(本当の家族のように親しくとも、今の節は誰にも受け入れられないのか?)

憂は荒らされた部屋の中で、節の姿を探した。ひっくり返されたテーブル、割れた花瓶。カーテンは破けてしまっている。…こんな短い間で節はどれほど暴れたのだろうか…安定剤を病院からもらっていた筈だが…そんなことを思いながら部屋の隅々まで視線を向ける。

「節、」

節は、部屋の隅にいた。
膝を抱え毛布を被り、俯いたまま小刻みに体を震わせて。まるで雷を怖がる幼子のようだった。
憂はなるべく節を刺激しないようにそっと近付いて、手を伸ばそうとする。

「出たくないんだ」

憂の手が触れる前に、節が顔を俯かせたまま言葉を滑らせた。小さな、しかしはっきりとした口調だった。

「外に出たくないんだ
何処かでまだあいつが見てる
部屋を出るなって言ってる」

「節……」

節の言葉に何も言えず、憂はただその場に立ち尽くす。幻聴なのか、それとも植え付けられたトラウマがそうさせるのか。節の声は本気で怯えていて、そして、必死だった。

電話で、助けてくれと言われたことを思い出した。

(助ける、とはなんだ?)

命だけは救えた、だがこの現状、彼を救えたと言えるのか。憂は自分に問い質す。未だ彼は囚われている。救いの手を求めている。

その時なぜか憂は、過去に、残業をして疲れ切っていたあの日々を思い出した。
温かい珈琲缶を渡された瞬間を。
節の、優しい微笑みを。

(節、)

「御坂さん……」

吾郎が部屋に戻って来た事に気付き、憂は視線を吾郎に向けた。吾郎の目は虚ろで、疲労の色が見えた。

「御坂さん、俺、やっぱりどこか兄さんを引き取ってくれる病院、探しますさかい……それまで協力、してほしゅうて…」

ぽつりぽつりと呟かれる言葉に、節の肩がびくんと飛び跳ねたのを、憂は視界の隅で確認する。

「新崎、少し待ってくれ」

その節の反応に、憂は咄嗟に言葉を吐き出した。感情的になっていた。助けなくては、とこの時、思った。専用の病院で治療するのが最善かもしれない、という考えが頭の隅にあったのにも関わらず、だ。

「俺が……俺が一旦、節を預かる。だから、少し待ってくれ」

ただ胸の底から湧き出た感情のままに。
憂は、そう言っていた。



意外にも節をそこから連れ出すことは苦労しなかった。
節はその頃には吾郎に暴力をふるったこと、迷惑を掛けた事に対して自責の念を感じたのか、気味が悪いほど大人しかった。ただ、部屋から出るその瞬間、足ががくがくと震えたのを見た憂は、タクシーに乗り込むまで節の背中を撫でてやった。


自分の部屋に連れ込むまで、節がまだ上手く歩けない事に憂は気付けなかった。腱を切られたとはいえ傷自体は浅く、リハビリも必要ないと言われていたのだが、歩幅も狭く、ひょこひょこと足を引き摺るように歩いている。

「痛むのか?」

そう聞いてみるが、節は顔を伏せたまま顔を左右に振る。

やはり目に見える傷が原因ではないらしい。この場合は「歩けない」といった一種の催眠状態から抜け出せていないと言えば良いのか。

憂の想像以上に節の心の傷は深いらしい。このままではストレス障害とかいうものに陥るのも目に見えている。



不眠に悩まされている、という話も聞いていた。所謂フラッシュバックというものも起こしているのかもしれない。悪夢を見て飛び起きる…なんてことも、病院で繰り返していたのではないだろうか。

その日、憂は節にベッドを譲り、自分はソファーで一夜を過ごした。
しかし節は一睡もせず目の下にどす黒いクマを作って、カーテンの隙間から射し込む暖かい太陽の光を痛がるように顔をしかめて。そのまま逃げるようにベッドから抜け出して、憂が眠るソファーの前に座り込んだ。憂が、起きるまで、じっとその顔を見つめて。

「幽霊かと思った」

「……ごめん」

視線を感じ、目を覚ました憂は思わず、本音を口にする。寝起きで頭が働いていないのもあったが、つい口にしてしまった。節も自覚しているらしく素直に謝る。それがなんだかシュールで、憂は少しだけ口元を緩める。

さて、と憂は普段の日常のように、朝の支度を進める。今日は平日だった。仕事を休むことも考えたが、今は丁度仕事が忙しい時期で休む訳にもいかない。

節を家に残すことは、躊躇われた。が、昨日家に連れて帰ってから今まで、暴れることなく落ち着いている。無理に外に連れ出そうとしない限りは、大丈夫……だろうか。

とにかく家を出る前に、少しでも節を安心させようと憂は節をソファーに座らせて、その肩を抱いた。が、節は目を合わせようとしない。

「……いいか、節。ここは俺の家だ。だから」

大丈夫だ、と何度目かの台詞を繰り返した。節の目が、床を見つめたまま動かない。

「どこまでだってあいつは追い掛けてくる」

節は瞬きを一切せずに、何処か一点を見つめている。機械のように、感情のない声で、静かに言葉を吐き出して。

「逃げられない。嫌だ怖い」

「節」

「行かないでくれ」

節の手が、憂の手首を掴んだ。
ギリギリと、骨が軋むほど強く。

憂は思わず、息を呑んだ。血の気が引いた。吾郎の顔を思い出した。このまま体を押し付けられ、殴られでもするのかと、身構えた。だが、憂の顔が歪んだのを見ると、節の目が不意に見開いて、強く握った手をぱっと離す。

「ごめん……大丈夫だ。仕事、だろ?」

「…節、……お前が嫌なら…俺は」

「悪かった。大人しくしてれば多分……落ち着く。…いってらっしゃい」

「……」

置いていけない…。憂でなくとも、こんな状態の節を見れば、誰でもそう思うだろう。
節はふとした瞬間に冷静な自分に戻るようだ。我に返る、というべきか。そういう時に、ぐっと湧き出る感情…不安とか恐怖とかを押し殺して、今のように、相手を気遣った台詞を吐く。

元の、優しいお前が、ちゃんとその中にいるんだな…と、そう気付いて、憂は痛む手首をさすりつつ、目を細める。
なら、いっそう放ってはおけないと。憂はこの時決意した。

「節、今日は俺と一緒にいよう」

「……え?」

「お前がまた元気になる方法を、探そう」

見開いた節の目を真っ直ぐに見つめ返し、憂はそう言い切った。

憂はもう一度、節の笑顔が見たかった。
ただ、それだけだった。勿論ただの友人にそこまでする必要はないのかもしれない。同情、という言葉だけではもう済まされない所まで来ていることには、気付いていた。が、やめる気はなかった。
病的なまでのトラウマを植え付けられた節の為に、なにか症状を緩和する手はないかと。ただ、純粋に、節を救ってやりたかった。

外に出られないというのなら、訪問看護という手もあるし、医者に相談して薬だけ処方してもらう手もある。カウンセリングだって、電話で受ける事が出来る。探せば、いくらでもある。病んでしまった節を、癒す方法が−−。

憂は、気付かなかった。気付かぬまま、リビングのパソコンを立ち上げようと、節に背を向けた。そしてそのままパソコンの前に座る。勿論節の為に、症状緩和の為の手段を探す為にネットを利用しようとしただけである。

その行為が、今の節にとって、最悪な行為である事を。
憂は、気付かなかったのだ。

「…っづ!?」

何が起きたのか、その時の憂にはわからなかった。

飛び散る煙草の吸殻と灰の粉に、リビングのテーブルに置かれたままだった灰皿で側頭部を殴られたのだと、気付いた時には、椅子から転げ落ちていて。
握っていたマウスが飛び跳ねて、机から落ちて。繋がれたコードがぶらんと揺れて。

胸倉を掴まれ馬乗りにされて、
霞む視界に振り上げた拳が映る。

「っあ"!」

反射的に腕で顔を庇うものの、拳を受けた右手首がビキィっと悲鳴を上げた。激痛に一瞬体を強ばらせている間にその手首を乱暴に掴まれ、顔から引きはがされたかと思えば、頬を平手打ちにされる。

「…!」

鋭い音が響き憂の髪が乱れる。
やめてくれ、と訴える暇もない暴行の嵐に気が遠のいていく。

「憂に俺の気持ちがわかんの?俺だって好きでこうなってんじゃねぇんだよ」

「……ぶ、し…」

「わかるのかよ!!」

「うあ"っ」

前髪を乱暴に掴まれ体を起こされかと思えば、直ぐ傍のテーブルに顔を叩きつけられる。ちょうど目の下にテーブルの角が当たり、皮膚の下で赤黒く内出血を起こす。

「あ……、か、はっ…」

息を整える暇もない…

「元気になる?なれるなら最初からそうしてる、元の自分?戻れるならそうしてる、頼むからやめてくれ!!俺だって…俺だって……!!」

悲痛な叫びだった。
憂はその時、鬱病患者には元気になって、だとか、頑張れ、だとか、そういう言葉はタブーなのだとテレビでやっていたことを、今更、思い出した。また、無意識に、節を傷付けてしまったのだと気付いて、じわりと、涙が浮かんだ。

「……こんな俺に同情するなんて、お前は相当な馬鹿だよ」

遠くなる意識の中、嫌に冷静な節の声を、聞いた。

そうかもな、と、他人事のように思って。

憂はそっと瞼を閉じた。




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