モーニングコーヒーをよろしく

 マスターはわたしにとって魔法使いのような人である。
 店内で流れている音楽を口ずさみ、わたしがちょっとでも音を外すと「音、外れた」と言って目を細めて笑う。
 わたしが落ち込んでいるとわかると、そっと目の前に置かれる甘ったるいココアに涙が出そうになる。マスター曰わく、わたしはとてもわかりやすい人物のようで、表情に出なくても声のトーンで一瞬にしてわたしの気分がわかってしまうらしい。
 そんなマスターの一つ一つの所作がわたしを惹きつけて、恋におちるには十分な理由となってしまった。
 いかにも面倒なことや細かなことが苦手そうな風体なのに、マスターの煎れるコーヒーは飲むと思わずため息が漏れ、マスターの作る可愛らしいケーキは、おもちゃの宝石を散りばめたようにキラキラと輝いてわたしを惹きつける。
 そして今日もまた、そんなマスターを間近で見られるカウンター席に座り、わたしは流れる音楽を口ずさみながら頬杖をつく。
 カウンターの向こう側でコポコポとお湯を注ぐマスターを見つめながら、わたしはゆっくりと口を開く。

「マスター」
「なに?」
「マスターのこと、好きです」

 手を止めてわたしを見つめるマスターの表情から、その心情を窺い見ることは出来ない。ただ、まっすぐにわたしを見つめる瞳は、いつもよりじっくりと観察をしているように思う。

「マスター……なにか、ないんですか?」
「そうだな」

 先ほどまで身動き一つしないでわたしを見ていたのが、ゼンマイが巻かれた人形のようにカタカタと動き出す。コポコポとコーヒーがカップに注がれ、立ち上る湯気とそのコーヒーの匂いに「待て」と言われた気がする。
 焦るな。焦ったところで結果が変わることはない。
 わたしはマスターに気づかれないよう息を吐く。じっとりと汗をかく両手を握りしめて、ただその瞬間を待つ。
 そして、目の前にそっと出されたコーヒーカップからはゆらりゆらりと湯気が立ち上り、わたしの鼻を刺激する。

「家では自分で入れたコーヒーを一切飲まないんだ」

 不意にマスターは口を開いて、脈絡のないことを話し出した。何が言いたいのかわからず、わたしはマスターをじっと見つめた。マスターの伏せ目がちな瞳は、わたしと重なることはない。

「毎朝同じ味のコーヒーは、どこか虚しさを感じるんだよ。気分も天気も関係なく、どんなときでも同じ味のコーヒーを入れてしまう」
「――それは、いいことだと思いますけど」
「仕事上はね。ただ、オフの時は違った味のコーヒーが飲みたくなるんだよ」

 マスターは視線を上げるとわたしを見つめた。マスターの瞳には確かにわたしが映っていて、恥ずかしくて居たたまれなくなる。

「だから、まず名前」
「……はい?」
「名前も知らずにどう発展させていく気?」

 確かにその通りだ。わたしはこくりと頷いてみたものの、そこではたと、マスターの言葉の意味を考えてみる。

「マスター」
「なに?」
「その言葉、わたしの解釈で受け取っていいんですか?」
「――ほかにどんな解釈ができるんだよ」
「いや、なんといいますか、友達として発展はしたくないな、というのが贅沢な望みなので」

 尻すぼみに小さくなる声が情けなくて、わたしは自然と俯いてしまった。正面からはマスターの視線をひしひしと感じる。
 自分で告白しておいてその返事が怖いなんて、弱い自分に情けなくて涙が出そうになった。

「俺はさ」
「――はい」
「いつか、モーニングコーヒーを入れてもらおうと思ってるんだけど」
「わたし、おいしいコーヒーの入れ方なんて知らないんですが」
「それはそれで、おいしいコーヒーだと思うんだよね」

 マスターの柔らかな声と、いつもより甘い感じのする話し方に、わたしはゆっくりと顔を上げてマスターを見つめた。マスターの表情はやっぱり優しくて、無性に愛おしくなった。
 そして、これからコーヒーの入れ方の勉強をしよう。モーニングコーヒーをマスターに入れるために。

「いつか、コーヒー入れますね」
「そうなるためにも、まずは自己紹介からでいいですかね? 」
「はい、お願いします」

 初々しいように見えて実はいい年の大人たちの最初の一歩は、コーヒーの香りに包まれながら拙い自己紹介から始まったのでした。

「あ、あと」
「なんでしょうか」
「もう少し、歌もうまくなった方がいいと思う」
「……マスターの耳が良すぎるんだと思いますよ」

 まだまだ甘いようで苦い、そんな始まり。


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