまぁ…酒は旨く呑むに限る。そんなに癇癪させないほうがいい」 「お前から振っておいて…」 「確かに、申し訳ない。そうですね……あぁ、跡部殿の手の者とも言っておきましょうか。花札にも関わったと言っておいた方が真実味があるかな」 「…跡部…か…」 そんなに遠くはない過去を思い出して、あの跡部の手下なら少なからず自分に危害が加わることはなさそうだと思いながらも、心半分は油断せずに浮かし掛けた腰を落ち着けた。 前 次 Text | Top |