- ナノ -


(8話)



 治君たち稲荷崎高校バレー部は、決勝まで勝ち残るものの、井闥山学院高校に敗れ、惜しくも準優勝という結果に終わった。


 夏休みが終わると、いよいよ進路に関するイベントが増えてきた。選択科目の希望調査やら、進学するのか就職するのか。進学するなら大学へ進むのか専門学校にするのか。とにかく決めなければいけないことが目白押しだった。今までは、なんとなく流されるがままに生きてきたが、そうも言っていられなくなってきて、なんだか気持ちが焦ってしまう。

「夏休み終わったらあっという間に中間終わって、更には文化祭も終わってもーたやん。……あかん、今年が終わる……」

 ぐだっと机に突っ伏しながら、山ちゃんが言った。

「まだ期末が残とるよー。せやけどそれが終わったら選択科目も決めなあかんし、なんや受験生いう感じやなぁ……」
「……受験する学部も決まっとらんのに選択科目言われたかて……なぁ……」

 はぁ、と大きなため息をついて、再び山ちゃんがポッキーを銜えながら言った。

「あ、そういえばみんな夏休みん時、オープンキャンパスなんぼ行ったん?」
「ウチは四つ」
「うわ、ノンちゃん結構行っとるやん。あたしは二つだけや。サキは?」
「うちは三つ。コウちゃんと一緒に色々回ってんけど、レベルの違いに打ちのめされたわ。一緒の大学行きたかったんやけど……相当頑張らな無理やな……」

 山ちゃんに続いてサキちゃんがため息をつく。『コウちゃん』というのはサキちゃんの彼氏で、サッカー部の二年生だ。

「ナマエちゃんは?」
「私は……まだ何も……決めてなくて……。受験するかもわからないし……」

 言いながら、本当に自分が何も持っていないことに気付いた。進路の希望も、将来の夢も、なりたい職業も。何もかも、まったくの白紙だ。

「ほんなら治は? うちが大学進学に決めたんも、コウちゃんがきっかけやったし。好きな人とおんなじ大学行けたらええやん!? ……まぁうちは行けるかどうかわからんのやけど」

 ハハハ、と笑いながらサキちゃんが言う。そういえば、治君とは進路についての話はしたことが無かった。

「……あ、でも宮ツインズはバレーの道に進むんやないん? あれでバレーやらんなんてありえへんやろ」
「せやなぁ……せやせや」

 ただでさえ侑君は高校ナンバーワンセッターと言われている。もしかしなくても卒業したらプロチームに入るのだろう。治君だってきっとそうだ。

「……プロ、か……」

 なんだか急に手の届かないところに治君が行ってしまうような、そんな感覚に襲われた。元々、私とは住む世界が違う『特別な人』なわけだし。無理もない。

 ……薄々感づいてはいたが、やはり一緒に居られるのは、今だけなのかもしれない。

「……ナマエちゃん? どないしたん? ボーッとして」
「え? ああ、なんでもない。……治君にも、聞いてみる」



***



 部活が終わり、いつものように待っていると、侑君が怖い顔をしてやってきた。

「お、お疲れ様……」
「…………お疲れさん」

 聞き取れないほど小さな声でそう呟くと、侑君はするりと私の隣をすり抜けていった。ここまで機嫌の悪い彼を見るのは久々だ。呆然とその後ろ姿を見送っていると、すぐ後ろから同じく怖い顔をした治君がやってきた。

「ど、どうしたの、怖い顔……」
「気にせんでええ」
「でも……」
「ナマエ、俺着替えてくるから待っとって」
「う、うん……」

 まるで有無を言わせないようにそう言うと、治君はスタスタと立ち去ってしまった。

 何かあったんだろうか。いや、侑君とは確実に何かあったのだろう。それでなければ、たとえ喧嘩したとしても、あんなふうにギスギスするほど後を引かないはずだ。

「……あ、あの! 二人、何かあったの……?」

 後からやってきた角名君を捕まえて問いかけると、角名君はいつもどおりの飄々とした表情で言った。

「さあ。部活中もほとんど口きいてなかったし、どうせまた喧嘩でもしたんじゃないの」
「喧嘩……」

 たしかに、治君と侑君はよく喧嘩をする。それもくだらないことで。やっぱり今回もただの喧嘩なのだろうか。ただ、普段なら喧嘩しても半日ほど経てば元通りになっていることが多い。それなのに、部活の後まであの状態が続いているとなると、いささか心配ではある。

「とりあえず治から話聞いてみれば? 二人とも北さんにはダンマリだったけど、治はアンタになら話すんじゃないの」

 じゃあね、お疲れ。そう言いながら、角名君はひらひらと手を振った。




 角名君はそう言ったけれど、自信はなかった。治君には大切にしてもらっている自覚はある。でも、それはあくまで『女の子』として、『彼女』として守ってもらっているという感じだ。果たして、北先輩にすら話さなかった胸の内を打ち明けてくれるほど、信頼されているだろうか。……もしバレーのことなら、私にはわからないだろうし……。

「悪い、待たせた」

 声をかけられ顔を上げると、制服に着替えた治君が小走りで向かってきているところだった。

「ううん、全然待ってないよ」
「ほな帰ろか。送ってくわ」

 歩き出してすぐに、治君がポツリと呟いた。

「……腹減ったなぁ」
「なにか食べて帰る?」
「ナマエも腹減っとんの?」

 問いかけられて、自分のお腹をチラリと見る。言われてみると少しだけお腹が空いているような気がした。

「んー……ちょっとだけ」
「ほんならなんか食いたいもんは?」
「……じゃあ、肉まん食べたいな」

 頭に浮かんだ食べ物の名前を口に出すと、治君は眉間にシワを寄せた。

「『豚まん』やろ」
「……肉まん」
「豚」
「もうどっちでもいいよー。コンビニ行こう」
「豚まん」
「……肉まん」

 なおも拘る治君に負けじと言い返すと、治君はハハっと笑い声をあげた。

「お前は全然朱くならんなぁ。マクドも『マック』やし」
「私がもし『マクド』って言ったらそれはそれで色々言うくせに」
「そら言うやろ。おもろいもん」
「ほら! だから言わないの」

 むっと唇を突き出しながらそう言うと、治君はハハハ、と楽しそうに笑った。



 コンビニで肉まんを二つ買って、少しお行儀は悪いけれど、それぞれ歩きながら食べる。美味しい。肉まんに入ってるタケノコが好きだなぁ。などと思いながら、隣の治君を見上げる。

 見た感じはいつもと同じに見える。いつもどおりの優しい顔だ。角名君にはああ言われたが、今あの話題を切り出すのはやめておいたほうがいいだろう。

「もうすぐ地区予選だね。観に行っていいんだよね」
「あー…………それがなぁ……」
「どうかした?」
「いや、俺こないだ怪我したやん? もう殆ど治っとるんやけど、まだ完全には調子戻っとらんから、予選はあんま出られへんかもしれんねん」

 すまん。と小さな声で言いながら、治君は申し訳無さそうに頭を掻いた。

「そうなの?」
「すまんな、約束したんに」
「ううん。そんなことより怪我の具合は大丈夫なの?」
「ああ、大事を取るだけやから。まぁでも全く出えへんってこともないと思うし、観に来るんはええけど……」

 言いづらそうにそう言う治君を見て、ひょっとしたら侑君ともこの事で喧嘩になったのかもしれないと思った。

「うん。観に行く。治君が出ても出なくても、全部観に行く」
「全部か。えらい気合入っとるな」
「だって、二年生の春高は一回だけだもん。本戦は見に行っちゃダメなんでしょ?」
「…………あかん。東京はあかん」
「わかってる。でも、来年は観に行きたいから。インターハイも、春高も。だから今年はちゃんと言うとおりにする」

 だから許してくれるよね? そんな期待を込めてジッと目を見ながら言うと、治君はハハッと声を上げて笑った。

「負けたわ。なら来年は観に来てええよ」
「ホント!?」
「……サキたちに頼んどくわ」

 小さくため息をつきながら言ったその言葉を聞いて、ふと思い出した。

「あ、そういえば今日ね、部活中にサキちゃんたちと話してて、進路の話になったの」
「…………進路?」
「ほら、年明けに職業紹介みたいなのあるでしょう? 期末終わったら来年の選択科目も決めないといけないし。……今日話しててね、私だけ何も決めてなくて……なんか焦っちゃって。治君はどうするのかなって。やっぱりバレーの……」

 言いかけて、ハッと言葉を呑み込んだ。治君の顔が先程のように険しかったからだ。

「……どうかした? 私……何か変なこと……」
「…………いや、すまん。ナマエのせいやない」
「……じゃあ、どうしてそんな顔……?」

 治君は小さく息を吐き出すと、私の手を引いた。

「立ち話もなんやから、公園にでも行こか」



***



 以前、治君と話したのと同じベンチに座る。あの頃はまだ付き合ったりとか、好きだとすら思っていなかった。ただ、優しい人が、私に優しくしてくれた。それがただただ、嬉しかった。

「進路な、今揉めててん」
「……揉める?」

 先程見た侑君の顔が頭に浮かんだ。

「……俺な、ずっと前から、飯に関わる仕事に就きたい思とったんや」
「めし……お料理屋さん?」
「まあそんなとこやな。俺は飯食っとる時が一番幸せやから……そういう仕事に就きたいなぁ思とって」
「……いいね。すごく治君って感じする。付き合う前にくれたおにぎりも、とっても美味しかったもの。治君の作ったお料理で、みんなが幸せになったらすごいね! いいね!」

 治君が初めて私にくれたおにぎりは、とっても美味しかった。でもそれはきっと技術とかだけじゃなく、治君の心がこもってたから。美味しいものを食べてもらいたいという治君だったから、私も心を動かされたに違いない。

「ふはっ、ナマエはそう言ってくれると思とったけど、思ったとおりやな」
「……侑君は……?」
「ああ。納得してへんねん。アイツはバレー一筋やから。当然俺もそうやと思とったんやろな……」
「侑君、治君とバレーするの大好きだもんね」
「……好きなんは『バレー』やろ」

 照れ隠しなのか、少し拗ねたような顔でポツリと呟く治君が可愛かった。

「ま、春高終わるまではそっちに集中したいし、とりあえず答え出すんは、年明けまで保留やねんけどな……」
「そっか。……自分を一番理解してくれる人がそばに居るって、心強いから。ずっと一緒にバレーやってきた治君が、遠くに行っちゃうみたいで淋しいんだと思うよ、侑君」
「アイツがそんなタマか」
「……私は、淋しいもん。卒業して、今みたいに会えなくなっちゃったら」

 先程感じた不安を口に出してみて、改めて思った。卒業したら、きっと今のようには一緒に居られない。治君の進路を聞いて、余計にそう思った。治君と私の進む道はきっと違う。今のように会えなくなったら、関係は壊れてしまうかもしれない。

 ……今がずっと続けばいい。そうすれば、ずっと治君と一緒に居られるのに。

「卒業したっていつでも会えるやろ。まあ、ツムには会えへんかもしれんけどな。…………念のため聞くけど、ナマエが会いたいんはツムやないよな?」

 治君は少しだけ顔をしかめながら、恐る恐るといったように私を見た。

「……なんやその顔。は? ホンマにツムと会いたかったん?」
「いや、そういうわけでは……」
「じゃあなんでそないな顔しとるん? 卒業しても変わらんやろ? 今までどおり俺ら一緒におるよな?」
「……そうなの……?」

 治君はこれから先も、一緒に居てくれるんだろうか。

「はぁ!? なんやそれ。卒業したら別れるつもりやったん? そんなん許さんで! 絶対別れたらんからな!」
「わ、別れたいなんて思ってないよ!」

 ブンブンと首を振ると、治君はなおもジッと目を細めて私を睨んだ。

「じゃあ何でそんなキョトンとしとるん。全っ然信じてへん顔やん」
「そんなこと……無いけど……」
「けど?」
「……治君モテるから、お客さんから口説かれそうだなって……」
「アホか。今かてモテとるわ。けど、どこへも行っとらんやろ。それがなんで卒業したとたん別れなあかんことになるん? 理解できん。ナマエのそういうとこ、ほんま腹立つわ」
「……ごめんなさい。別に治君のことを疑ったわけじゃないんだけど……。なんでかな……進路のことで、みんな自分の進路決めてて、私だけ決めてなくて……なんか置いていかれちゃった感じがあったから……かな。なんか……淋しくなっちゃって……」

 ごめんなさい。もう一度そう呟くと、治君は大げさなほど深くため息をついて、私の手をぎゅっと握った。

「悪い思とんの?」
「思ってる。本当に。ごめんね、もう言わない」

 コクコクと頷きながらそう言うと、治君は私の耳元へそっと唇を寄せた。

「ほんなら、チューしてくれたら許したるわ」
「……えっ、今……?」
「当たり前やろ。ほれ、はよせえ」
「ええ……今……?」

 キョロキョロと辺りを見渡すが、まだ日が落ちたとはいえ薄暗く、人通りもある。こんな中、ましてや外でキスをするなんて、さすがに抵抗があり渋っていると、治君は眉間にシワを寄せた。

「はよせえや。……許したらんぞ」

 ズイっと顎を突き出すようにして、治君が顔を近づけてくる。

「外なのに……」
「喧しい。今のはお前が悪い」

 勝ち誇ったような顔をして、治君が言う。今回も逃してはくれなそうだ。

「……じゃあ、ちょっとだけね?」

 治君の返事は聞かずに、サッと顔を寄せ、治君の唇に触れる。触れてすぐに離れるはずだったのに、治君はガッチリと私の後頭部を掴んで離さなかった。

「んー!」

 ドンドンと胸を叩くと、ウッと治君が息を詰まらせた。

「おま……手加減せえや」
「治君が変なことするから!」
「どこが変なことなん? 付き合うとる二人がキスして何が悪いんや」
「外だからちょっとだけねって言ったじゃない!」

 ヒソヒソと声を落としてそう言うと、再び治君がため息をついた。

「そない嫌がらんでもええのに」
「い、嫌なわけでは……」
「……俺がいくら好きや言うても、ナマエは信じてくれへんねんなぁ……」
「そっ! そうじゃないよ!」
「エッチもなかなかさせてくれへんし……」
「そ、そんなことないよ! ば、場所がなかなか無いだけで……!」
「ほんなら来月ツムが合宿でおらんとき、うちに泊まり来てくれる?」
「もちろん! ……えっ!?」
「言うたな。ちょうどそんときオトンとオカンが親戚の結婚式呼ばれてんねん。せやからだーれもおらん日があんねんなぁ……ちょうどいいことに」

 ニッと笑いながら、治君が言った。

「ひ、ひどい! 騙した!」
「別に騙しとらんやん。あー楽しみやなぁ」
「……侑君と一緒に寝てるベッドでエッチはできないからね……」
「変な言い方すな。ただの二段ベッドやろ」
「……それでもダメ。侑君に見られてるみたいで落ち着かない」
「それはそれで興奮するな」
「…………最低」
「冗談やん! ほんま可愛いなぁ」

 ケラケラと笑いながら、治君が言う。


「……治君」
「ん?」
「……侑君も、ちゃんとわかってくれると思うよ。……治君のこと」
「まぁアイツが納得しようがしまいが俺のやることは変わらんのやけどな」
「でも、家族だもん。きっとわかってくれるよ」
「……そうやとええけどなぁ」

 そうだ。家族なら、きっとわかってくれる。私にもあんな家族がいたら、もっと将来とか、いろんな話ができたんだろうか。

「……ナマエ? どないした?」
「……ううん。私も、色々考えなきゃいけないなって思っただけ。……私は、自分が何したいのかもわからないから……」
「ナマエなら大丈夫やろ」

 治君がなんでも無いことのように言った。

「どうしてそう思うの?」
「ん? 前も何食いたいかわからん言うとったやん。けど、もう今はわかるやろ? さっきも、食いたいもん言えたしな」
「……うん」
「ほんなら何がしたいかもちゃーんとわかるわ。好きなこと、楽しいことから考えてみたらええんちゃう?」

 好きなこと。

「そうして色々考えとったら、きっとポンっと思い浮かぶわ」

 治君にそう言われると、本当にそう思えてくるから不思議だ。

「うん。じゃあ考えてみる」
「決まったら一番に教えてな?」
「もちろん」

 治君は優しい。出会った時からずっと、この人は優しかった。この先もずっと、この人に私と一緒に居たいと思ってもらうためには、逃げてばかりではいけない。この人の隣に立っていても恥ずかしくないようになりたい。無性にそう思った。

 私はこの時初めて、自分だけでない『誰かとの未来』について、目を向けたのだった。
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