欲しい 「まだ、動くなよ」 宍戸が呻くと、鳳は眉をしかめつつ、にこりと笑ってみせた。 「うん。宍戸さんに無理させたくない」 鳳もかなりの無理をしているのは体内に張りつめたそれで分かる。 けれど一番痛いのは自分で、それに先輩だし、鳳はいつもわがままを許してくれるからと、頭の中に御託を並べて従わせた。 ………はぁー……。 宍戸が涙を堪えるように目を閉じてゆっくりと息を吐くと、それきり鳳も喋らなくなってしまい、沈黙が広がった。 熱い体温。 軋みそうな身体。 部屋から生活感が遠のいていく。 カーテンを閉めただけで非日常になる、明る過ぎる自分の部屋。 機械的な時計の音に紛れ、生身の音が響く。 どくん、どくん、どくん。 どくん、どくん、どくん。 きっと鳳にも聞こえている。 ようやく顔から火の出そうなこの体勢を受け入れたのに、今度はこんな些細な音に照れ臭くなる。 目を閉じているから、こんなに耳が澄んでしまう。 そう思って瞼を開けると、鳳が真上からまっすぐに宍戸を見つめていた。その日起きたたくさんの出来事を報告してくる唇は開く気配も無くて、くるくると喜怒哀楽に変化する瞳は宍戸以外なにも捉えていなかった。 鳳の後ろの、見慣れた天井にいいようのない違和感が広がる。 「な、んだよ。見んな」 「……じゃあ。キスしてもいい?」 「……」 そんなこと、いちいち了承を得なくともとっくに許されているのに。 小さく頷くと、鳳はかしこまった手つきで頬に触れた。 飴色の瞳が細く閉じて降りてくる。 山の裾に呑まれて消える夕陽のような光景。 宍戸もふらりと誘われるように瞳を伏せた。 そうして唇の感触を待ち侘びていると、ふと頬に汗が滴り落ちる。 鳳の汗。 額にも項にも胸にも光っていたけれど、とうとう流れ落ちたのか。 頬を滑り、首を伝って。 (俺の汗と混ざるのかな) 唇がそっと重なる。弦を奏でたり鍵盤を弾くその繊細な指先は自分で定めた緩慢なキスに耐えきれないらしく、汗で湿った宍戸の髪の毛を強く掴んで離さない。 不意に触れた胸がこれ以上ないくらい熱かった。 掠めるように触られて、離れていくと衝動的に淋しくなる。 宍戸さん。 口の中へ注がれる自分の名前。 少し高くて人懐っこい声がのぼせそうな言い方をする。 (一番痛いのは俺で、) 「宍戸さん」 耳の奥へ突き抜ける自分の名前。 いつもは一歩後ろから。 隣の、少し上の方から降ってくる声が呼ぶ。 (それに先輩だし、長太郎はいつもわがままを許してくれるから) ししどさん 唐突に湧き上がる愛しさ。 世界には自分達しかいないという、馬鹿げた錯覚。 明るい部屋もこれでいい、顔が見えないなんて嫌だ。 痛くても、重くても、苦しくたっていい。 「長太郎」 欲しい。 このひとときだけでなく、ずっと。 End. 前 次 Text | Top |