- ナノ -




 しばらくして、ジェイド先輩は食事の載ったワゴンを持って部屋に戻ってきた。

 パッと部屋に明かりが灯り、あまりの眩しさに目を瞑る。

「ああ、すみません。眩しかったですね」
「目が開きません……」
「すぐに慣れますよ」

 クスクスと笑いながら、先輩はベッドサイドに移動し配膳を始めた。カチャカチャという食器の音が止む頃には、ようやくうっすらと目が開けられるようになっていた。

 テーブルには、タコのカルパッチョやキノコのパスタなど、数種類の皿が並んでいた。まるでコース料理のようだ。昼食以来、水の一滴すら口にしていなかったので、部屋に漂う良い香りに刺激され、お腹からぐぅと鈍い音が鳴った。

「おやおや、空腹だったのですね。それは失礼しました」

 そう言って、先輩は私の手元の鎖に手をかけた。

「食事の間は外しますが……くれぐれも妙な気は起こさないでくださいね」
「……妙な気?」
「ドアには鍵がかけてあります。逃げようと思っても無駄ですよ」
「……逃げようなんて……思ってませんけど」
「逃げると言っていたではありませんか」
「あれは!……い、いきなりで混乱してたから……。今は逃げようとは思ってません。それに……」

 一瞬言いかけて口を噤むと、ジェイド先輩は続きを促すようにこちらを見つめ、眉を片方上げた。

「……その……お腹が空きました。早く食べたい……です」

 再び腹部からきゅう、という音が鳴る。それを聞いて、ジェイド先輩が小さく笑うのが分かった。カァッと顔が熱くなった。

「貴女は本当に可愛らしい人ですね」
「……お腹が鳴っただけですけど」

 ムッと唇を突き出すようにして言うと、スッと先輩の顔から表情が消えた。

「……そういう顔を、他の方にも見せているんですか?」
「えっ……」

 思いのほか鋭い声に驚いて顔を上げる。嫌悪と焦燥が入り混じったような表情をしながら、眉を寄せている。怒らせてしまったんだろうか。でも、一体何に……?

「あの……ジェイド先輩……?」

 何を言ったらいいのか分からず、答えを求めるように呼びかけると、先輩はすぐにいつもの穏やかな顔に戻り「なんでもありません」と言った。

 てっきり私に対して怒っているのかと思ったが、よく分からなかった。それに、怒らせたのだとしたら何が気に障ったのだろう。それも謎だった。感情があまり外に出ない先輩の表情から読み取るのは、私には難しいようだった。

 フロイド先輩やアズール先輩なら分かるんだろうか。同じ故郷出身だし、幼い頃から一緒だったと言っていた。それに、彼らは皆『同じ』だ。きっと私には理解できないことでも、彼らなら分かるんだろうと思う。


 ……なら、私に分からないのは、私が人魚じゃなくて人間だか――
 
「食事にしましょうか」

 先輩の声にハッと顔を上げる。

「どうかしましたか?」

 穏やかな笑みを浮かべながら問いかけられ、私はフルフルと首を振った。

「……いえ。なんでもありません。どれも美味しそうだから、何から食べようか迷っちゃって」

 苦し紛れにそう言うと、全てを見透かすような瞳から逃れるように目を逸らした。

 ……やめよう。今こんなことを考えても仕方がない。考えたところで何も変わらないし、それにせっかくのお料理が冷めてしまう。

 今考えることじゃない。


 ジェイド先輩の用意してくれたお料理はどれもとても美味しかった。食べながら、妙な薬が入っていたらと一瞬頭をよぎったが、余計なことを考えたくなかったし、なによりお腹が空いてそれどころではなかったので、私はそれらを全て残さず平らげた。


 食事が終わると、再びジェイド先輩は私の両手首に手枷をつけた。

「……またつけるんですか?」
「ええ。念のため、ですよ」
「……逃げないって言ったのに」

 ため息をつきながらそう言うと、ジェイド先輩は困ったように眉を寄せ、笑った。

「そう思っていても、チャンスが目の前にチラつけば気が変わるものですよ、人間は」

 最後を強調するような言い方に、思わず眉を寄せる。


 なんとなく、線を引かれたような気がした。


 自分は人魚で、お前は人間。違う種族なのだと、改めて現実を突きつけられた気がした。先ほどから頭にこびりついて離れない『人魚』と『人間』という単語が、行ったり来たりしている。なんとなく感じていた先輩との距離は、きっとこういうところにあるのかもしれない。

 この人はさっき私を欲しいと言った。けれどそれは、私が思うような意味ではなかったのかもしれない。今だけの、多分……刹那的な……。

「……ユウさん?」

 黙り込んだ私を不審に思ったのか、ジェイド先輩が私の顔を覗き込んだ。

「先ほどから上の空ですね。お口に合いませんでしたか?」
「そんなことないです。美味しかったです」
「……そうですか。では僕は一度ラウンジに戻りますが、お一人で大丈夫ですか?」

 ダメだと言ったら、ここに居てくれるんですか? そんな言葉が喉元まで出かかって、慌てて呑み込んだ。ダメだ、さっきから情緒が安定しない。慣れない環境で疲れているのかもしれない。そりゃそうか。誘拐されて監禁されるなんて経験、一生に一度あるかないかだろうし。

「……平気です」

 ジェイド先輩から顔を背けて、ポツリと呟く。

「では、すぐに戻りますので。いい子にしていてくださいね」

 顔を背けたままの私の髪をそっと撫でると、先輩はそのまま部屋を出ていった。




 一人ベッドに寝転がりながら、ぼんやりと部屋の天井を眺め、ため息をついた。

 きっと、先輩たちはいつか故郷の海に帰る。私だって、きっといつかは元の世界に帰るのだろう。ずっと一緒には居られない。……そう思ったから、先輩はこんなことを考えたんだろうか。


「……私も人魚に生まれたかったな」


 誰に言うでもなくポツリと呟くと、鼻の奥がツンと痛んだ。


 昔々、人間に恋した人魚のお姫様は、美しい声と引き換えに海の魔女から『足』をもらったという。

 ……なら私は、何を差し出せばあの人と同じ尾びれを貰えるんだろう。

 何も持っていない私は……。

 そんなことを考えて、口から笑いが漏れた。

 ……馬鹿みたい。御伽話じゃあるまいし、そんなこと、できるわけがないのに。

 視界が歪み、涙が頬を伝う。天井がゆらゆらと揺れて、まるで海の中にいるみたいだった。


 不意に扉がカチャリと音を立てた。

「ただいま戻りました」

 え、早い。

 思ったよりも早く戻ってきた。慌てて顔を背けるが、ジェイド先輩の目はごまかせなかった。先輩はベッドの傍らに移動し腰かけると、私の顔を覗き込んだ。そして哀しそうに目を伏せた。

「……そんなに嫌ですか? ここに居るのは」
「……違います。そうじゃありません」
「心配しなくても、すぐに帰して差し上げますよ。貴女に危害を加えるつもりもありません」
「そんなこと心配してません」
「じゃあ……なぜ泣いているのです?」

 ジェイド先輩の手が、私の髪をそっと撫でた。


 ――あなたと同じ尾びれが欲しいです。

 そんなことは言えるはずもなく、私は再びジェイド先輩から目を逸らした。

「分かりません。……ホームシックなのかも。でも、もう大丈夫です」
「……そうですか」

 無理やり笑顔を作ってそう言うと、ジェイド先輩は納得したのかしていないのか分からないような顔をして、おもむろに私の手枷と足枷を外し始めた。

「……ジェイド先輩?」
「いえ。そろそろかな、と思いまして」

 にっこりと笑ってそう言うと、先輩は私の両脇に手を差し入れ、ヒョイと持ち上げ立たせてくれた。

「そろそろって……?」
「お手洗いに行きたいのでは?」

 お手洗い……? 頭の中で反芻すると、自覚したせいか急にトイレに行きたくなってきた。

「い、行きたいです!」
「お連れしましょう。こちらですよ」


***


 ……間一髪とはこのことか。

 危なかった。もう少し遅かったら心に一生消えない傷を負うところだった。それにしても、異常事態ともなると人間尿意すら忘れられるんだと感心した。もしジェイド先輩が戻ってくるより早く自分がトイレに行きたいことに気付いていたら本気で危なかっただろう。

 用を済ませ手を洗いながらふと鏡を見ると、天井近くに窓があることに気付いた。

 ……あの窓から出られるのかな。

 辺りを見渡すと、足場になりそうな大きなバケツがあった。これに乗ったら、あの窓まで届くんだろうか。
 そんなただの思いつきだった。本当に逃げようなどとは思っていなかった。でも、一度思いついたら試してみたくなってしまったのだ。

 とりあえず、バケツを逆さにして足場を作り、その上に乗ってみた。

「きゃっ!」

 乗った瞬間グラっと揺れ慌てて壁にしがみつく。なんとかバランスを取り体勢を立て直すと、背伸びをしてそっと窓へと手を伸ばした。窓まではギリギリ手が届くくらいで、そこからよじ登ったり這い出たりすることはできそうになかった。

 やっぱり無理か。そうだよね。

 好奇心が満たされ満足した私は、バケツから降りるべく重心を移動させた。

「ユウさん!?」

 その時、バタンと音を立てて扉が開き、ジェイド先輩が血相を変えて飛び込んできた。

「えっ! ……きゃっ!」

 グラリと足元のバケツが傾き、足場を失った私はそのまま床に落下した。足から落ちたためか、足首に鋭い痛みが走る。

「いったぁ……」

 捻ったのだろうか。痛む足をさすっていると、大きな影ができた。恐る恐る顔を上げると、怖い顔をしたジェイド先輩と目が合った。怖い顔、といっても、ジェイド先輩は睨んだりなんかしない。ただ無表情で私を見下ろしていた。その正気のない冷たい目が恐ろしくて、喉の奥でヒュッという音が鳴った。

「あ、あの……」
「……貴女はまだ分かってらっしゃらないようですね」
「ち、違います! 逃げようとしたわけじゃなくて……! その……あそこから出られるのかなーって興味が湧いたというか……ただ、好奇心に勝てなかっ――」

 言い終わるより早く私の腕を掴み、先輩はそのまま私を横抱きにした。

「話があるなら後にしてください。手当てが先です」

 有無を言わせない強い口調でそう言われ、私は蚊の鳴くような声で「…………はい」と返事をするので精一杯だった。
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