さようなら、おじさん
長良 幸兵衛(ながら こうへい)
*
「今日はもう帰れるから、夜ご飯作って待ってるよ」
そんなメッセージが昼休みに入ってきた。おじさんが早く帰ってきてくれることは、いつも変わらず嬉しい。
五時半に授業が終了し、誰よりも早く教室を出る。外はすっかり暗く寒い。下駄箱でマフラーをぐるぐる巻いて靴を履き替えた。
部活動の楽器の音がするロータリーを歩き、敷地を出て交差点。信号が変わるのを待つ。ぴゅうと吹く風に首を竦ませ、柔らかで優しい羊毛に隠れる。
隣にスーツ姿の男性が立った。
周りは会社も多いし、不自然なことではない。しかし何やら強い視線を感じる。
見上げてみるとスポーツでもやっていそうな凛々しい顔立ちが見えた。黒いまっすぐの髪をショートカットにしてきちんと整えていて、その下にくっきりした顔のパーツ、よく笑いそうな大きめの口、肌は少し黒い。シルバーのハーフリムの眼鏡を掛けている。
車のヘッドライトが照らしてゆくその顔をこれだけ見ても、頭の中の知り合いとは合致しなかった。歳はおじさんと同じか少し上、ほどに見える。
目を信号に戻す。早く変わらないかな。今日の晩ごはんはなんだろう。
「……君、出元右京くん、だろ?」
車が途切れた一瞬、降ってきた静かな声。男の人はぼくを見下ろして微笑っていた。
「加賀陵司に拾われ囲われてる男子高校生。ふーん、写真で見るよりずっといい顔してるなあ」
レンズの向こうの目が実に冷ややかであることに気付いた。口元にも酷薄そうな笑みが浮かんでいる。
「……誰?」
「加賀の知り合い、かな。出元くんのこと、公になったらまずいと思うんだけど君はどう思う?」
「……どう、って」
「バレたら加賀が積み上げてきた何もかもがなくなる。今は確実に良い未来が待っているけれど、君がいたら全て台無しだ」
信号が青になった。
しかし男は歩かず、ぼくも動かない。
「大切な人を苦しめたくなければ俺に譲りな、ボク。未成年で身分も怪しい囲われ者のお前よりずっと対等な関係が築ける」
自信に満ち溢れた姿。きっと物凄く仕事ができ、人付き合いも上手なのだろう。社会の上の方にいるような雰囲気が強く漂う。
そういう人にはたくさん会った。物事が自分の思い通りに運ぶことに強い快感を覚える人種。そのためなら手段を選ばず人を人とも思わない。
信号が赤に変わる。
「ぼくといて不幸になるかぼくなしで幸せになるか選べ、って言われたらあの人はぼくを取るよ」
「そうかな。今の地位を手放せる人間はそうそういないと思うけど」
「おじさんはその、そうそういない貴重種、だからね」
「ガキに何が解る」
「少なくともあなたよりはおじさんの内面に詳しいよ。教えてあげたいくらい」
「惚気はいらない。お前は加賀が破滅してもいいんだな」
「早く帰ってきてくれる職場に転職なら両手を上げて賛成。全てをばらしてくれたあなたにも菓子折り持って頭下げてお礼を言いに行くかもしれない」
信号がまた変わりそうだ。早く帰らなければ。おじさんが待っている。
もう一度男を見上げた。
「終わりでいいかな? ぼく早く帰らないといけないんだ。おじさんが待ってるから」
男は、笑った。何とも言えない不思議な笑みで。
青になった歩行者用信号、走って横断歩道を渡る。男は追ってきたりせず、ただあの強い視線を感じただけだった。
「ただいま」
暖色の灯りが点けられた玄関。
靴を脱いでいたらおじさんが来て抱きしめてくれた。
「お帰り」
「ただいまおじさん」
白いシャツがよく似合う笑みを浮かべ、額にキスをくれる。久しぶりに出迎えてもらって、ふわりと心が温かくなる。しかしすぐに冷えた。言葉が蘇ってきたからだ。
もしおじさんが、ぼくのせいで不幸になったら。
黙って見上げる。ああなんだろうこのひりひりした気持ち。しばらく感じなかった、心を内側から突かれる様な苦しさ。
おじさんが、なに? と首を傾げたから、なんでもないと告げる。
大きな手が頬に触れ、それから手を握った。
「手もずいぶん冷えてるね、早く着替えておいで」
部屋に入って、大きく息を吐いた。
あの男に言われたことがじわりじわりと心に来ている。
ネクタイを解いてブレザーもシャツもスラックスも脱ぎ、部屋着になる。黒いセーターとデニム。足元は素足。
廊下に出てリビングのドアの取っ手に手をかけ、また大きく呼吸する。なんだか喉が苦しい。
何度か深呼吸していると、ドアの向こうから話し声が聞こえることに気付いた。
「お前が誰かと暮らすとは思わなかったぞ、陵司」
「あの子は別だよ。一緒にいたい、って、こんなに思うことはなかった。可愛くてたまらないんだ」
「ふん。幸せそうなボケた面ァしやがって。腹立つな」
そっとドアを開ける。
左側の対面式キッチンにいるおじさん、ダイニングテーブルに並べられた料理、ワイングラス片手にソファにいる男。
男が、こちらを見た。
「入って来いよ」
ハーフリムの眼鏡を押し上げ、目を細める。紛れもなく信号のところで話した男だった。
「……おじさん、この人誰?」
キッチンへ行き、服の裾を掴んで見上げ、尋ねる。
「高校の同級生だよ。海外で働いてて、帰国したからって訪ねてきたんだ。びっくりしたよね」
「うん」
びっくりしたというよりも、少し怖い。何をしに来たんだろう。先ほどのこともあり、よくわからないで混乱する。
「陵司、紹介しろよ」
カウンターへ両腕を乗せ、こちらを見下ろしながら言う男。
ジャケットを脱ぎネクタイを抜いた楽そうな姿。ふと、外で会った時と随分雰囲気が違うことに気付いた。明るくいたずらっぽい笑い方と、冷たさとは正反対の少年じみた目の輝き。
しかしやはり、どこか怖い。第一印象のせいだろうか。
「いやだ」
「なんでだよー」
唇を尖らせる姿は子どもじみてもいる。おじさんの手がぼくの頭を撫でた。
「うちの可愛い右京です。これでいいだろ」
可愛いって言ってもらって撫で撫でされて少し嬉しい。ぼくの顔を見ていた男がふぅんと興味深そうに見てくる。
「赤くなってらぁ。可愛いじゃねぇか。もっとこう……スレたクソガキなのかと思った」
「あんまり見るなよ、減る」
背中に隠される。おじさんと男はとても仲が良さそうだ。
ひょ、と顔だけ出して男を見上げた。
「俺、長良幸兵衛。陵司の友だち。さっきはどうも」
はは、と明るく笑う。
「さっき……?」
「学校の交差点のところで会って、なんていうか、警告、されたのかな」
「悪い悪い。高校生と付き合ってるとか聞いて性悪に騙されてるもんだとばかり。普通にいいこっぽくて安心したわ」
ぼくは何も言わないことにした。わざわざこんなことを言われたと報告することもないだろう。
けれど言葉の棘がなかなか抜けないのは、長良さんの言ったことが事実だからだ。
ぼくがいると、やがておじさんを困らせるかもしれない。
食事をしながら話した長良さんは、今度は何か持ってくると言って帰っていった。
見送ってふたりで、クローゼットからおじさんの高校の卒業アルバムを引っ張り出す。
「これ、幸兵衛」
床に座り、前にも見た集合写真を開いて示したのは緑の髪をしたおじさんの隣にいる生徒。背が高くて彫りの深い美形だ。確かに、今見た顔と重なった。
それからおじさんは少しだけ高校時代の話をしてくれた。長良さんと喧嘩して仲良くなったこと、楽しかったこと、たくさん友だちがいたこと、仲間とは今でも連絡を取っていること。
いつもどこでも愛される。おじさんは良い人だからだ。
「……ねぇ、幸兵衛に何か言われたの? 元気無いように見えるし、ちょっと気になる」
「何も」
「本当に?」
「うん。長良さん、いい人だね」
アルバムを片付け、お風呂に入ってベッドへ行く。ただ抱きしめて欲しくて擦り寄ると、しっかり腕の中に入れてくれた。
首筋に噛みつく。
おじさんは嫌がらないで、頭を撫でてくれた。手首に噛み付いても、二の腕に噛み付いても。
「おやすみ」
髪にキスをしてもらってそんなに経たないうちにおじさんが眠ったのを感じた。ぼくは全く眠れない。大好きな温かい腕の中なのに。
あの言葉は、きっと長良さんの本音だ。ぼくがいれば立場を悪くする、という部分。証拠に彼は一度も謝ったり言い訳をしたり、冗談だと言ったりしなかった。今でも大切な仲間だから思うのだろう。いや、もし別の人が聞いても思うに違いない。外聞が悪すぎる。
ぼくを必要としてくれても、それだけじゃどうにもならないことがきっとある。おじさんのことが好きだからこそ幸せにいて欲しいと願うなら、ぼくはどうしなければならないのか。
そんなの簡単だ。
おじさんに拾われ、たくさんの温かさをもらった。手放せないなどとわがままを言っていては、いけない。
ゆっくり腕を抜け出す。温かさがなくなると途端に夜の冷えに襲われた。ベッドの横に立ち、見下ろしたおじさんは疲れているのだろう、眉間に皺を寄せて寝ていた。
クローゼットから荷物をすべて取り出す。ひとつも残さずに。
ぼくのためにとおじさんが買ってくれた食器や生活用品は分別してゴミ袋に入れた。下の集積場は二十四時間だから問題ない。
服をまとめ、旅行用に買ってくれた黒いトランクに詰める。本当はこれでたくさん旅行に行くつもりだったのに。
服を入れてみると、季節ごとに最低限の衣服しか持たない癖は治っていなかったと知った。
着替えて、再度寝室を覗く。
「……おやすみ、おじさん」
合鍵は、もらった携帯電話と一緒に玄関へ置いた。
いい夢だった。身体のすべてが幸せに満たされている。おじさんもそうだったなら、良いのだけれど。
冬に拾われ、約一年。どの瞬間も全て幸せな時間だった。
久々に吸う夜の空気はひどく冷たい。
ゴミを捨て、敷地から出たらすべてが終わり現実へ帰る。
ひとりという、現実に。
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