(34話)
彼女を手に入れてから、まもなく一週間が経とうとしていた。今でも時々、夢を見ているんじゃないかと思うことがある。
彼女は出会った頃からずっと『王様の女』で、それはこの先もずっと変わらないものだと思っていた。
でも、今彼女は僕と一緒にいる。どうして僕を選んだのか、その理由はわからないけれど。それでも彼女は僕の手を取って、今ここに居る。それなのにどうしようもなく不安で心許なく感じるのは、僕が彼女を信じていないからなのか。それとも、やっぱりこれが夢だからなんだろうか。
***
「はぁ!? 無理だから! 言ったでしょ!? 私今忙しいって」
携帯電話に向かって、彼女は声を荒らげる。
彼女の部屋で夏休みの課題を済ませ、いざどこかに出かけようかというタイミングで彼女の携帯電話が鳴った。電話の主は『王様』だった。
会話の内容から察するに、おそらく課題を教えろとかそういったものらしい。それに対しての彼女の答えが、先程のものだ。
意外だった。なんだかんだ言って、彼女はアイツを優先すると思っていた。人間の根底にあるものはそう簡単には変わらない。僕と付き合っていたとしても、きっとそれは変わらないのだと思っていたからだ。直前に交わした会話の効果だろうか。どちらにせよ、僕に気を使っているのだろうことはわかった。
ふと思う。ここで断ったとして、彼女は王様のことを気にせずにいられるのだろうか。ひょっとしたら、僕と一緒にいる間中ずっと、気にし続けるんじゃないか。数時間前、高橋のことで頭がいっぱいだったように。
ほんのりとイラつきを感じた瞬間、ポケットの中の携帯が音を立てた。画面に表示されている名前を見て、思わず眉を顰めた。日向だ。先程の影山からの着信と照らし合わせて考えると、おそらく日向と影山は一緒に居て、きっと馬鹿二人で仲良く課題でもやっていたんだろう。そしておそらく行き詰まった。期末前のあの様子じゃ無理もない。なんで最初から谷地さんとか山口に頼まないんだろう。
電話に出るつもりもなかったので、『拒否』を押してそっとテーブルに携帯を置いた。……どうせまたすぐにかかってくる。
「……誰から?」
「さあね、知らない人」
言うなり、またすぐに電話がかかってきた。ほら、思った通りだ。そのまま放置していると、電話はしばらく鳴り続けてそのまま切れた。画面を見ていた彼女が、怪訝そうな顔をしながらこちらを見ている。
「……ねえ飛雄。ひょっとして今、日向と一緒に居たりする?」
恐る恐る、彼女が電話口へと問いかける。そして再びこちらを見た。
ああ、わかってるよ。何が言いたいかは。
影山は日向と一緒にいる。おそらく、この距離では向こう側へ僕の着信音が聞こえていたんだろう。彼女と一緒にいることも、おそらくバレている。別に隠していたわけでもないので、それに関してはどうも思わないが。でもまぁ、それなら逆に、僕が電話に出たって不思議には思わないだろう。
「もういいでしょ。そろそろ電話切りなよ」
「いやこのタイミングで切るとか無理でしょ」
「貸して。……何の用? 王様」
彼女から携帯を取り上げ、煽り気味に聞いてやると、案の定向こうからは影山の怒鳴り声がした。
『なんでお前がそこに居んだよ!』
「いや、別に休みの日に僕が誰と何をしようと君に関係ないよね?」
もう僕のなんだし。そう心の中だけで付け足すと、影山はグッと息を呑んで押し黙った。チラリと彼女を見ると、不安そうな顔でこちらの様子を窺っている。
「……で、あと何個残ってんの」
『は?』
「課題だよ、課題」
『あと……数学と英語と……読書感想文……』
……ほぼ全部かよ。
「……分かった、今から行く。でも一時間したら帰るから」
それだけ言って一方的に通話を切ると、座ったままポカンと僕を眺める彼女の頭の上にそっと携帯を乗せた。「えっ! えっ!」と言いながら、落ちないようにバランスを取りつつそっと両手を頭上に伸ばす仕草がこれまた可愛かった。
基本的に裏表のない彼女は、時折考えなしに行動し、そんな彼女に僕はしばしば苛つくことがある。だが結局、なんだかんだ言って許してしまう。要は可愛いんだ。彼女の一挙一動にどれだけ振り回されたことだろう。今だって、なぜ僕があんなことを言い出したのか心底わからない、といった顔をして僕を見つめている。
「行かないの? 君はここで待ってる?」
「え、行くの? 部室? なんで……」
「放っておくと馬鹿二人がしつこそうだからさ。さっさと行って終わらせた方が効率いいデショ」
本当は、僕と一緒にいるときにアイツのことなんか考えて欲しくないからだ、なんて言えるわけもなく、もっともらしいことを言って誤魔化した。彼女は立ち上がり、僕の手を取る。何もかもお見通し、といったように嬉しそうな顔で笑う彼女を見て、僕は心の中でため息をついた。
***
部室へ着くと、中はすでに殺伐とした空気が流れていた。わからない問題とどれだけ格闘したのかは知らないが、部屋の中に充満した淀んだ空気が、彼らの虚しい戦いを物語っているような気がした。
「で? どこがわからないの? っていうか、どこまでできたの? ちょっと二人とも見せてごらん」
腕組みをしながらため息混じりに片手を差し出した彼女の掌に、二人はそれぞれ問題集を乗せた。パラパラとめくると、「……おぉ……」と色気のない声を発しながら、彼女はだんだんと静かになっていった。
「……あのねぇ。コレ、一時間じゃ到底無理だから。とりあえず、今日全部できると思わないでよ? 早く終わらせたいなら、部活終わりとかにわかる人に聞くこと! 私とか月島君以外にもやっちゃんだって山口君だって居るんだから。わかった!?」
「「……ウス……」」
正座したままシュンと肩を落とした二人に畳み掛けるようにそう言うと、彼女は申し訳なさそうな顔でこちらへと向き直った。
「とりあえず、マンツーじゃないと無理そうかも」
サッと差し出された問題集を見ると、解答欄が埋まっているのは半分以下で、埋まっているものもほぼ間違っている。どちらもどんぐりの背比べ状態だ。
「ごめんね。私が二人とも見れたらいいんだけど……」
「いや、想定内だから大丈夫」
「じゃあマンツーマンってことで。私は――」
「ナマエ」
言葉を遮るようにして呼びかけると、彼女の目が普段よりも大きくなった。
「ナマエは日向を見て。僕が影山を見るから」
それだけ伝えると、彼女は頭の中で反芻するようにキョロキョロっと目を動かして、慌てた様子でコクコクと頷いた。
「は? なんでだよ。おい、ナマエ!」
「君はこっちだよ」
不服そうな影山の腕を掴み彼女から引き離すと、より一層彼の顔が不満げに歪む。不満なのはこっちだ。なんでせっかくの休みに邪魔されなきゃならないんだ。来てやっただけでもありがたく思え。
「飛雄。教えてもらうんだから文句言わないの。ワガママ言うなら、今すぐ帰るから。それでもいい?」
「……嫌だ」
「なら早く課題やって。ほら、日向も始めるよ」
「ウス」
ビシッと敬礼をしながら答えた日向とともに、彼女は部室の奥の方へと移動した。
彼女の背中を見送りながら、チラリと王様へ視線を向ける。王様はまだ不服そうな顔をしていたが、無視した。
小一時間ほど経ったところで進捗具合を確認するが、どちらも課題は問題集が半分程度片付いたくらいで、まだまだ先は長そうだった。
「とりあえず今日はここまでかな。あんまり根詰めてやっても仕方ないし。まだ夏休みは残ってるんだから、地道にやるんだよ?」
最初に僕が宣言したとおり、きっかり一時間で切り上げることにしたらしい。彼女は日向に向かってそう言うなり荷物をまとめだした。
「そっちはどう?」
「まぁどんぐりかな」
「あはは。背比べってこと? じゃあとりあえず、うちらは帰ろうか」
彼女に促され立ち上がる。
「飛雄も、少しずつでいいから課題やってね。わかんないとこあったら、部活の後とかに聞いてね」
「…………わかった」
最後まで不服そうな顔をして頷く影山を見ながら、僕らは部室を後にした。
***
とりあえず夕飯にはまだ少し早いので、やはり映画でも見ようということになり、僕らは駅の方へと向かった。
「なんか疲れたねぇ」
ふう、と小さく息を吐き出しながら、彼女が呟く。
「馬鹿と一緒にいると疲れるからじゃない?」
「ふふ。月島君期末の時もイライラしてたもんね」
「むしろなんであそこまでできないのか理解に苦しむよ」
これから先、定期試験のたびに毎回あの地獄を迎えるかと思うと気が遠くなりそうだが、幸い今日は居なかったが普段は谷地さんがあの馬鹿担当になってくれている。あとは山口にでも押し付けようか。などと考えていると、彼女が不意に僕を見上げて言った。
「今日はありがとうね。おかげであの二人も課題やらなきゃって思っただろうし。夏休み中になんとかなりそう」
「……別にあの馬鹿二人のためじゃない」
「わかってるよ。……私のためでしょ?」
「…………行かなかったら、ナマエは気にするでしょ」
「ふふ。だから、ありがとうって言ったの」
照れたような顔でニッと笑いながら、彼女は僕の手を取った。
「飛雄も、日向が居れば張り合って課題ちゃんとやるだろうし、たぶんもう大丈夫。やっちゃんも居るしね。なーんか、肩の荷が下りた気分」
どこかスッキリしたような顔で笑いながら僕を見上げる彼女を見て、ふと胸にモヤモヤしたものを感じた。
彼女はいつもアイツを『飛雄』と呼ぶ。幼なじみだと言っていたし、今までずっとそれが当たり前だったのだろうから、今更僕がそれに対して口出しをする筋合いじゃないことくらいわかっている。たかが名前だし。別に気にしてるわけじゃない。
でも、なんとなく腹が立つような、モヤモヤした気持ちになるのは仕方ないんじゃないか。僕のせいじゃない。
「どうかした?」
黙り込んだ僕の様子を窺うように、彼女の大きな瞳が真っ直ぐにこちらへ向かっている。
「……あのさ」
「ん?」
「……君、僕の名前知ってる?」
「…………月島蛍……?」
彼女は一瞬ポカンとしたような顔をして、噛み締めるように僕の名前を口にした。彼女の瞳がふっと宙を見るように動いて、ハッとしたように瞬きを一つした。
「……知ってるならいい」
慌てて彼女から視線を逸らし、そう呟いた。別に名前で呼んでほしかったわけじゃない。ただ、なんとなく、モヤモヤしただけで――
「……蛍?」
ギクリとして恐る恐る彼女を見ると、彼女は嬉しそうに口元に笑みを浮かべていた。
「…………なに」
「二人っきりの時だけ? 部活の時は?」
「……任せるよ」
「いいの? 私、名前で呼んじゃうよ?」
「だから任せるって」
「でも、バレちゃうんじゃない? 付き合ってること、誰にも言ってないでしょ?」
「……ナマエは隠したいの?」
問いかけに、彼女はぶんぶんと首を振った。
「違くて。……蛍はそういうの嫌がるかと思ったの。だからどうしようかなって、ずっと思ってた」
ああ、そういうことか。呼ぼうとは思ってたんだとわかった瞬間に、小さなことに拘っていた自分が馬鹿らしくなった。
言われてみればたしかに、二年生のあの辺りは積極的にその手の話題に絡んできそうだ。だが、小学生じゃあるまいし、揶揄われたところで特になんとも思わない。
「……ナマエは嫌じゃないの? 揶揄われたりするかもよ?」
たしか彼女が王様と別れた理由もそんな理由だと言っていた。もしかしたら、僕と付き合っていることを隠していたいのは、彼女の方かもしれない。そんなことが頭をよぎる。
「ううん。……蛍なら平気」
そう言って、彼女はふにゃりとした顔で笑った。照れたように目を伏せながら、そっと僕の手をギュッと握る仕草に、不覚にも心臓が跳ねる。
ほら、やっぱり僕ばっかり振り回されてる。
なんとなく釈然としないものを感じながら、じっと彼女を見つめると、視線を感じたのか彼女も顔を上げた。
「な、なに……?」
「……君が思ってるよりも、僕は君の事、ちゃんと好きだから」
「え? ……なっ……!?」
硬直したように僕の手を離しながら、彼女の大きな瞳がこぼれ落ちそうなほど見開かれた。みるみるうちに彼女の頬が赤く染まる。
「ハハッ。ゆでダコみたい。ホント表情豊かだよね」
「はっ、反則だから! そういうの!」
「そう?」
再び歩き出すと、彼女が後ろから小走りに駆けてきた。
「ああ、ごめん。速いのか。君チビだからね」
「女の子なんだから小さくてもいいんですー。蛍が大きすぎるんじゃん」
ムッと口を尖らせながら、彼女が僕を睨みつける。小動物のようで全然怖くない。
「ほら」
手を差し出すと、彼女は再びあのふにゃふにゃの顔で笑いながら僕の手を取った。
「蛍って手つなぐの好きだね」
「そう? 別に普通デショ」
今でも思う。夢を見ているんじゃないかと。でも、こんな幸せな夢なら、それも悪くはないかもしれない。そんなことを思いながら、この幸せな夢がこの先も終わることなく続くことを祈った。
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