hay fever
かゆい。カユイ。痒い。
今週に入ってから、目がかゆくて仕方がない。あと、やたらとくしゃみが出る。それも一日に何回も。
周りでも辛そうにしてる人が何人か居る。あれだ。とうとう私にも順番が回ってきたんだ。
風邪だ。
「いやいやいや、花粉症デショ。いい加減認めなよ」
「嫌。私は花粉症にはならない」
言っている側から鼻がムズムズして、マスクの中で盛大にくしゃみが出た。そんな私を見て、蛍はあからさまに嫌そうな顔を向ける。
「はは……気持ちわかるよ。俺も花粉症になった年は認めたくなかったもん。……もう諦めたけど」
辛そうに鼻をすすりながら、山口君が慰めるように言う。
「やめて、山口君。私は違うから。風邪だから。あー、なんか頭痛い気がしてきたし? 熱っぽい気もするし?」
そう言ってる間にもくしゃみが出る。さすがにマスクの中がヤバイ。トイレで鼻かんでくるか。そう思い、立ち上がろうとした時、隣から大きなため息が聞こえた。
「いい加減、往生際悪すぎじゃない? 花粉症なんか珍しくもないんだからさっさと病院行って薬貰ってきなよ。そうやってこだわって重症化する方がバカだよ」
「バカって言わないでくんない!? あのさぁ、普通彼女が辛そうにしてたら心配するもんじゃないの!? さっきから全っ然優しくないんですけど!」
「はぁ? だから病院行けって僕は何度も言ったよね? たとえ彼女だからって、症状出てんのにグダグダ言って病院行かずに悪化させるバカに優しくする程、僕はヒマじゃない」
そう言うなり、彼はトレードマークのヘッドフォンを装着した。もう私と会話するつもりはないらしい。
「あっそ! もういい。蛍のそういうとこ、ホント嫌い」
「ナマエちゃん! 授業始まるよ!」
「サボるからいい!」
「ほっときなよ」
「……なによ! 蛍なんか知らない!」
ふんっと顔を背けて教室を飛び出した。授業? 知ったことか。どのみちこんな体調じゃ受けても頭に入らないし。
***
とりあえず教師の目を逃れるために屋上へ行った。……が、ものの数分でその選択を後悔することになる。
なんでだろう。教室に居た時よりも目が痒い。くしゃみも止まらない。だめだ。花粉は高いところの方が飛散量が多いと聞く。屋上なんて……。
そこまで考えてブンブンと首を振った。違う。私は花粉症じゃないんだった。これはただの風邪で……。
……。
なんだろう。なんかむなしい。蛍の言う通り、私はバカなのかもしれない。
「……保健室、行こう」
***
保健室へ行くと、まず熱を測らされた。いつもより少しだけ高めだが、平熱の範囲内だった。
「熱は無しか……じゃあ花粉症かしらねぇ」
「……花粉症じゃないれす……」
この期に及んで往生際の悪い自分に嫌気がさした。きっと、こんな私だから蛍も心配してくれないんだ。
「どうする? とりあえず寝ていく?」
もし花粉症なら症状が軽いうちに病院行ったほうがいいんだけど。なんて、保健室の先生に困ったような顔で言われてしまい、口からため息が漏れた。
「……あと20分で授業終わるから、その間寝てていいですか」
「いいわよ。あんまり無理しないでね。花粉症って言っても、今は薬も色んなのがあるから。お医者さんで相談してみなさい」
「……はい」
ベッドで横になりながら、先ほどのやり取りを思い返した。
別に蛍は悪くない。多分私は花粉症だろうし。
……多分……いや、間違いなく。
でも、認めたら症状が重くなりそうで嫌だった。誤魔化せるうちはまだ花粉症ではないと思った。思いたかった。だって、私の周りの花粉症の人達の苦しみ様はそれはそれは凄かったから。
絶えずくしゃみや鼻水に悩まされ、集中力は落ち、花粉のシーズンは洗濯物も外には干せない。そんなの嫌だ。辛すぎる。
でも、蛍からしてみれば、辛い辛いと言いながら、何の解決策も取ろうとしない私にイライラしたんだろう。いい加減にしろと言いたくなる気持ちもわかる。蛍は悪くない。それなのに、つい彼に八つ当たりをしてしまった。
優しくないなんて思ってない。蛍はいつだって優しい。意地悪な言い方をしていても、私に対しては愛情を感じる。それを感じ取れないほど、私は馬鹿じゃない。ちゃんと分かってる。
どうしてあんな言い方をしてしまったんだろう。もしも許してくれなかったらどうしよう。考えていたらゾッとした。ダメだ、やっぱり謝ろう。ポケットへと手を伸ばすと、ポケットの中身はスカスカだった。
……携帯を忘れてきた。教室に。
「あー、サイアク」
……何してるんだろう。いい加減、自分の阿呆さに腹が立つ。癇癪を起こして、教室を飛び出し、授業をサボった。……馬鹿みたいだ。
授業時間はもう少しで終わる。教室に戻ったらちゃんと蛍に謝ろう。そう心に決めると、少しだけ目を閉じた。
教室に戻ると、山口君が驚いたように目を大きく見開いた。
「あれ、ツッキーに会わなかった?」
「蛍? ううん。会ってないよ」
「そっか。入れ違っちゃったかな。ツッキー、ナマエちゃんが帰ってこないから探しに行ったんだよ」
「そう……なんだ」
なんだかんだ言いながらも心配してくれていたのだと知り、先程の自分の子供じみた行動が恥ずかしくなった。
「ツッキー、あれで心配してるんだよ。色々、花粉症のこととか、効くって言われてる民間療法について聞かれたよ。『これは効くの? あれは効くの?』ってさ」
「……ひょっとして、先週から蛍がやたら私に飲むヨーグルト飲ませようとするのは……」
「ははは、多分ツッキーなりにナマエちゃんの症状が軽くなるようにって思ってるんじゃないかな……」
ズキンと胸が痛む。
やっぱりあんな言い方しなきゃよかった。今すぐ蛍に会いたい。会って、謝りたい。
ちょうどその時、教室の後ろの扉がガラリと音を立てた。見ると、怖い顔をした蛍が眉間にしわを寄せてこちらを見ている。
「戻ってたんだ。なら連絡してよ」
ムスッとした顔でそう言うと、蛍は自分の席へとついた。
「……で? どこに居たの」
「……保健室にいた」
「ああ。風邪、だもんね」
ぶっきらぼうな口調からは、彼の苛立ちがにじみ出ていた。でもそれは、心配してくれているからなのだと、もう分かっている。
蛍はいつだって優しい。なのに、私は甘えてばかりだ。
「蛍、今日私、部活休む。大地さんに言っといてくれる?」
「は? ……なに、そんなに酷いわけ?」
「大丈夫。あの……心配かけてごめんなさい」
小さな声でポツリと言うと、蛍の眉間の皺が少しだけ薄くなった。
「分かった。伝えておく。お大事に」
***
翌日登校すると、すでに蛍は席についていた。
「おはよう」
「……おはよ。風邪、もういいの?」
あえてその単語を強調するところに、蛍の底意地の悪さを感じる。でも、不思議と腹は立たなかった。
「はい、これ」
そう言いながら、一枚の紙を差し出した。蛍は怪訝そうな顔をして取り上げると、何かに気づいたように眉を上げた。
「病院で検査してきた。その……花粉症……でした」
それみたことかと、辛辣な言葉を浴びる覚悟をしながら、小さな声で呟く。しかし、蛍は何も言わずに検査結果を見ているだけだった。
「ふーん。でも反応してるの一つだけみたいだね。ならこのシーズン過ぎれば落ち着くんじゃない?」
良かったね。そう言いながら、蛍は検査結果を机に置き、スッとこちらへ返した。
「うん。病院で薬出してもらったんだけど、それ飲んだからか今日はちょっとラクなの。……少し眠いけど」
「ああ、花粉症の薬って眠くなるっていうよね。まぁでも、今は眠くなりにくい薬もあるみたいだから合わなかったら相談したら? とりあえずは授業中に寝ないように気をつけなね」
小さく笑いながら言う。そんな彼を見て、心の中でため息をついた。元から表情豊かではない彼では、怒っているのかどうか分からない。いつもより素っ気ないような気もするし、いつもどおりなような気もする。……でもきっとそれは、自分の中で昨日のことが消化しきれていないからだと思った。
だって、まだちゃんと蛍に謝ってない。
「ごめんね、蛍。優しくないなんて言って」
「……別に気にしてないよ」
「私は気にしてる。蛍に八つ当たりしちゃったこと。ごめんね。……私、蛍に甘え過ぎてた」
ごめんなさい。小さな声で呟くと、蛍の大きな手が私の手にそっと重なった。
「別に怒ってない。僕も言い過ぎたし。ただ、ナマエは僕が病院へ行けって言っても聞かないから、正直イライラした。軽いうちなら薬でなんとかなるかもしれないし、もし万が一本当に風邪で、重症化して何かあったらって思ったら、……イライラしたよ」
「心配かけてゴメンね。蛍は色々調べてくれてたのに」
その言葉に、蛍は怪訝そうに眉を寄せた。
「何、色々調べたって」
「え……? 山口君が……蛍が花粉症のこと……色々調べてたって……」
違ったのかな。内心首を傾げながら答えると、蛍の頬が段々と赤くなっていった。悔しそうな顔で口元を押さえると、蛍は視線を外して「あいつ……」と呟いた。
「今の……可愛い。もう一回して」
「はぁ!?」
「照れた顔、可愛い。もう一回見たい」
「……うるさい」
「蛍、こっち向いて。ちょっとでいいから」
「しつこいってば」
「蛍、おねが――」
「マスク剥ぎ取って今すぐこの場でその口塞いでやろうか」
凄むように上から睨みつけながらそう言われ、心臓が跳ねる。
「ゴメン……それはそれで……興奮するかも」
「変態か」
呆れたように笑いながら、蛍は私の髪を撫でた。その手がいつも通り優しくて、私はホッと息を吐き出した。
「じゃあ、花粉症落ち着いたらたくさんしようね」
「なんで? 花粉症でもキスくらいできるデショ。風邪じゃないんだから移るわけじゃなし」
「だって鼻で息できないし。あんなんされたら窒息する」
「ああ……それはそれで……」
……興奮するかもね。
耳元に唇を寄せ、そっと蛍が囁く。耳に吐息がかかるたびにゾクゾクと背中が震え、咄嗟に耳を押さえた。そんな私を見て、蛍が再び呆れたように笑った。
「ほら、興奮してる。変態」
「……うるさい」
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