- ナノ -


(30話)



 合宿三日目。今日も練習が終わるなり、木兎さんから呼ばれた。断る理由も無かったので、昨日と同じように第三体育館へと向かう。

 ふと、渡り廊下でしゃがみ込んでいる小さな人影を見つけた。ミョウジナマエだ。姿が見えないと思ったら。こんなところにいたのか。


「あっ! ダメよ! ダメダメ! やめて! 登ってきちゃダメ! お願い止まって!」

 焦ったような様子で何かを叫びながら、手に持った棒を一生懸命身体から遠ざけている。一体何を遊んでいるんだろう。近づいてチラリと覗き見れば、彼女の手元の棒には蜘蛛がしがみ付いており、ゆっくりと登ってきていた。

「やめてやめてー!」
「……何遊んでんの」

 ヒョイと彼女から棒を取り上げると、蜘蛛は茂みに放してやった。

「ありがとう……死ぬかと思った……」
「一体何してたわけ?」
「……水溜りの真ん中で……困ってたみたいだったから……」
「困ってたって……蜘蛛が? 虫嫌いじゃなかったっけ?」
「だって……」

 彼女が口を尖らせながらポツリと言った。

「……月島君が、蜘蛛は……良い虫だって……」

 だから助けてあげなきゃって思って。そう小さな声で呟く彼女を見て、思わず固まった。


 ……え、僕が言ったから? あんな……貧血を起こすくらい苦手な虫を、助けようとした?

 僕が言ったから?

 何それ。可愛すぎるでしょ……。


 マズイ。顔が緩む。咄嗟に手で口を覆うと、彼女から目を逸らした。

「あ、笑ってる……」

 ムッとした顔でジロリと僕を見つめながら、彼女はため息をついた。


「ツッキー! 何してんだ! 早く!」

 遠くで木兎さんが呼んでいる。行かなければ。

「あ、今日も自主練?」
「まあね。……君は?」

 来ないの? と暗に匂わせながら問いかけると、彼女は少し考えるようにしてから、「私も行っていい?」と僕を見上げた。

「……どうぞ」

 そう答えると、彼女は嬉しそうに笑った。



***



「お? 今日は仲間連れか?」
「はい?」

 木兎さんが体育館入り口を眺めながら言う。不思議に思って視線をやると、日向が体育館の中を覗いていた。

「あれ、日向? 飛雄はどうしたの?」
「影山は一人でトス練。俺一人だと出来ることないから、こっち来た」
「そうなんだ」
「だから「俺も入れてください!」」

 ドタドタという足音と共に、また煩いのが増えた。

「あ! ナマエがいる!!!」
「やっほー」
「あれ、リエーフお前夜久のところでレシーブ練習してたんじゃないの?」
「あ、俺今日は優秀だったので、早めに見逃してもらいました!」
「ええっっっ!!!!!」

 一際大きな声と共に、彼女の目が大きく見開かれた。

「なんで! もったいない! 夜久さんのレシーブ練習なのに!?」

 いきなり噛みつかれて、灰羽が口籠もりながら数歩後退した。

「え……でも……俺ブロックの方がやりたい……」
「本音ダダ漏れかよ」

 黒尾さんが呆れたように言う。

 元々社交的な彼女は、もうすっかり東京のメンバーとも打ち解けたようで、黒尾さんや木兎さん達とも普通に話している。灰羽についても例外ではなく、日向と同じように軽口を交わすようになっていた。


「そっか。ナマエちゃん、夜っ久んのレシーブ練習見たいっつってたもんな。今レシーブ練してるみたいだから見てきてもいいぜ」

 黒尾さんに言われるなり、ただでさえ大きな瞳を更に大きく見開いた。

「えっ! いいんですか!? じゃあちょっとだけ行ってきます!!! 木兎さん、ボール出しはまた戻ってきたらやりますね!!」

 そう言って、彼女は体育館を出て行った。一瞬たりとも迷いもしなかった。相変わらず彼女もバレー馬鹿だ。



「なぁ日向、ナマエって彼氏いんの?」

 彼女が立ち去った方向を見ながら、音駒の灰羽が日向へと問いかけた。

「ナマエ? さぁ、知らない。俺より影山とか月島の方が仲良いんじゃね?」
「ツッキー?」
「ああ、同じクラスだし。なぁ月島!」

 僕に振るなよ。そう思いながらとりあえず無視すると、背後から「無視すんなよ!」という抗議の声が上がった。それも無視すると、今度は黒尾さんがニヤニヤした笑みを浮かべていた。……こっちの方が厄介だな。

「……本人に聞けば」

 そう一言だけ告げると、灰羽は「そっか!」と言って頷いていた。





 自主練を半分程過ぎたところで、彼女が戻ってきた。

「ただいま戻りましたー。ついでに追加のドリンク取ってきました」

 戻ってきた彼女は両手いっぱいにドリンクを抱えていた。

「サンキューな。どうだった?」
「もう凄かったですー! 音駒の皆さんって黒尾さんも含め本当に皆さんレシーブお上手で、いつも試合見ながらすごいなーって思ってたんですけど! でも夜久さんはもう別格というか! ボールの殺し方が芸術的なんですよねー! これはうちの西谷さんも上手いんですけど! でもコースの絞り方もお上手ですし、もう本当に一日中見てたいくらいです!」

 普段は比較的冷めた印象の彼女が、こんなふうにきゃあきゃあと興奮気味に話す姿がなんだか新鮮だった。そういえば前回の合宿でもこのように話していたのを思い出す。バレーのことだとこうなるのか。

「チビちゃんもそうだけど、烏野はおだて上手が多いなー」
「音駒ばっかずりくね? ナマエ、俺のことも褒めて」

 ズイッと木兎さんが黒尾さんと彼女の間に割り込んだ。

「ナマエちゃん、気にしなくていいよ。木兎さん、練習しなくていいんですか?」
「するよ! 褒めてもらってから!」

 そう言われた彼女は、チラリと赤葦さんを見てから小さく頷いて木兎さんへと向き直った。

「木兎さんのキレキレのストレート、早く見たいです」
「そっかー! よーし、あかーし! 早く始めるぞー!」

 木兎さんはたったそれだけで上機嫌になってしまった。



***



 途中、梟谷のマネージャーから、食堂が閉まると知らされ、自主練は切り上げとなった。


「なぁ! ナマエは彼氏いんの?」

 食堂への道を歩きながら、灰羽は彼女にそう問いかけた。彼女の眉間に一気にシワが寄る。

「……そういう質問は受け付けておりません」
「なんで! いいじゃん」
「よくない。私に彼氏が居ようが居まいがリエーフに関係ないでしょ」
「なら俺と付き合わない!?」
「黒尾さん! この人ぜんっぜん話通じないんですけどー!!!」
「ナマエちゃーん、諦めろー」
「簡単に匙投げないでください!」
「だってナマエがちゃんと答えてくんないからじゃん」
「付き合わないから。もうやだ。リエーフと話したくない」

 ムッと口を尖らせた灰羽と同じように口を尖らせながら、彼女はこちらに逃げてきた。


 ……大王様の次は灰羽か。相変わらずモテるんだか何なんだか。しかも厄介そうな奴にばかり言い寄られるのは何なんだろう。きっと人懐っこいからだ。彼女は『良い人だ!』と思えばすぐに懐く。現に烏野の先輩達はもちろんこと、黒尾さんや木兎さん、赤葦さんにもこの数日ですっかり懐いてしまった。別に悪いことじゃない。でも……。

「おとなしいね。疲れちゃった?」

 人の気も知らないで、呑気な顔で見上げてくる。イラッとして、思わずため息をついた。

「えっ、なんでため息?」
「……別に」
「えー、なんか怒ってる?」
「怒ってないよ」


 
***



 それから、練習後は毎日第三体育館に集まるのが恒例になっていた。黒尾さんのアドバイスは的確で、今まで漫然とやっていたものが、きちんとしたロジックの元構築されていくのを感じた。楽しいとまでは思わないが、悪くはないという感じだ。

「とかなんとか言いながら、楽しそうだよね」

 クスクスと笑いながら、彼女が僕を見上げた。自主練が終わり体育館を出る時は、大抵彼女が隣にいる。

「気のせいじゃない?」
「そんなことないでしょ。ここの合宿来てから、月島君いい感じだもん。それに、黒尾さんに言われたことすぐに実践できるなんて、月島君ってやっぱり上手いんだなって思った」

 ふふふ、と小さく笑いながら、彼女は言う。

「呼んだ?」

 名前を呼ばれたことに反応したのか、少し前を歩いていた黒尾さんが振り返る。そして僕と彼女を交互に見てニヤリと笑うと、何も言わずに再び前を向いた。

 ……やっぱりこの人は厄介だ。


「なぁナマエ!」
「なに? ……きゃあっ!」

 灰羽に呼ばれ振り返ると、彼女はビクリと大袈裟なほど肩を震わせた。そして胸の前で拳をギュッと握ると、灰羽から距離をとった。そんな彼女に、灰羽はポカンとした顔を向けている。

「何? どうかした?」
「か、肩のとこ! クワガタ止まってるから!」
「え? クワガタ?」

 キョトンとした顔をしながら、灰羽は指差された先を確認し、クワガタをひょいと捕まえた。

「ははっ、デカイなー」
「は、早くどっかにやって!」

 強い口調でそう言う彼女の様子を窺うと、まだ先日のように貧血は起こしていないらしかった。顔色はそこまで悪くはない。だが、早くどうにかしてやった方がいいだろう。

「なんだ、ナマエちゃん虫ダメなのか」
「はい。虫だけはダメで……」

 黒尾さんに答えるようにそう言った瞬間、灰羽は何を思ったのか、持っていたクワガタを彼女に見せつけるように近づけた。

「ほら!」
「ひっ――――!」

 声にならない悲鳴を上げ、彼女は硬直した。胸の前で握った拳を震わせながら、ガチガチと歯を鳴らして硬直する様は、明らかに異様だった。目の焦点も合っていないし、呼吸もおかしい。一気に血圧が下がったのか、顔も真っ白だ。

「おいリエーフ、やめろ」

 黒尾さんがいち早く灰羽を制した。他のメンバーも様子がおかしいことに気付いたのか、唖然とした様子で彼女を見守っている。

 マズイ。素早く彼女の側に駆け寄ると、とりあえず持っていたタオルを頭からかけた。

「きゃああぁああ! やだやだ! やめて!!!」
「落ち着いて! 大丈夫、僕だから!」

 暴れる彼女を羽交い締めにして、他のメンバーに声をかけた。

「少し落ち着いてから戻るので、先に行って下さい」

 赤葦さんが、いち早く木兎さんと日向を連れてその場を離れた。灰羽は心配そうな顔で様子を伺っていたが、半ば強引に黒尾さんに引きずられていった。




 とりあえず、腕の中の彼女が落ち着いたことを確認してから、彼女にかけたタオルを取り去る。そして手近な縁石へと座らせると、ゆっくりと視線を合わせるように顔を覗き込んだ。すると、ようやく彼女の目が僕の姿を捉えたようだった。

「大丈夫?」

 静かに問いかけると、みるみる内に瞳に涙が溜まり、ボロボロと零れ落ちた。

「無理……大丈夫じゃないっ……」

 そう言って泣き出してしまった彼女の背中をそっと撫でると、ますます泣き声は大きくなった。

「落ち着いてよ。皆もう行ったし、虫もいない。大丈夫だから」
「やだ! 帰るっ! 宮城に帰るっ! ……お家に帰りたい」

 うわーん、と子供のように泣き出した彼女に、思わず吹き出すと、彼女は憤慨したような声を上げた。

「な、何がおかしいの!?」
「だって、家に帰りたいって。子供じゃないんだから」
「月島君には分かんないよ! 平気な人には……私の気持ちは分かんない!」

 そう言って、再びわんわんと泣き出してしまった。

 やれやれ。困ったものだ。


「……分かったよ。追っ払えばいいんでしょ」

 ため息混じりにそう言えば、彼女はキョトンとした顔で僕を見つめた。

「虫だよ。……僕は別に虫、平気だから」
「……月島君がいない時は?」
「流石に風呂とかトイレの中までは無理だけど、大抵一緒にいるデショ。練習も、練習後も」

 実際、この合宿に来てからというもの、常に彼女と一緒にいる。

「月島君が……守ってくれるの?」
「だからそう言ってるじゃん。……なに、僕じゃ不服なわけ?」

 そう問い掛ければ、彼女はふるふると首を振った。先ほどよりも呼吸も顔色も安定してきたように見える。

「ならいいでしょ。で? 少しは落ち着いた?」
「……すこし」

 小さな声でそう呟く。安定してきたとはいえ、まだ顔色は悪い。まだもう少しここにいた方がいいか。そう思い、とりあえず彼女の隣に腰をかけると、膝の上に置かれた手にそっと自分の手を重ねた。

「……どうして虫、そんなに苦手なの」

 知りたかった。彼女をここまで追い詰めるものの正体を。彼女に何が起きているのかを。

 彼女は一呼吸置いてから、小さな声でポツリポツリと話しだした。

「…………中学の時……下駄箱に、虫を入れられたの……」


『女の先輩と仲良くなかったから――』


「下駄箱の蓋を開けたら……い、一斉に、飛び出してきて……。半……制服が、半袖に、なったばっかりだったから……それで、……袖から……」

 言いながら、再び彼女の目に涙が溜まってゆく。唇を震わせながら、呼吸が少し荒くなっていくのを見て、無理に思い出させたことを後悔した。

「ゴメン。もう分かったから話さなくていい」

 そう言って彼女の背中を撫でた。
 そんな事があったのなら、ああなるのも無理はない。高橋達が話していた『トラウマ』は、きっとこのことだろう。

「忘れられないの……一斉に向かってくるあの感じも、羽がカサって服の中で擦れる感触も。……月島君が教えてくれて、刺さない蜂がいるっていうのも頭では……分かってる。虫を全部怖がる必要はないって、ちゃんと分かってる。……でもダメなの。どうしても……怖くて……」
「わかったから。もう大丈夫。……大丈夫だよ」

 そう言って彼女を抱きしめると、彼女のか細い手が僕の背中を抱いた。


 そんな事があったのに、昨日蜘蛛を助けようとしたの? 僕が言ったから?


 心の中で問いかけた。怖かったろうに、どれだけの勇気を振り絞ったんだろう。そう思うとたまらなかった。


「鼻でた……」
「きったな! ほら、拭きな」
「ちょっと! 痛い! 乱暴者!」

 グリグリと持っていたタオルで顔を拭くと、彼女から抗議の声が上がった。目が合い、彼女が照れたように肩を竦めた。

 ああ、可愛い。愛おしい。彼女が感じている不安や恐怖を、全て肩代わりしてあげたい。心の底からそう思った。

 そんなことをされた原因は、おそらく妬みによるものだろう。心底くだらない。彼女にそんなことをした奴ら全員、同じ目にあわせてやりたいくらいだ。


 見ると、顔色はだいぶ戻ったようだった。もう大丈夫だろうか。

「ほら、そろそろ立ってくれる? それともまた運んでさしあげましょうか? 女王様」
「……うん。おんぶして……?」

 いつになく素直な物言いに、思わず面食らう。あまりの可愛さにニヤけそうになるのを必死に隠しながら、彼女に背を向けかがむと、彼女はゆっくりと僕の背中に乗った。


「月島君……」
「何」
「……ありがとう」

 そう言うと、彼女は僕の背中に顔を埋めた。
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