- ナノ -





 光の届かない深海のような真っ暗な闇の中で、私は目を覚ました。

 辺りを見回すが何一つ見えない。まるで自分すら存在していないような、そんな気すらしてくる。

 身動いだ瞬間『カチャリ』という金属音と、何かが揺れるような感触を手元に感じた。両手、おそらく両足も金属製の何かで拘束されている。

 まだうまく働かない頭をフル回転させて何が起こったのか思い返すが、記憶の扉は簡単には開いてくれそうにない。

 それならばと、今日起きてからのことを思い出すことにした。



***



 今日は朝から寝坊して、大慌てで寮を出た。

 始業のベルとともに教室に飛び込んだので、トレイン先生にギロリとひと睨みされてしまったが、遅刻を免れたことでことなきを得たのだ。ラッキーだった。


 そうだ。今日はツイていた。だって、あの人に会えたんだから。


 授業を終えて食堂へ向かう途中、背の高い二人組を見つけた。

 ――ジェイド先輩だ。

 私は彼のことが好きだった。柔らかい物腰も、彫刻のように美しく整った顔も、透き通った金色の瞳も、どこか仄暗さを感じさせる深碧の瞳も。
 双子のフロイド先輩はなんの前触れもなく突然キレたりして少し怖いけれど、ジェイド先輩はそんなことはなかった。いつだって穏やかで、親切で、優しくて。

 そんな彼に私はいつしか恋をしていた。


 オクタヴィネル寮に所属するこの二人の先輩、それと寮長のアズール先輩とは、以前は色々あったが今はもう和解している。無理やり寮を追い出されたり、取引の条件に無理難題を突きつけられたりしたこともあったが、今はもういい思い出だ。

 話しかけていいものか、馴れ馴れしくないだろうか、そんなことを考えながら彼らの後ろを歩いていると、不意にフロイド先輩が振り返った。

 キョトンとした顔でこちらを見て、フロイド先輩はふにゃりとした笑みを浮かべた。

「あ〜、小エビちゃんだぁ〜。なにしてんの?」
「フロイド先輩こんにちは。これから食堂に行くところです」
「一人で? 珍しいじゃ〜ん。アザラシちゃん達は?」
「私だけ時間内に提出物が終わらなくて……みんなには先に行ってもらったんです」

 チラリとジェイド先輩を見ると、ジェイド先輩もこちらを見てニッコリと笑った。

「では、食堂までご一緒してもよろしいでしょうか」
「はい! もちろん!」
「……フロイド。そういえばクルーウェル先生が呼んでいましたよ。教員室へ寄った方がいいのでは?」
「えー……なにそれ超ダリぃんだけど……」

 ぐちぐち言いながらも、フロイド先輩は「じゃあね〜小エビちゃん」と私の頭をポンポンと撫でながら教員室の方へ向かっていった。


 願ってもないチャンスに、心が躍るのを止められなかった。嬉しい。他寮である上に学年まで違うジェイド先輩とは、学校内ではなかなか話す機会が無い。なのでこういった偶然はありがたかった。しかも二人きりときたものだ。もうますますありがたい。

 このままずっと食堂に着かなければいいのに。普段歩く食堂までの道のりが今日はやけに短く感じた。

「ユウさんはハーツラビュル寮の方と仲がよろしいようですね」
「ハーツラビュル……ああ、エースとデュースはクラスが一緒なんです。それが縁でトレイ先輩にケーキ作りを習ったり……あ! この間のエースの誕生日にはみんなでチェリーパイを作ったんですよ! すっごく美味しくて、お店で売ってるやつみたいでした! ジェイド先輩は甘いものはお好きですか?」
「僕は甘いものはそれほど好んでは食べませんが……まぁ嫌いではないですよ」
「そうなんですね。じゃあ、先輩のお誕生日にケーキを作ったら……その、食べてくれますか?」
「おや、作ってくださるんですか? ええ、もちろんいただきますよ」

 そう言って、ジェイド先輩はゆったりとした笑みを浮かべた。

 嬉しい。これで誕生日にケーキを作る口実ができた。会う口実ができた。喜んでもらえるように頑張って練習しよう。


 楽しかった時間はあっという間に終わり、私たちは大食堂へと到着した。

 中を見ると、先ほど名前の出たクラスメイトのエースやデュースが席についていた。めずらしくサバナクロー寮の一年、ジャックの姿も見える。

「あれ、ジャックだ」
「おや、サバナクロー寮の方とも仲良くしてらっしゃるんですね」
「……先輩が私からオンボロ寮を取り上げたからじゃないですか。私、ジェイド先輩たちに寮から追い出された後、サバナクローに泊めてもらったんですからね? 野宿は嫌だったので!」
「ははは、そんなこともありましたかねぇ」

 もう忘れました。とでも言いたげに、先輩は優雅に笑った。

「では、私はこれで。……あの、お話できて、楽しかったです」
「ええ、僕もですよ。またぜひご一緒しましょう」
「はい! 喜んで! では、失礼します」

 ペコリと頭を下げ、友人たちの元へ向かう。本当に今日はいい日だと思いながら、昼食を摂った。



***



 再び辺りを見渡すと、暗さに目が慣れてきたのか、うっすらと部屋の様子が分かるようになってきた。

 どうやらベッドのようなものに寝かされている。そして両手から伸びる鎖は、ベッドへと繋がっているようだった。ここからは見えないが足も同様だろう。逃げ出すことは期待できそうにない。

 部屋には小さな窓が一つあるようだが、外は真っ暗だ。今は夜なのだろうか。月でも出ていれば少しは明るいだろうに。いくら目が慣れたとはいえ、これではシルエットくらいしか分からない。
 部屋の中はシンプルで、物があまり無いように見えた。棚も、飾り棚があるくらいだ。オブジェのようなものが規則正しく並んでいる。とはいえ、まだ暗くて部屋の全貌は分からない。だが、物が乱雑に置かれたような雑多な部屋という感じはしない。どちらかというと整理整頓の行き届いた、清潔感のある部屋の匂いがする。

 なんだか背筋がゾワゾワする。部屋の様子が分かるようになるにつれ、私の心には得体の知れない恐怖感が広がっていた。見てはいけない、知らない方がいい、そんな気がする。

 不意に生まれた恐怖心を誤魔化すように昼間の出来事へと意識を戻す。

 食堂に行って、みんなとご飯を食べて、それからどうしたんだっけ。


***


 食事が終わりジャックたちと話していたら、サバナクロー寮の寮長、レオナ先輩がやってきた。

「おうチビ助」
「そのチビ助っていうのやめてくれませんか?」
「チビはチビだろうが」

 そう言って、レオナ先輩はカラカラと笑った。

「それより、ちょっとは足上がるようになったのかよ」

 ジロリと上から見下ろされ、そっと目を逸らす。

「……この間よりは」
「本当かよ。ちゃんと柔軟やってんだろーなぁ」
「やってますよ!」
「レオナさん、足ってなんスか?」

 すぐ隣にいたラギー先輩が首を傾げた。

「こいつ、身体が硬えんだよ。足が上がりゃしねえ」
「え……レオナさん……まさか監督生くんに何か如何わしいことしてるんじゃ……」
「違えよ!!!」
「あはは。違いますよ、ラギー先輩。私、レオナ先輩に護身術習ってるんです。ほら、私、魔法使えないじゃないですか。弱っちぃくせにウロチョロすんなら自分の身くらい自分で守れってレオナ先輩が」
「まじっスか!? レオナさんが!?」
「マジかよ……。レオナ先輩、意外と優しいんスね」
「うるっせぇ! この草食動物が勝手にとっ捕まって俺様の手を煩わされんのがウゼェだけだ! くだらねぇこと言ってんじゃねえ!!!」

 ガルルっと威嚇するように唸り声を上げると、レオナ先輩はラギー先輩を連れてどこかに消えてしまった。

「お、怒らせたんじゃねーのか、ユウ……?」

 レオナ先輩の唸り声に少し身を震わせながら、グリムが恐る恐るこちらを見て言った。

「大丈夫だよ。レオナ先輩、ああ見えて結構優しいし」
「優しいって……そう思ってんのはお前だけだと思う」
「ああ、僕もそう思う」

 エースとデュースが口々に言う。

「そんなことないもん。ね、ジャック?」
「ああ? ……まあ、そうだな」
「お前は自分とこの寮長だからだろ?」
「じゃあエースはリドル先輩のことを優しいと思うの?」
「えっ…………」
「ほら、沈黙。レオナ先輩は、ちょっとスパルタだし俺様だし暴君だけど、優しいよ」
「それ褒めてるのか?」
「もちろん! まぁ、リドル先輩も私には優しいけどね。勉強教えてくれるし。さ、そろそろ午後の授業行こー」


***


 ……そうだ。あの後、午後は普通に授業を受けて、寮に帰ったんだ。
 たしか、あのボロッボロの寮の『談話室』と呼んでいいのか分からないような部屋のソファに腰をかけるや否や、まるで魔法にかかったように急な眠気に襲われた。ならほんの少しだけ昼寝でもしようかと思ったんだ。でもその後の記憶がない。

 ……なんだろう。すごく嫌な感じ。これじゃあまるで誰かに……。


 遠くからコツコツという足音のような音が聞こえる。そして、音は部屋の前まで来て止まった。

 マズイ。もし私が誰かに連れてこられたのだとしたら、おそらく扉の前にいるのは犯人だ。逃げなければ。そう思い必死にベッドに繋がれている鎖を引っ張るが、鎖はガッチリと繋がっている。その上、こんな繋がれたままの体勢では力が入らない。それならばと、手を窄めて拘束具からすり抜けられないかと試みるが、ギリギリの大きさに調整されており、関節でも外さない限り抜けられそうにない。そうしている間にも、扉の向こうでは鍵を開けようとしているのか、カチャカチャという金属音が鳴り始めた。

 どうしよう。怖い。怖い。助けて、誰か……。

 心の中で祈りながら部屋を見渡す。隠れていた月が出たのか、うっすらと部屋に明かりが入った。

 棚に綺麗に並べられたテラリウムが見える。

 なんとなく分かっていた。誰がここに連れてきたのか。だから、カチャリと音を立てて扉が開いた時も、そこから現れた人物を見た時も、私は驚かなかった。


「おや、思ったよりも早かったですね。目を覚ますまで後一時間くらいはかかると思いましたが……。貴女は見かけによらず頑丈でいらっしゃる」

 背の高いシルエットが見える。声を聞いて、自分の予想が当たったことを確信した。

「ジェイド先輩……なんで……」
「『なぜここに居るのか』というご質問でしたら、答えは『ここが僕の部屋だから』ですよ」
「そうじゃなくて……コレ、何ですか?」

 ガチャガチャと鎖を揺らしながら問いかけると、ジェイド先輩は困ったように笑った。

「おや、ご存知ないですか? 手枷ですよ。陸にはこういったものは無いんですかねぇ」
「そんなこと聞いてません! なんでこんなことをするのか聞いてるんです!」
「おやおや、随分ご立腹のようですね」
「当たり前でしょう!? コレ、早く外してください!」
「それはできない相談ですね」
「なんで……」
「だって貴女、外したら逃げるではありませんか」
「当たり前です! こんなことして……一体どういうつもりですか!?」

 真っ暗な中では彼の表情は分からない。だが、なんとなくどんな顔をしているかは分かる。いつもは穏やかな表情を浮かべていることが多いが、こういう時のこの人はいつも、形の良い眉をハの字に歪めながらギザギザの歯をチラリと見せ愉しそうに笑う。きっと今もその顔をしているに違いない。

「怒った顔も可愛らしいですね」

 彼はベッドに腰かけると、私の頬を撫でた。その手つきは思いのほか優しく、まるで壊れやすい宝物を扱うかのごとく繊細だった。

「……僕は、貴女が欲しいんですよ。閉じ込めて、誰にも見せたくないんです。貴女が他の誰かと笑い合っているのを一瞬たりとも見たくない。貴女を僕だけのものにしたいんです」

 聞こえてきた台詞に、息を呑んだ。愛の告白にしてはどこか物騒で歪んだ響きを孕んでいた。それなのに、なぜか撫でられた頬が燃えるように熱い。
 暗闇で見えないはずなのに、何故か視線を感じる。先輩は人魚だから、もしかしたらこの暗闇でも私のことが見えているのかもしれない。なんだか気恥ずかしくて、思わず顔を背けた。


「……そ、そんなこと……急に言われても……。わ、私は……物じゃありません……」
「ええ、分かっていますよ。物ならしまっておくだけでいい。でも貴女はそうじゃない。だからこうして逃げないように鎖で繋いでいるんでしょう?」

 ジェイド先輩の綺麗な長い指が、そっと鎖をなぞる。

 おそるおそる視線を向けると、彼の顔が月明かりに照らされてうっすらと浮かび上がった。ジェイド先輩は、私が想像していたよりもずっと優しい顔をして、私を見つめていた。


「そんなの……ずっとなんてできるわけない。私が学校に行かなかったら、先生たちも不審に思いますよ? ここにずっと繋いでおくことなんて、できっこない……」
「分かっています。だから、ここに居る間に覚えていただくんですよ。……貴女が誰のものなのか」

 低い声が鼓膜に響き、思わずビクッと肩が震えた。見ると彼の左眼だけがまるで私を照らすライトのように金色に光っていた。


「さて、目が覚めたのなら食事にしましょう。運んできますね」

 にっこりと人の良さそうな顔で微笑むと、彼は私の髪をそっとひと撫でして部屋を出ていった。



 心臓が忙しなく音を立てている。

 捕食者と対峙した被食者の気持ちがなんとなく分かってしまった。そういえば海の中で先輩たちに追い回された時も、物凄い勢いで迫ってきて生きた心地がしなかった。今回だって、どうあがいても逃げられる気がしない。

 あの人からは逃げられない。そう確信しながらも、不思議と恐怖は感じなかった。それどころか、私はこの状況をまるで他人事のように、どこか俯瞰して見ていた。元々この世界に来た経緯が非現実的だからだろうか。心のどこかで、まだ夢を見ているような、そんな気持ちでいた。

 そう。私は浮かれていたんだ。

 だって。憧れていた人が、好きだった人が、私を欲しいと言った。私を手に入れたいのだと。それが嬉しかった。自分があの男に両手両足を拘束されているという事実が霞んでしまうくらいに。


 あの人が歪んでいるとしたら、自分も十分歪んでいるのかもしれない。
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