ただいま、おじさん
おじさんの口から「嫌い」という言葉を聞いただけで肌が粟立つくらいに怖かった。普段そういうことを口にしない人だから余計に際立つ、その言葉の持つマイナスの意味。
嫌い、なんて、言えない。誰よりも好きな人に。
「……どうしてそんな顔するの、右京?」
一歩、おじさんが近付いてきた。俯くと視界に入る黒い革靴。いつも玄関にあって、他にもシューズボックスに何足かある。帰ってきたら磨いているから常にきれいだ。それがまた一歩近付いてきた。
「ねえ右京、家を出たのは何か他の理由があるんじゃない? もしあるんだったら教えてほしい」
「……りゆう」
「うん。ここに来るまでは、嫌いだとか飽きたって言われて終わりかなって思ってたよ。でも……なんでそんなに、悲しそうな顔するの?」
ぼくがもう少し、好きな人に対しても嘘がつければよかったのに。
思ってももう遅くて、また泣いてしまった。おじさんの前だと本当に良く涙が出る。恥ずかしいくらいだ。
「どうしたの? 右京、泣かないで。ごめんね」
おじさんの手が肩に触れたら、もう駄目だった。温かさを知ってしまっているから縋りつかずにはいられない。腕を回し、肩の辺りに顔を押し付けた。
「右京、苦しいことがあるなら言って。ひとりで考え込まないで。怖がらないで俺を、見て。大丈夫」
その言葉を聞くのは何回目だろう。おじさんはよくそう言ってくれるのに、ぼくはなかなかできない。却って心配させているのだとわかっているのに。
「落ち着いて、大丈夫だから……」
抱きしめられ、名前を呼ばれる。おじさんの声はどうしてこんなに優しいんだろう。
「ぼくがいると、邪魔になる」
「どうして?」
「おじさんは、ぼくを拾って愛してくれた。でもそんなことを誰かが知ったら、やっぱりおかしく思うよ。人を拾うなんて、変だから」
「……まあ、それはね」
「もしそれを、おじさんの仕事の人とかが知ったら、おじさん、変な目で見られちゃう。全部が、なくなっちゃうって。だからぼくは、おじさんの傍にいないほうがいい」
「……そっか、なるほどね」
そういうこと、と呟いておじさんの手がぼくの後頭部あたりをゆっくり撫でた。
「普通の企業だったらそうかもしれないね。社員の素行が悪ければ、会社の評判から利益に繋がるから。でもね、右京。俺がいるところは企業じゃない。その心配はないと思う。みんな変な人だから、俺以上にやばい秘密がいっぱいあるよ。でもそれは仕事に関係しない」
「……どうして?」
「舞台裏がごたごたしても、表がなんともなければ幕は開く」
「……おじさん、職業、なに?」
「国家公務員みたいなもの、かな」
にこ、と笑ったおじさん。
「右京、帰ってきてくれる?」
「本当に、いいの」
「うん。心配なら右京の戸籍、俺のところに移しちゃおうか。きちんと手続き踏んで」
「……それって」
「お? ……あ! ええと、そういう意味じゃ……いや、そういう意味でも全然いいんだけど、あの、嫌じゃなければ? ごめんねこの話はもうちょっと雰囲気のいいところですべきだね。ごめんね」
真っ赤になって慌てるおじさんは、胸が焼けると思うほど愛しかった。
「とにかく、何の心配もないから、安心して」
言いながらぼくの頬を撫でる。おじさんの手のひらの体温が気持ちいい。
不安が全てなくなったわけではない。でも、なんとかなりそうな気がした。なんて曖昧なものだろうと思うけれど、おじさんを信じようと思った。ぼくはなんでも、おじさんといられたらそれでいい。
頬に添えられた右手を取り、指先に噛みつく。どうしても我慢ができない。今すぐおじさんの身体中を噛みたくてたまらない。
「……その目は、見覚えがあるな」
ふふと笑ったおじさんは、額にそっと口付けてきた。それからもう一度、強く抱きしめられる。
「……ごめんね。こういうこと言うと嫌かもしれないけど、もう黙っていなくなったりしないで。嫌いになったら嫌いって言ってからにして。俺だめだ、右京が自分の中にいないの、本当に耐えられない」
「ごめんなさい」
「ごめんね、押し付けて」
「ううん、大丈夫」
むしろ、嬉しい。カメラを仕掛けられても構わない。
荷物持っておいで、と言われて一度リビングに入った。
*
「……ねえ、終わった?」
「終わりましたよ。すみませんね、そこで待っていただいて。しかも土足で上がっちゃいました。気持ちが逸って」
「別に。右京は持って帰ってね。他の男のことばっかり考えてる子は趣味じゃないんだ」
「ご迷惑おかけしました」
「そう思うなら今度何かで返してよ。一庶民のお願いなんか、簡単でしょ? 国家間の情報工作に比べれば遥かに」
「……俺のこと、ご存知なんですか」
「そっちが調べてるとき、こっちも調べてるよ。俺のお願い断ったら右京にばらすぞー」
「善処します」
「俺はイイ人だからふっかけたりしないよ。あなたとは長くやっていきたいしね」
「目障りにならない程度でお願いしますね。上司の目に留まったら、蝿だと思って叩き潰されてしまいますので」
「十里木直は怖いからね。気をつけます」
*
「右京、帰ろうか」
伸ばされた手を
「……うん」
躊躇いながらも、取った。
「右京が好きだよ。世界で一番」
「ぼくも、おじさんがすきだよ」
雨はすっかり上がっていた。
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車に乗って
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