生気を失った目、というのをその日憂は初めて見た。
それは、半年前のこと。
憂の日常が壊れたきっかけは、仕事中にかかってきた一本の電話からだった。
自身の携帯にかかってきた、その時はまだ“友人”だった彼からの着信。
「……助けてくれ」
電話の向こうで聞こえたのは、とてもか細い、節の声。意味がわからずどうしたんだ、と憂が聞く前に通話がぷつりとそこで途切れた。
悪戯かとも思った。節はすこしお調子者の面もあったから、自分を驚かせようとしてるのではないかと。
が、その後何度連絡しても電話が繋がらない。警備の仕事も無断欠勤しているという話もあった。
流石に、憂も不安になる。
わざわざ節が働く警備会社に連絡を取り、警察に相談してみてはどうかと伝えた。憂に出来るのはその程度の事だけだ。友人、とは言ったが憂は節の家の場所を知らなかったから。
憂が節と知り合ったのは、まだ憂が入社して間もない頃、残業の日々を過ごしていた時期。
一人オフィスに残って仕事をしていたら、節がひょっこりとライト片手に現れたのだ。
「働くねぇ」
第一声は、そんな感じだった。
なんだこの不真面目そうな奴は、と思ったのを憂はよく覚えている。残業のストレスもあって、節の事を鬱陶しく思ったのもあるが。
だが、毎日顔を合わせているうちに一言二言会話も増えていって、節が自販機で買った珈琲を憂に差し入れしたり、するようになった。お疲れさん、と人懐っこそうな笑みを浮かべながら。
憂も少しずつ、節に心を開く。
どちらかと言えば憂は無愛想で人付き合いが苦手で、明るく社交的な節とは正反対の性格だった。だから、憧れたというか、惹かれた、というか、ともかく節の事は純粋に好きだった。
節は深夜の警備の仕事の他にも、工事現場など肉体労働を主とする仕事を昼間にしているんだ、と聞いてもいないことを憂に楽しそうに話した。憂も憂でそんな話を聞くのは嫌いじゃなかったし、逆に仕事の悩みを節に聞いてもらったりして、残業も悪くないな、なんて考えていた。
彼との時間は、それほど心地良かった。
彼に、何があったのか…
心配はするものの、その時はあくまでも少し仲の良い程度の友人。何があっても他人事で済むだろうと、心の何処かで考えていた。
仕事に追われ、節の事も忘れかけていた頃、再び憂の携帯が鳴った。今度は知らない番号からだ。
「…もしもし?」
「御坂さんですか?」
知らない男の声だった。しかも、関西訛りのある。
「…そうですが」
「俺、新崎吾郎言います。葉山節と同じ施設で育ったもんです。今病院にいるんやけど、アンタも今からこっち来れます?」
「……は?」
聞きたいことが多すぎて、憂は思わず間抜けな声を出した。
節が孤児であったことは本人から聞いている。しかし病院とは、本当に彼の身になにか起こったのか、と。
「聞きたいことは山程あるやろうけど、とにかくはよぅ来てください。節の兄さんがアンタに会いたがってるんや」
「節が……」
そこまで言われてしまえば、憂に拒否する選択肢はなかった。
何より、節の事は心配していたのだ。顔くらい見に行きたい。会いたがっている、というのだから流石に死体ということもないだろう。正直そんな最悪のパターンも考えていたのだ。
そして憂は、死体のがマシだったことを、この後知ることとなる。
病院のベッドにいたのは、最早節ではなかった。節であった、ナニカだ。
「アァァァアがぁあ!!あぁぁあ!!!!!!」
獣のような奇声が、病室中に響いている。ベッドの周りを看護師や医者が取り囲んでいて、麻酔だの鎮静剤だの拘束帯だの、そんな言葉が銃弾のように飛び交っていて。
そのベッドに横たわって…いや、暴れている男が節だと言われても…憂には、すぐに受け入れることが出来なかった。
節は体は大きいし肉体労働してるだけあって力も強いのだろうけど、面倒見が良くて優しくて…犬のように愛らしい笑みを浮かべる男で……あんなケダモノ、違う、と。
「驚きましたやろ」
背後から声を掛けられ、憂はハッと我に返り、後ろを振り向いた。ツナギの服を着た、いかにも土方で働いてます、という雰囲気の男がそこにいた。若干童顔で可愛らしい雰囲気さえあり、節より随分小柄で細身ではあったが、堂々と仁王立ちするその姿は何処か勇ましい。同僚と言われても違和感はない。
「兄さんなぁ、壊れてしもうたんや」
「……」
先程の電話の主だと理解し、その言葉を聞こうとするが、まだ憂は混乱しているのか顰めた顔を緩める事が出来ない。
「……なにが…あったんだ?」
漸く言葉を絞り出せたのは、病室が幾らか静かになった頃だった。看護師達が疲れた溜め息を吐き出している。
「アンタが警察に連絡した方がええでーって言うてくれたんやろ、御坂さん。そのお陰で兄さん命拾いしたんやわ、殺されかけたらしいねん」
憂が考えていた最悪のパターンを、吾郎はさらりと口にする。涼しい顔だが、若干辛そうにも見える。節のことを兄さんと呼ぶのは、偽りの気持ちからではないようだ。本当に家族のように大切なのだろう。
「俺達が施設育ちなんは兄さんから聞いてますやろ?その施設になぁ、兄さんにべったりな小僧が一人おりまして。小僧言うても俺と同い年ですが」
「そいつがどうかしたのか?」
「兄さんの事を監禁したんです」
そんな非現実な、と出かかった言葉を呑み込む。これは現実の話なのだ。現に、節は今別人のようになってしまっている。それで、と続きを促すと、吾郎はベッドに向けていた視線を憂に向けた。
「今思えば昔っからあいつは狂ってはりましたわ。兄さんが欲しい言うたカブトムシをカッターで刺してプレゼントしたりなぁ。兄さんはお人好しやからずっとやんわり注意しはってたんやけど……施設から出て働くようになってからはストーカー紛いのこともしてたみたいです。手紙送ったり5分置きに電話したり。んで、今回の監禁ですわ。兄さんの足、見てみぃ」
吾郎にそう促され、憂は節の足に目を向ける。両方の足首に、包帯が巻かれている。それが何を意味するかはすぐには理解出来なかったが、
「足の腱切ると人間歩けなくなりますから…」
と、吾郎がぼそっと言った言葉に、ゾッと悪寒が走り全身に鳥肌が立った。
「しかもですね、監禁してた場所兄さんの自宅なんですよ。オンボロアパートですが。管理人と警察が来た時はキチガイが包丁持って兄さんの腹ぶっ刺して、自分も死のうとしてたところだったとか」
「そいつはどうなったんだ。……捕まったのか」
「当然ですわ。監禁罪と殺人未遂、捕まらない方がおかしいです」
「……」
「……で、ここからなんですけどね、御坂さん」
「なんだ?」
吾郎が真剣な声を出すので、憂も思わず身構える。だが、なんとなく理解していた。これから先に続く言葉を。
「兄さんの、これからです。兄さんあんな状態じゃ家にも帰れないでしょうし、なにより帰りたくないやろなぁ、自分が監禁されて殺されかけた場所で寝るなんて俺だって出来ませんわ」
「……だろうな」
「ご存知の通り、俺らは里親にも恵まれなかった孤児です。居場所がないんですわ。……精神病棟にでも、ぶち込むしか、ないんやろか」
「精神……」
「だって、そうやろ。こんなん兄さんやない…」
そこで初めて、吾郎は涙声になった。冷静に見えるが、一番事実を受け止められないのは吾郎なのかもしれない。
「……」
気付けば病室から看護師の数が減っており、残った一人もなにかあったら呼んでくださいねとお決まりの台詞を言って部屋から出ていった。
憂はそっとベッドに近付いて、節の体を見下ろす。腹帯をベッドに括りつけられ点滴に繋がれ、うううと唸り声をあげているものの先程よりはいくらか落ち着いている。
「節、わかるか?」
なるべく優しい声で話しかければ、固く閉じられていた節の瞼がゆっくりと開いた。
「ゆ、……ゆう」
自分の名前が呼ばれ、憂は安堵から肩の力を抜いた。お前は誰だと言われてもおかしくないなと思っていた、それほど節は豹変していたから。
「……もう、大丈夫だからな」
何を言っていいかわからなかったが、助けを求められた人間として言うべきことはこうだろうかと自分でも疑問に思いながら、憂は節の額に手を伸ばし、滝のように流れる汗を拭ってやる。
「腹の傷も、大したことはないから…」
吾郎との話の最中、看護師達の会話の中で腹の傷自体はそう深いものではないと言うのを聞いていた。だから、安心させようと思ってそう言ってみたのだが、節の顔が苦痛に歪む。
…しまった、と憂は思った。
死ぬ死なないの傷という話ではなく、殺されかけたというのが節のトラウマになってしまっているのだと、気付いた。
「兄さん」
ひょっこりと、吾郎が顔を覗かせる。無意識かフォローのつもりかはわからないが、話を逸らそうとしてくれるのは憂にとってもありがたかった。
「施設の皆心配してはるよ」
「ん…」
「職場の人らも」
「わかってる…」
「だからはよぉ元気になって、な?」
立派な家族の会話だな…と吾郎と節の会話を聞いて憂は言葉に出さず感心する。
その日はそのまま、吾郎に後を任せ何事もなく帰れた。
その後も何回か見舞いに行った。
しかし、節はもう前のように笑ってはくれなかった。しかも日に日に目の下のクマが濃くなって、顔も少しやつれた。眠れない、食欲がない、節はそう言ってただベッドに横になっていた。
看護師の話では、暴言も酷いのだという。廊下を行き来する看護師の足音にうるさい!!と怒鳴ったり、同室の患者に殴りかかりそうになったり。
退院間近の時には、トラブルを防ぐためか個室に移動させられていた程だ。
犯罪に巻き込まれた被害者の方にはよくあることです、なんて、軽い口調で言われて。
足と腹の傷が完治すると、追い出されるように節は病院を退院した。
ロクな精神面のケアもされずに。
「御坂さん、助けてください」
何処かで聞いたような台詞を、吾郎が吐いた。
その時も憂は仕事中で、自分のデスクで事務処理をしていた。仕事中の着信などここ最近は全て節の事で、疲れた溜息を押し殺しながら慣れた手つきで携帯を耳に当てる。どうした、なにがあった、と静かに問いながら。
退院後、節は吾郎に引き取られた。病院からカウンセリングや心療内科の通院を勧められていた節だが、一向に外に出たがらないのだ、と。吾郎は涙声混じりに憂に言った。無理にでも連れていこうとすれば、思い切り暴れられ、泣き喚かれた、と。
「もう救急車でも呼んで無理にでも精神科に入院させるしかないんやろか、やっぱりそれしかないんやろか」
「……落ち着け、新崎。今、行くから」
吾郎の声は落ち着きがなく、軽いパニックになっているのだと判断した憂は直ぐに立ち上がって通話を切った。今月に入って何度目になるかわからない早退に、上司は渋い顔をしていたがそんなこと構っている場合ではない。
何かあった時のために、と教えられていた住所をタクシーの運転手に伝えて、三十分もしないうちに吾郎のアパートに辿り着く。
予想通り部屋は滅茶苦茶に荒らされており、出迎えた吾郎は目を真っ赤に腫らしていて、額には痛々しい瘤が。右手首には湿布が貼ってあった。暴れる節を押さえようとして受けた傷だろうか。
「……節は?」
傷の事も気になるが、まずはその本人のことである。憂は吾郎の顔を覗き込むようにして問うが、吾郎は口を開くことが出来ずに震えている。震える手で部屋の奥を指差し、そのまま逃げるように部屋の外に出ていった。
節が、見捨てられたように思えた。
勿論吾郎にそんなつもりはないだろう。だが憂は、この時強くそう思った。
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