(7話)
「すまん」
身支度を整えていると、治君が項垂れたままポツリと呟いた。
「……なんで謝るの……?」
別に治君が謝ることなんて一つもないはずだ。授業をサボったのだって、治君と事に及んだのだって、私が自分で決めた。後悔なんてしてない。それとも……治君は後悔してるんだろうか。私としたことを。
「……最初やで? こんな埃っぽくて堅い机やなくて、もっとちゃんとしたとこでするつもりやったんや。……我慢できひんかった」
背中痛かったやろ。そう言って治君は、私の背中をそっと撫でた。
「なんだ……そういう意味か」
ホッと息を吐き出すと、治君は首を傾げた。
「そういう意味てなんや」
「……良くなかったのかと思っちゃった。その…………私とのエッチ。私、初めてで……上手くできなかったのかなって……」
思い出すだけで顔が熱くなってくる。初めてのことに戸惑うばかりで、治君に全て任せてしまった。つまらない女だと思われてしまったのかと思った。
「良くないわけあるか! 良すぎて全然足りひんわ。ハラペコや言うたやろ。むっちゃ我慢したんやで。褒めてほしいくらいやわ」
「じゃあまだハラペコさんなの?」
「当たり前やろ。全っ然食い足らんし、一口ばっかし食うて余計腹減ったわ。……けど、もう身体辛いやろ。初めてやもんな。どっか痛いとこは?」
言われてみると、たしかに下腹部の奥に鈍痛を感じた。でも、我慢できないほどではなかった。
「ううん、大丈夫。その……治君が、……優しくしてくれたから」
「おま…………人がせっかく我慢しとんのに」
「えー……これもダメなの? ……また勃っちゃった?」
「勃っとらんわ! お前ちょっと黙っとれ!」
「…………はい」
怒られてしまった。
チラリと時計を見ると、授業終わりまでは残り十分ほどだった。このまま戻れば次の授業には間に合いそうだけど……。どうするんだろう。治君は戻るんだろうか。
チラッと治君を覗き見ると、バッチリ目が合ってしまった。慌てて目を逸らすと、治君が小さく笑ったのが分かった。
「なんや拗ねとるんか?」
「……黙ってろって言われたから黙ってるの」
「ごめんて。おいで」
言いながら、グイッと後ろから抱き寄せられ、治君の腕の中にすっぽりと収まってしまった。
「……次の授業はどうするの?」
「腰痛いしサボる」
「北先輩に怒られちゃうよ? もうすぐ期末試験なのに」
「ナマエかて同罪やん。授業サボってこんなイケナイ事して。あかんわ。不良やな」
「治君にそそのかされましたって言う」
「うわ、売りよった。薄情な女やなぁ……」
耳元で笑いながら、治君は私の身体をギュッと抱きしめた。
「……好きやで」
「……私も、大好き」
***
その後、あの先輩たちに囲まれることは無く、至って平和な日々を過ごした。期末試験も無事終わり、もうすぐ夏休みだ。
バレー部はインターハイが近いらしく、毎日遅くまで練習しているようだった。『ようだった』というのは、遅くなるので一緒に帰っていないからだ。大抵は部活終わりに治君から連絡が来て、部活が終わったことを知る。いつもより遅い時間に連絡が来ることが多いので、忙しいのだと思った。
だが、今日は部活でお菓子を作るので、それを渡すべく、治君の部活終わりまで待つことになっている。
「ナマエちゃんは応援行かへんの?」
「応援?」
サキちゃんが出来上がったクッキーを摘みながら言った。
「インターハイやん! まぁでも日帰りできんこともないけど……ちょっと遠いかー」
「うちのバレー部、応援団とかもおるんやで」
「そうそう。おっちゃんらむっちゃくちゃ怖いねん」
「そうなんだ。行きたいけど、ちょっと遠いからどうかな……。でも行きたいな……」
治君には言っていないが、実は治君がバレーをしているところを一度観に行ったことがある。以前うちの学校で練習試合があった時に、こっそりと覗き見たのだ。治君は『構ってやれんから来んでええ』と言ったけど、一度見てみたかった私は、好奇心に勝てなかった。こっそりギャラリーに紛れて見たので治君には多分バレていないと思う。
我が稲荷崎高校は、強豪と言われるだけあって強かった。だが、バレーのルールくらいは知っていたが、やはり初心者の私では、『すごい』のはわかっても、『何がどうすごい』のかはわからなかった。
それでも、侑君の指先から放たれるボールが、相手ブロックの間隙を突いてコートに決まる様は、見ていてとても気持ちが良かった。
公式戦だと、以前見たものとはまた雰囲気も違うんだろうか。そういえばユニフォーム姿も見てみたい。一度そう思うと、どんどん気持ちが膨らんでくる。
それに、練習試合を観ていて、治君が侑君のようにトスを上げているシーンがいくつもあったのを思い出した。トスを上げるのはセッターのはずで、だから侑君のはずなのに、どうみても治君にしか見えない時が何度かあって、私はきっと狐につままれたのだと思ったのだ。化かされている。でもユニフォームなら番号が書いてあるはずなので、見間違えることは無いはずだ。その謎についても解いてみたい。
「……うん。やっぱりこの目で見たいから治君に聞いてみる」
「それがええよ。治もダメとは言わんやろ。……あ、クッキー冷めたで」
「ほなラッピングしよー。治君に渡すんやろ?」
「うん! 楽しみ!」
数時間後に会ったとき、彼は一体どんな顔をするだろう。喜んでくれるかな。美味しいって言ってくれるかな。その時にインターハイのことも聞いてみよう。
***
「ダメや。あかん」
ビシッと手で制しながら、治君は首を横に振った。
お菓子を受け取ってくれたところまでは良かった。その後早速包みを開けて食べてくれた。美味しいとも言ってくれた。それなのに、インターハイの話題を振った途端コレだ。
「どうして? 私も治君がバレーしてるとこ見たい」
「練習試合観に来とったやん」
「……なんで知ってるの?」
バレていないはずだったのに。どうして知ってるんだろう。
「そらあんなふうにうろちょろしとったら嫌でもバレるわ。バレてへんと思とったんが不思議なくらいやで」
「……でも! 治君がユニフォーム着て試合してるところ見たい!」
「あかん。一人で来るんやろ? 遠すぎや。迷子になっても誰も助けてくれへんのやで?」
「迷子になんかならないもん」
「ダメなもんはダメや。ユニフォーム姿ならいつでも見したるから」
「ユニフォームを着て試合してるところが見たいの!」
「ほんなら地区予選にしよ。それなら近場やし」
「もう終わっちゃってるじゃない!」
「春高があるやろ。予選は秋から始まるし。な? そうしとこうな?」
何を言っても首を縦に振るつもりがないことが窺える。
「……どうしてもダメ?」
「ダメ」
「どうしてものどうしても?」
「なんぼ言われても答えは変わらんで」
「……部活お休みの日に一日中エッチしてもいいよって言っても?」
「おっ……前……なんちゅうこと言うんや……」
治君はゲンナリとした様子で項垂れてしまった。
「言っても?」
「…………あかん! 性欲に惑わされる思うなよ」
「…………ちぇっ」
「ほんまどこで覚えてきたん……」
「だって……ホントに観たかったんだもん……」
治君の活躍を、その場で、同じ空間で応援したかった。本当はただそれだけなのだ。小さくため息をつくと、治君は私の隣で困ったように頭をガシガシと掻いた。
「……気持ちは嬉しいねんけどな、ホンマ心配やねん。心配しすぎて何も手につかんくなる」
「……それは困りますね」
「せやろ? ……地区予選は観に来てええから。な?」
「……わかった」
結局その後はもう何も言えなくなってしまい、私たちは無言で家まで歩いた。
***
「……で? なんで俺に聞くわけ?」
角名君がため息をつきながら面倒くさそうに言った。
「角名君なら良い案が浮かぶのかなって思って」
「だから。なんで俺なの。侑は?」
「侑君には、『絶対無理やし邪魔やからいい加減諦めろや』って半ギレで言われた」
バレーの邪魔すんな言うたやろ、と。相変わらず侑君は怖い。
「じゃあ銀は?」
「クラス違うから話したことないの。……侑君と角名君の二人から無理だって言われたら大人しく諦めようと思って……」
「無理だから諦めなよ」
「少しは考えてよ」
「やだよ。治から逆恨みされたくない」
ものすごく面倒くさそうな顔をして角名君が言った。やっぱり無理なのだろう。諦めるしかなさそうだ。すると、何かに気づいたように角名君の眉がピクッと動いた。
「あ、一つあるかも。いい案」
「何!?」
「色仕掛け。裸で迫ってみれば? 案外すぐ落ちるかもよ」
それを聞いてガックリと肩を落とした。
「……ダメ。効かなかったもん」
「は? マジで迫ったの? 裸で? ほんとウケるんだけど。やっぱアンタ面白いわ」
肩を震わせてクツクツ笑う角名君を睨みながら、私はこれでもかと大げさにため息をついた。
「脱いでません! 似たような手を使おうとして撃沈したの! ……やっぱり無理だよね。じゃあ諦めようかな……ネットとかでも見れるんだよね?」
「ああ、見れるよ。勝ち上がればローカルで中継とかもするんじゃない?」
「そっか。それなら――」
「……おい」
背後から治君の低い声が聞こえ、ドキッと心臓が音を立てた。
「……角名ぁ……お前か。コイツにつまらん入れ知恵したん……」
「ほら出たよ。言いがかり」
角名君が呆れたような顔でこちらを睨んでくる。顔に『だから言っただろ』と書いてある。
「とぼけんなや! コイツが変なこと言い出したんはお前が原因やろ」
「は? 話聞いてた? 俺が何か言う前にこの人もう既に何かやったんでしょ? 俺のせいじゃないじゃん」
「誰かが何か言わんとあの発想は出てこんやろ!」
「何やったのかすっごい聞きたいんだけど」
「聞かないで……」
とりあえず、治君の怒りを沈めることが先決だろうと思い、おほん。と一つ咳払いをすると、治君も角名君への攻撃を止め、こちらを見た。
「角名君じゃないよ。あれは、私が考えたの。……角名君には、観に行くのはやめた方がいいって言われたところ。それを聞いて、やめようって思ったところ。角名君は何も悪くないよ」
そう言うと、治君は苦虫を噛み潰したような顔で角名君をひと睨みした。それを受けて、角名君もジッと治君を見つめた。
「謝罪なら受け付けるけど?」
「………………悪かったな」
「全然謝られてる気がしないんだけど。……まぁいいや。じゃあね、ちゃんと話し合った方がいいんじゃないの。まぁミョウジさんはもう納得してるみたいだけど」
ひらひらと手を振りながら、角名君はそのまま去っていった。
「……まだ諦めてなかったんか?」
「……違うよ。最後に納得したかっただけ。……治君が嫌って言うのに、無理やりしたりなんかしないよ」
そうだ。もし、侑君や角名君から良い案を出してもらって、それが元で治君がイエスと言ってくれたとしても、私はきっと手放しでは喜べなかっただろう。反対を押し切って何かをするつもりはないが、かといって無理やり首を縦に振らせたかったわけでもない。
「……ただ、私は直接見れないのに、他の女は見るんだなって思ったら、なんか嫌な気持ちになったの。……私は、か、彼女なのに、って。ごめんね、そんなくだらない気持ちで、治君に嫌な思いさせちゃって」
サキちゃんに言われて、普通の彼女は応援に行くものなのだと思ったら、なんだかいたたまれなくなったのだ。もちろん、彼女たちに含みがあって言ったわけではないと、ちゃんとわかっている。それでも、彼女失格だとまた誰かから言われるんじゃないかと思うと、いてもたってもいられなかった。
嫉妬深い、子供じみた女だと思われただろうか。幻滅したかもしれない。チラリと治君を覗き見ると、治君は少しポカンとした顔をして、ポツリと呟いた。
「……やきもちか。なんや可愛えな」
「へ?」
少し間の抜けた感想を聞きながら、私は首を傾げた。
「俺のことが大好きやっちゅうことやろ?」
「……そう……ですね」
「心配せんでも俺はナマエのこと、死ぬほど好きやし、応援来ても来れんくても変わらんで。それに、お前が安全なとこから応援してくれとる思うだけでなんぼでも頑張れる」
「……ホント?」
「おん」
「……じゃあお家で見る」
「ええ子やな」
そう言うと治君は私の頭をよしよしと撫でた。
「あ、ほんなら、優勝したらご褒美にアレさして」
「……アレって?」
「部活休みんときに一日中てやつ」
ニッと笑いながら、治君が言った。
「えっ……! あ、あれは……」
「ええやん。優勝やで? 全国やで? そんくらいのご褒美くれたってバチ当たらんやん。ハラペコさんはずっとハラペコのままで待ってんねんから」
な? と甘えるように言われては、頷くしかない。あんな捨て身の作戦を使うんじゃなかった。
「じゃあ優勝してね」
「おん。……どこから食べよかなー。楽しみやなぁ」
そう言うと、治君は珍しく無邪気な顔で笑った。こんな顔が見られるなら、あの作戦も全くの失敗ではなかったかもしれない。この人が本気を出したらどうなるかなど、まだ知らない私は、そんな呑気なことを思った。
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