- ナノ -




 廊下にコツコツという靴の音が響く。ジェイド先輩の腕に揺られながら、チラリともこちらを見ようとしない彼を見上げた。

「あの……ジェイド先輩……」
「なんですか」
「……ごめんなさい」
「おや、謝るようなことがありましたか?」
「逃げようとしたんじゃないんです。本当です。ただ……」
「言い訳は結構ですよ」
「…………本当です。嘘じゃありません……」

 喉の奥が潰れたように声が出なかった。彼を怒らせたことへの恐怖、後悔、馬鹿な自分への嫌悪。どれも自分が招いたことだった。




 部屋に着くなり、ジェイド先輩は私をベッドへ降ろした。そして、片方の手に手枷をはめると抑揚のない声でこう言った。

「薬箱を取ってきます。くれぐれもここから動かないように。……まぁその足では動きたくても満足に動けないとは思いますが」
「……動きません」

 実際、ジェイド先輩の言うとおり足が痛くて動けそうになかった。心臓の鼓動と同じタイミングでズキンズキンと痛みが響いてくる。さっきよりも痛みが強くなっている気がした。


 部屋を出ていくジェイド先輩を見送って、ため息をついた。

 本当に逃げようなどとは思っていなかった。ただ、ちょっとした好奇心で、試してみたかっただけなのに……。

 さっき見たジェイド先輩の顔が頭から離れない。怒ってるんだと思ったけど、きっとそれだけじゃない。先輩は傷ついたんだ。私が逃げようとしていると思って。私が傷つけた。

 ……あんなこと、しなきゃよかった。

 程なくしてジェイド先輩が薬箱を片手に戻ってきた。すぐに私の手に嵌めた手枷を解くと、跪き私の痛めた方の足にそっと触れた。

「痛っ……!」
「我慢してください。自業自得でしょう」
「…………はい」
「みたところ折れてはなさそうですが、念のため明日医者に診ていただきましょう。今夜はコレで我慢してください」

 そう言って、私の足首に湿布のようなものを貼った。

「この上からこうやって当てて冷やしてください」
「はい」

 いつの間に用意したのか、氷嚢のようなものまで持ってきてくれた。冷やしたことで、痛みがいくらか和らいだような気がする。

 チラリとジェイド先輩を見上げるが、怒っているのかはわからなかった。表情を読み取ろうと見つめていると、視線に気付いたのかジェイド先輩と目が合った。しかし、先輩は視線から逃れるように、すぐに私から目を逸らした。


「さあ、今日はもう休みましょう。僕は談話室のソファで寝ますので、ここでゆっくり休んでください」
「えっ……なんで……ここで寝るんじゃないんですか?」
「僕が居ては落ち着かないでしょう?」
「そんなことないです! 一緒にいてください」

 縋るようにジェイド先輩の寮服の裾を掴むと、彼の手がそっと私の手を取った。

「僕のことが怖くはないのですか? 貴女を攫って閉じ込めるような男ですよ」
「平気です。ジェイド先輩のことは……怖くないです」

 先輩は諦めたように笑うと、そっとベッドに腰掛け深く息を吐き出した。

「……貴女は不思議な人ですね」

 言葉の意味を図りかねて小さく首を傾げると、先輩は小さく笑ってから握ったままの私の手をそっと撫でた。

「一見臆病そうなのに、妙に度胸のすわったところがあるというか……。何をしでかすのか分からなくて、貴女から目が離せません。……こんなことは初めてですよ」

 目を伏せたまま困ったように眉を寄せながら、先輩は笑った。

「……貴女がモストロ・ラウンジに初めて来た時のことを覚えていますか?」
「グリムたちがイソギンチャク生やしてた時のことですか?」
「ええ。サバナクローのジャックくんと一緒に乗り込んでらっしゃいましたね。か弱いお姫様が騎士に守られながらやってきたのかと見ていたんです。しかし、実際にはどちらかというと貴女の方が勇ましかったので驚きました」
「あ、あれは……先輩がみんなのイソギンチャクを無理やり引っ張るから……見てて可哀想でつい……」

 懐かしい。ほんの少し前の出来事なのに、大昔のことのようだ。

「その上アズールに契約まで持ちかけ、裏でレオナさんと手を組んで僕らを欺いた。ただの世間知らずなお人好しだと思っていたのに……貴女には本当にしてやられました」
「それだけ聞くと、私の方が極悪人みたいですね……」
「褒めているんですよ。陸の生き物は脆く儚い。……けれど、美しい」

 そう言いながら、先輩は哀しげに私の手を撫でた。

「貴女はご自分の魅力に気付いていないんです。貴女が笑いかけるだけで、どれだけの者が虜になっているか分かりますか?」
「そんなの……買いかぶりすぎです……。私は何も……」
「それですよ。無自覚なのが問題なんです。でも……それが貴女の魅力の一つなのかもしれませんね」

 そう言って、先輩は諦めたように笑った。


***


 ジェイド先輩は、その後もずっとベッドサイドに腰かけ、私の髪を優しく梳いていた。眠くないのかと問いかけても、貴女が寝てから寝ますよの一点張りで、私が起きている間はベッドには入ってこようとしなかった。ならば早く寝てしまおうと目を瞑ると、規則正しく動く先輩の手が心地よくて、すぐに眠気が襲ってきた。


 寝入ってからどれくらい経ったのか。しばらくして私は猛烈な寒気で目を覚ました。ゾッと背筋が凍るような寒気に、歯が自然とカチカチ音を立てる。掛け布団を引き上げ、出来るだけ丸くなって包まるようにしていると、隣で大きなものが動くような気配がした。

「寒いですか?」
「あ……ごめんなさい、起こしちゃって……」
「いいえ。……熱がありますね。怪我のせいですかね。あまり酷いようなら医者を呼びますが……」
「へ、平気……平気です。行かないで……」

 熱のせいだろうか。心細くてたまらない。

「では、毛布を取ってきます。このままでは辛いでしょう」
「いやです、行かないでください……」
「すぐ戻ります。すぐに」

 大丈夫ですよ。そう言って、先輩は私の髪を撫でる。先ほどと同じ優しい手つきに、ほんの少しだけ心細さが和らいだ。



 ジェイド先輩が持ってきてくれた薬を飲んで、蓑虫のように毛布に包まっていると、先ほどまでの悪寒がようやく落ち着いた。

「暑くなってきたら言ってくださいね。冷やす方に切り替えます」
「……熱がある時は冷やせばいいんだと思ってました」
「寒い時は温めたほうがいいそうですよ。冷やすのは熱が上がりきって、汗をかいてきたら、と」
「ジェイド先輩は物知りなんですね……」
「以前本で読んだので。人間に紛れて暮らすわけですからね。万が一に備えて。ほら、喋ってないで少し休んでください」

 しばらくうとうとしていると、額にひんやりしたものが乗せられた。目を開けると、ジェイド先輩が心配そうな顔をして、私の顔を覗き込んでいた。目が合うなり、先輩はそっと視線を外した。

「先輩……?」
「少し顔が赤くなってきましたね。額も汗ばんでいますし。暑くないですか?」
「ちょっとだけ……」
「では、汗を拭いて着替えましょうか」
「着替え……?」

 聞こえてきた単語に思わずギクリとした。まさか着替えさせてくれる気なんだろうか。

「大丈夫ですよ。見ませんのでご安心を。それと、さすがに女性モノの下着まではご用意できませんでしたので、下着だけは今のままで我慢してくださいね」
「だっ、大丈夫です。ありがとうございます……」


 渡された服に着替えると、なんだかさっぱりして、一気に身体が楽になったような気がした。さっき飲んだ薬が効いてきたのかもしれない。

 ベッドに横たわると、ジェイド先輩は先ほどと同じようにベッドサイドに腰かけ、私の額に当てるタオルをこまめに変えてくれた。


「…………先輩」
「なんですか?」
「……まだ怒ってますか?」
「どうして僕が怒っていると思うんですか?」
「……私が……逃げようとしたから……逃げようとしたわけじゃないんですけど……そう見えたと思うから……」

 未だに言い訳のようなことを繰り返す私に呆れたのか、ジェイド先輩は深くため息をついた。

「別に怒ってはいませんよ」
「なら……どうして一度もこっちを見てくれないんですか……?」

 恐る恐る問いかけると、ジェイド先輩の眉間にグッとシワが寄った。

「……後悔しています。貴女に怪我をさせるくらいなら、そうなる前に逃がすべきだったと」
「そんなの……私が勝手に……先輩のせいなんかじゃ……」
「貴女がここに留まるよう仕向けたのは僕です」

 少しだけ腹が立って、自然と自分の口が尖ってくるのが分かった。

「そんなことないですってば! ……ジェイド先輩は、私のことちっとも分かってない」

 先輩はそんな私を見て少し困惑したように首を傾げた。

「私、逃げないって言ったじゃないですか。強制されてここに居るんじゃありません。私がその気になれば、いつでも逃げられます。でも、逃げません。それがどうしてなのか、本当に分かりませんか?」
「……逃げられるんですか?」

 キョトンとした顔をして、ジェイド先輩が首を傾げる。こんな無防備な顔を見るのは初めてかもしれない。

「に、逃げられますよ? 私、レオナ先輩から護身術習ってるんです。だから、ジェイド先輩なんかあっという間にやっつけられます。ちょちょいのちょいです。なめないでください」

 もちろんそんなことはない。レオナ先輩からは毎回足があがってないだの腰が入ってないだの、散々ダメ出しをされている。ましてやこの身長差だ。私がジェイド先輩とまともにやりあって勝てるわけがない。
 当然こんな嘘、すぐにジェイド先輩に見破られると思ったのだが、ジェイド先輩の反応は私が想像していたものとは違っていた。

 先輩はポカンとした顔をしてから、ふはっ、と笑った。少しだけ眉が下がって、いつもの大人っぽさなんか微塵も感じさせない、まるで少年のような笑みだった。

「そうでしたか。それはそれは、失礼しました」
「あ、信じてませんね? さすがに手足固定されてる時は無理だったけど、トイレに行く時外したでしょう? 本気で逃げるつもりだったら、あの時に先輩を倒して逃げてますからね?」

 我ながら無理があるなと自覚しながらチラリとジェイド先輩を盗み見ると、先輩は穏やかな笑みを浮かべながら私を見つめていた。

「……では、逃げないでいてくれたんですね」
「そうですよ? だから、私はいつでも逃げられるんです。今この瞬間も。……でも、逃げません」

 じっと見つめたままそう言うと、ジェイド先輩は少しだけ困ったような顔をして笑った。

「そんなふうに見つめられては誤解してしまいます」
「ジェイド先輩は、自分がどうしたいかは言うのに、私がどうしたいかは聞かないんですね。どうしてですか?」
「……難しい質問ですね」
「ジェイド先輩は、いつも自信満々に見えるのに、本当は少し臆病なんですね」
「ウツボは元来臆病な生き物なんですよ」

 だからでしょうかね。そう言って、先輩は目を伏せた。そっと先輩の手を取り、ギュッと力を込める。

「……私は、あなたが好きです。先輩に学校で会えると、ドキドキします。話しかけてもらえたら、嬉しくて飛び上がりそうになります。この間、二人で食堂まで歩いた時も、なんてラッキーなんだろうって思いました。幸せだなって思いました。……私、あなたが好きです」

 先輩は、私の手を握り返して、小さく「はい」と呟いた。

「……私が逃げない理由が分かりましたか?」
「ええ。こんなことをして、馬鹿なことをしました」
「じゃあ、お詫びに今度モストロ・ラウンジで奢ってください。シーフードピザが食べたいです」
「そんなことでいいんですか?」
「あとは……いつか……」

 言いかけて、言葉を呑み込む。

「……いつか、何ですか?」
「いえ。なんでもないです」

 小さく首を振ってにっこりと笑うと、ジェイド先輩も同じように笑った。

「じゃあ、たまにでいいので食堂で一緒にお昼ご飯を食べたいです。……その……二人で」

 チラリと見上げると、再びジェイド先輩は驚いたような顔をしてから、困ったように眉を寄せて笑った。

「もちろん。毎日でも」
「本当ですか? 約束ですよ?」
「はい。……もうお休みになったほうが。また熱が上がりますよ?」
「先輩も寝ますか?」
「はい。貴女が――」
「寝てからね。ハイハイ。じゃあ私が先に寝ます」

 おやすみなさい。そう言って目を閉じると、先輩が小さく笑った気配がした。



 ――いつか、あなたの故郷の海に連れて行ってくれますか?

 そう問いかけようとして、言葉が出なかった。尾びれの無い私に、行けるわけがない。彼は人魚で、私は人間。この事実はどう頑張っても揺るがない。

 でも、それでもいい。こうして一緒にいられるうちは。彼と一緒に同じ空間で呼吸をして、同じ地面を歩き、食事をして笑いあって。そんなことができるならどこだろうと構わなかった。


 いつか終わりが来るのだとしても。もう少しだけ、この幸せな夢の中に居たかった。

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