ハピネス

「今日さ、大学の友達と飲んできてさ。相談というか愚痴を聞かされてね」
「それは大変だったね」
「まあ、わたしの話もずっと聞いてくれてた子だから、こんな時くらい役に立ってあげたいし」

 深夜一時半を回ったにも関わらず、わたしと、その隣に座る彼は晩酌をしていた。彼が買ってきた大小様々なワインが、都心のビル群のようにテーブルに並んでいる。さすがに今日一日で空けきることはないけど、数日もしたらこのワインたちは一滴も残っていないと思う。
 それだけ彼はワインとチーズを愛している。

「それで、その相談内容って言うのは?」
「浮気について」

 彼は、これも大量に買い込んだチーズの内、ブルーチーズをゆっくりと口に頬張りワイングラスに口を付ける。
 わたしは日本酒派なので、ワインをそんなに飲むことはないし、おつまみもチーズより漬け物や枝豆が好きだったりする。特に、ブルーチーズの美味しさは永遠にわからないかもしれない。

「――浮気のことを美鈴に?」
「そう、わたしに」
「またその子も考えたね」
「笑ってますけど、弘人さんも関係してるんですからね」
「わかってるよ」

 彼、弘人さんは目を細めてわたしに微笑んだ。そして並々とついだワイングラスを一気に空ける。

「それで美鈴はどんなアドバイスをしたの?」
「アドバイスというか、ただ背中を押してきただけかな。そんな男とは別れた方がいいって」
「――じゃあ僕とも別れる?」

 ワインのせいか、少しだけ目を赤くしている弘人さんは、わたしの頬に指を這わせてそのまま唇をなぞる。
 わたしはその手を握り、頬に擦り寄せる。弘人さんの手は大きくて温かくて愛おしい。

「知ってますか? わたしがどれだけ弘人さんを好きかって」
「わかってるよ」
「弘人さんがわたしのこと、奥さんより愛してるっていうことも知ってます」

 わたしはうっとりと弘人さんを見上げて微笑んだ。もしかしたら、この微笑みは悪魔の微笑みに見えるかもしれない。

「たとえわたしと弘人さんは不倫関係でも、そこに愛情があれば法律で定める契約関係よりも確固たるものだと思うんです」
「美鈴」
「弘人さん、わたし弘人さんのこと好きです。多分、弘人さんが思っている以上に」
「すず、僕の話も聞いてくれるかな?」

 弘人さんがわたしを『すず』と呼ぶとき、大抵は愛の言葉をささやくとき。わたしは口を噤み、弘人さんをじっと見つめた。弘人さんはグラスを置き、その手でわたしの頭を撫でながら、いい子だね、と優しく微笑んでくれた。

「僕はすずのことを誰よりも一番愛しているし、その思いは揺るぎないものだ」

 そこで言葉を切った弘人さんは、切なげに眉を下げて、ごめんね、と呟く。わたしはその声にズクリと身体が疼いてしまう。
 ――弘人さんの全てが欲しいと、身体が欲してしまう。浅ましい感情が身体を巡る。

「彼女のプロジェクトが落ち着き次第、離婚届を出すことは決まっている。あと少しだけ、待ってくれるかな」

 もう一年近く待たせてしまっているけどね、と自嘲的に笑う弘人さんに申し訳なくて、わたしは何度も首を横に振る。

「わたしいつまででも待てます。それを分かっていて今、一緒にいさせて貰っているんです。弘人さんの側にいたいから。誰にも、渡したくないんです」
「……すず、泣かないで」
「え……あ、れ」

 いつもならこんなことくらいで絶対に泣かないのだが、今日はお酒の力も加わったかもしれない。拭っても拭ってもとめどなく流れ落ちる涙に、最後は拭うことを諦めてただただ泣いた。
 弘人さんを困らせていると分かっているのに、涙は止まらなかった。

「ご、め、なさい……泣い、たら、弘人さん、困、るのに」
「泣いてるすずには申し訳ないんだけど、顔見せて?」

 きっと酷い顔をしている。俯こうとするわたしの両頬を挟み、顔を上げさせる。

「たまには僕を困らせて、すずを心配させて欲しい。すずはいつも我慢してばかりだから。それに、僕はすずの泣き顔も好きなんだよ」

 弘人さんはクツクツと笑って、何度も触れるだけのキスをしてくる。それがくすぐったくて身を捩る。そして、もっと、もっととキスをせがんでしまう自分自身に呆れてしまう。
 いつの間にか涙は止まり、変わりに別の感情が溢れ出てくる。

「すずの泣き顔はいいね、もっと泣かせたくなる」
「もう、泣きませんよ」
「そう? それは残念」

 弘人さんはいつもの笑顔に戻ったものの、どこか違う気がする。そう、多分だけれど、わたしと一緒の感情を抱いているからだと思う。弘人さんの艶やかで妖艶な雰囲気に、わたしは酔いしれる。どんなお酒よりも強い、美味で甘美なものだ。

「弘人さんて色っぽい」
「色っぽい? 僕が?」
「はい、とても。特に目が。水晶のような不思議な輝きで吸い込まれそう」

 弘人さんの頬に触れて唇にキスをする。ワインとブルーチーズの香りが鼻をかすめ、欲情する身体とは別に、やっぱり日本酒と枝豆が好きだと冷静に分析する自分がいた。
 ゆっくりと唇を離し小さく息を吐きながら弘人さんを窺い見た。

「弘人さんは好きだけど、ワインとブルーチーズだけは好きになれないかもしれない」

 少し目を見開いた弘人さんは、すぐにあの艶やかな笑みを浮かべた。

「それは残念だ」

 お互いおでこをコツンとぶつけクツクツと笑いながら、わたしはゆっくりとソファーに倒されるのを感じながら静かに目を閉じた。
 この腕の中の温もりが、真実の愛だと言い聞かせて。


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