ウツシオミ

 蝉の鳴く声が聞こえる。
 遠くから聞こえてくる――実際は近くかもしれないが――どちらにしても、わんわんと響くその声にどうにも我慢が出来なくなり目を開ける。
 ぼんやりと霞む視界に映るのは、首を左右に振り動く扇風機と、簾から漏れる太陽光によって出来た光と影のコントラストだった。

「……暑い」

 無意識に呟いた言葉と共に寝返りを打つと、背中がじっとりと汗ばんでいたことに気付く。ベタつく肌に服が纏わりつき多少の着心地の悪さを感じるものの、それを上回る睡魔に身体は思うように動かない。ごろりと寝返りを打ちうつ伏せになると、畳のひんやりとした感触と井草の香りが心地良い眠りに誘うようだった。

「なんて恰好だよ」

 わたしは再び夢の中へ落ちかけていたのだが、真上から聞こえてきた声に阻まれた。うっすらと目を開けて、わたしの頭上にあるだろう人物の顔を窺おうと視線を上げる。まあ、誰だか見当はついているんだけれど。

「……不法侵入」
「ちゃんとチャイムは鳴らしました」

 わたしの瞳に陰影を映した人物はため息をついて、わたしを跨ぎ奥のリビングへと進んでいく。

「つうか、この部屋暑すぎだろう」

 一人ぶつぶつと呟きながら窓という窓を開けていく。今まで閉じこめられていた部屋の空気が急に流れ出し、さわりとわたしの肌を撫でていく。

「気持ちいい」
「当たり前だ。こんなくそ暑い中にいたら脱水起こすぞ」
「……喉、乾いたかも」
「お前はバカか」

 眠さで動けないとばかりに思っていたが、そうか、もしかしたら水分不足で動けないのかもしれない。
 夢と現に挟まれて微睡むわたしに、ぴちゃりと水滴が首筋に落ちる。

「っめた」
「水分補給」

 水滴の落ちた辺りをさすっていると、彼の人物は屈み込みわたしの目の前にグラスを置いた。
 その置いた衝撃で、グラスの水がたぷんと揺れる。これを飲めと言うことなんだろう。身体を起こすこと自体億劫なのだが、ここで何か言おうものならどうなるかわかったものではない。
 未だ上から見下ろしている人物を窺いつつ、わたしはずるずると重い身体を起こしグラスに口を付けた。
 一口飲み下すと身体は反応し、水分を要求し始める。それに応えるようにグラスを傾けていくと、飲みきれなかった水がこぼれ落ちて喉元から胸元にかけて一筋のラインを作る。それに気にすることなく一気に飲み干したグラスを置き、キャミソールの裾で口元を拭う。

「仮にも女なんだから、そんな拭き方するなよ。腹、丸見えだろうが」
「タオルも、なかったし」

 胡座をかき、まだ覚醒しきっていない頭を左右に振り揺らす。少しずつ醒めていく意識の中で、無意識に手を伸ばした。その先にいるのは怪訝そうにわたしを見つめる人物――そうだ、この人はわたしの彼氏だ――の顔に触れた。
 頬、鼻、耳、瞼、眉、こめかみ、おでこ、そして唇を親指の腹で撫でていく。一つ一つの感触を確かめるように、これが現実かを確かめるように。

「舜」
「なに」
「呼んだだけ」
「それより、いい加減触るのやめてくれ」

 息を吐いて困ったように笑うも、決してわたしの手を振り払うことはしない。
 わたしはこれが現実だとわかると微笑み、彼にキスをする。唇の感触と温かさから、彼がここにいて、わたしも彼と共にいることを実感できた。彼の頬を両手で挟み、何度も何度もキスをして、一頻りのところで満足したわたしは顔を離し息をつく。彼はその間微動だにもせず、されるがままとなっていた。

「この暑さで頭でもショートしたか?」

 言葉とは裏腹に、彼の手はわたしの脇腹を撫で始める。汗ばんでいないだろうか。そんなことを思いながら、わたしは彼の左胸に手を当てる。

「うつせみ」
「なに?」

 彼は脇腹を撫でていた手を止めてわたしの顔を覗き込む。

「わたしがここにいる、確認をしたかったの」
「……面倒な奴だな」

 彼は至極面倒くさそうに息を吐いて渋い顔をしていた。ただ、わたしはそんな彼の表情も好きだから頬が弛んでしまう。

「何笑ってんの」
「舜のそんな表情も好きだから、ついつい嬉しくて笑っちゃった」
「バカか」

 多分照れ隠しだろう。彼はわたしを抱き寄せて唇を貪り始める。わたしもできる限り彼に応えながら、彼の背中に腕を回した。彼の体温を感じながら背中に爪を立てて、彼が今ここにいる証しを残す。

「爪、立てんな」
「痛いの、好きでしょう?」
「どっちが」

 彼の額から汗がぽたりぽたりと滴り落ちて、わたしの汗と混じり合いながら身体を伝い落ちる。
 今、わたしはここにいる。彼も、ここにいる。それが嬉しくて、わたしは彼の頬に手を伸ばし唇を啄んだ。

「好き」

 こんな言葉じゃ足りないくらい、わたしはあなたが好き。

「だから、離れないで」
「ずっと、傍にいるから」

 彼の存在を改めて感じ取ったわたしは、彼の指を握りしめてゆっくりと目を閉じた。

 蝉の鳴き声は夏の終わりまで続く。


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