雨の始まり 愛する人 三 空きっ腹の酒は亮の頑固な心を溶かしていくには充分で、それに疲労も加わって酒のまわりが早く先客との会話が徐々に成り立っていった。 「文?」 「はい。跡部殿から預かった鳳殿宛ての文を宍戸村へ届けたのが確か…紅葉も美しい秋深い時だったと…」 「そんなの知らねぇ。聞いてねぇな」 「そうですか…」 「でもよ、お前が来たことすら俺は気付かなかったぜ?挨拶ぐらいしたらどうだ」 「亮殿に気付かれず鳳殿に文を渡す任務でしたので、それを実行したまで」 話は弾んできても先客の素性はおろか名すら知らないこの不公平な状況に疑問をもっていない酔った亮は、酒の勢いでねちこく先客に詰め寄る。 「で?その文の内容はなんだったんだよ」 「私も知りません」 「……嘘つくなよ」 「だから文を届けるのが仕事であって中身に何が書かれてようと俺の知ったことではない」 「………」 眉間に皺を寄せ箸で小鉢の中身を突きながら亮は文の内容がなんだったか気にしている。 跡部からの文なら、それは只の世間話しの内容なんかではない。 亮はそれが不安で堪らない。 跡部がもし鳳を江戸へ戻したいのなら、そんな内容の文を亮に内緒で読んで一人で悩んでいるのではないかと思うと亮は胸が締め付けられる。 勝手に文の内容を想像して膨らまし、しまいには両手で目元を覆ってうなだれてしまった亮の様子を徳利に残った酒を注ぎつつ伺っていた先客は暫く無言で亮のことをそのままにしていた。 「跡部殿からの文の内容は知りませんが…、鳳殿が書かれた返事の内容は知ってます」 暫しの沈黙の後、突然の先客からの発言に亮は大袈裟に戸惑った。 「はっ?えっ…長太郎返事したのか…」 「はい。その場で直ぐ書かれてましたよ。俺はその日の内に宍戸村を発つことができましたので」 「そうか…」 聞きたい。 今も村で俺を待つだろう長太郎が何て返書を書いたか知りたい。 でも今は俺の側にいても数年後俺の元を去っていく内容の返事だったら…俺は…首を縦には振れないだろう。 知りたい、けど怖い…。 「鳳殿が何て返事したのか…聞くの怖い、ですか」 亮の心を見透かしたように先客が言う。 亮はうんともすんとも言わずにぐっと盃を空けた。 「…俺はあんたが羨ましいですよ。他人の動向で自分の気持ちが揺らぐあんたが凄く羨ましい…。鳳殿は幸せだ」 「………」 「躊躇いも無く鳳殿は筆をとって…、『亮さんとここで生涯を過すことを御許しください』と、俺の目の前でそりゃぁもうすらすらと書かれてましたよ」 「…へっ?…今、何て…」 「随分酔ってますね…。だから『亮さんとここで生涯を過すことを御許しください』と跡部殿宛てに許諾を得る返書を躊躇いもなく書いてましたよ」 「…嘘だ」 亮はまたもや顔を手で覆って視界を暗闇に持っていった。 先客は呆れた風に肩を竦ませ、無言で店の親仁にもう一本催促の仕草をする。 「嘘か本当か信じるのはあんた次第ですが…、俺の言葉…いや、鳳の言葉を信じてあげられるのはあんただけですよ」 「………」 覆った顔からは分からないが、肩が揺れ始め耳から首まで真っ赤になり顎からてんてんと水滴が落ちているのを先客は見ないふりして親仁から徳利を受け取った。 亮は溢れてくるものを酔いのせいにしようと、猪口を先客の前に乱暴に差し出し酒を注がせる。 「…あいつは…もう、ずっと前から…腹決まってたん、だ…な…」 俺だけが二の足踏んでたということだ。 自分でも気付かなかったこの迷いに長太郎は気付いてただろうか。 ごめんな、長太郎。 帰ったら真っ直ぐにお前に向かってやるよ。 「旨い酒が呑めそうだ!今日は付き合えよ。親仁さんも一杯どうだ!?」 涙の痕を乱暴に拭い、先客の肩をばしばし叩きながら酌をする。 そんな亮の態度に先客も店の親仁も諦めて盃を交しつつ夜が更けていった。 前 次 Text | Top |