- ナノ -


(23話)



 期末試験が終わり、いよいよ東京での合宿が始まろうとしていた。約二名を除いて。


 部室で着替えていると、扉がバーンと音を立てて開かれた。ギョッと振り返ると肩で息をした彼女が立っていた。


「うぉーい! ナマエちゃんここ男子部室――」
「飛雄が赤点って!!!」

 田中さんの言葉を遮って彼女がそう叫ぶ。

「信じらんない。なんで赤点? なんで38点? ボーダー40点だよ!? あとたったの2点じゃん! 意味分かんない……」
「……うるせーな」
「よりによって読解問題こんなに出るなんて……っていうか読解問題捨てすぎだから!」
「うるせえな!」

 どうしよう。どうしよう。と呟きながら部室をグルグルと歩いている。相変わらず漫画みたいな女だ。

「はっ! 私、先生に事情を話して、補習の日程をずらしてもらうように頼んでくる!」

 いきなり息を飲んだかと思えば、そんなことを言い出した。

「いや、それはいくらなんでも無理デショ」
「だって! ……飛雄が合宿行かないなんて、あり得ない。意味分かんない……」

 泣きそうな顔をしながら「あり得ない」と繰り返す彼女に、僕はため息を一つ吐く。

「……赤点は王様だけじゃないと思うけど」

 彼女の大きな瞳がこれでもかと大きく見開かれる。そしてハッとしたように日向を見た。

「嘘でしょ! 日向も!?」
「……ごめんなさい」

 まるで叱られた子犬のようにシュンとした様子で日向がそう言うと、彼女はふらついた様子で頭を抱えてしまった。

「はい、君は外出て。まだ着替え中の人も居るんだからさ」
「あっ! ちょっと……!」

 首根っこを摘んで、ペイッと部室の外へと放り出すと、ようやく静かになった。




 部活が終わっても、彼女の表情は浮かないままだった。

「いつまでそうしてるつもり?」
「だって……日向と飛雄が合宿行けないなんて……」

 相変わらず彼女の頭の中は『王様』のことでいっぱいなのだろう。

「……そんなに王様が行かないのがショックなわけ?」
「……ショックっていうか……東京の人達に烏野って大したことないとか思われたら、なんかムカつく……!」

 ギリギリと歯を鳴らしながらそんなことを言う彼女を、どこか冷めた目で見下ろした。

「……あっそ」
「あ、またそういう感じで言う……。月島君、急に不機嫌オーラ出すのやめてください」
「別に出してないし」
「出てるし。……私、なんか怒らせた?」

 そう言って、彼女はシュンと肩を落とした。ほら出た。すぐそうやって被害者ぶるんだ、この女は。

「そっちこそ、何かあるとそうやってすぐ被害者面していじけんのやめてくれる」
「べっ……別にいじけてないし!」

 ムッと口を尖らせながら彼女はそう言った。思った通りの反応を返してくる。

「ほらね。僕だって別に怒ってない」
「……そう?」
「そうだよ」
「ならいい。……月島君と喧嘩すんのヤダもん」

 叱られた子供のような顔をして、彼女は小さな声で呟く。

 なんで嫌なの。そう問いかけようとしたのと同時に、彼女は誰かに呼ばれ去っていった。


 彼女が王様大好きなのは今に始まった事じゃない。それでも、ああやってあからさまにそれを見せられるとやっぱりいい気はしない。分かっていても嫌なものは嫌だ。


 やっぱり気づかなければよかった。



***



 数日後、僕たちは宮城から遠く離れた東京の外れに来ていた。

 狭い車内で揺られること四時間以上。さすがに身体が痛い。しかも夜中に出発したけどバスの中では全然寝れなかった。眠い。疲れた。

「大丈夫? 疲れた顔してるね」

 ふと見ると、彼女がこちらを見上げていた。

「月島君眠そうだね。バスの中で寝なかったの?」
「……君みたいにどこでも寝れるわけじゃ無いんだよ」
「あはは、月島君神経質そうだもんね」

 ケラケラと笑いながら、彼女はそっと僕の背中を撫でた。

「荷物置いたら練習始まるまで少し寝たら? ちゃんと起こしてあげるよ」
「……別に平気」
「そ? じゃあ荷物半分持ってあげよう。私たくさん寝たから元気いっぱいだよ」
「あ、ちょっと……!」

 笑顔でそう言って、彼女は僕からボールの入った鞄を一つ取り上げた。

「ナマエちゃーん」
「あ、はーい! じゃあ後でね」

 パタパタという軽快な足音と共に彼女は去っていった。

 背中が熱い。彼女が触れた所が。

 東京は蒸し暑かった。
 それだけで、イライラした。



***



 東京での合同練習は、ほぼ練習試合で終わった。色んな高校とひたすら試合をして、負けて、ペナルティでフライングをする。

 補習のバカ二人が到着したのは夕方のことだった。二人が来たおかげだなんて思いたくは無いけれど、最後の試合はようやく黒星をあげることができ、僕らはペナルティを免れた。


「飛雄達、間に合ってよかったよね」

 彼女が嬉しそうにそう言った。

「…………そうだね」
「最後は勝てたし! でもやっぱり東京ってすごいねぇ! 皆上手いよね! 生川ってところは、サーブがすっごかったよね! 梟谷のすごい髪型の人もすんごいスパイク打つし! あとね、音駒高校のね、夜久さんのレシーブをね、間近で見ちゃったの!! 凄いんだよー! 夜久さんがいるとスパイクを打つ場所が……」

 彼女はいつも以上にご機嫌だった。その理由に王様の御到着が入っているからだと思うと、それが余計に癇に障った。

「……どうかした?」
「……別に」
「なんか怒ってる? それとも疲れた? あ、肩揉んであげよっか?」

 私、上手だよ。いつもお父さんの肩揉んでるし。そんな事を言いながら、彼女は指をワキワキと動かした。

「結構です」
「遠慮しなくてもいいのに」
「してないから大丈夫デス」
「そう? じゃあ、何かして欲しいことあったら言ってね。……あ、山口君がお待ちですよ」

 指でちょいちょいと入口付近を指差す。その先で山口がこちらの様子を伺っているのが見えた。

「……君はご飯は?」
「マネ達は選手の皆さんが食べ終わったらゆっくり食べます。あのね、夜はお菓子パーティーもすんの! 他校のマネさん、みんなすごく良い人でね、一年生は私と谷地さんだけなんだけど、すっごく気さくなの。あ、もちろん清水先輩も優しいんだよ! 私、女子の先輩達と仲良く話すことあんま無かったからすっごく嬉しいんだぁ」

 そう言って、彼女が心の底から嬉しそうに笑う。

 ああ、そうか。確かこの人は青城の大王様と仲が良いんだった。先日も先輩からの呼び出しを警戒していたし、きっと先輩方とは上手くいっていなかったんだろう。女の嫉妬ほど怖いものはない。
 ひょっとしたら、王様の到着よりも、嬉しいのはそっちなのかもしれない。

「調子乗って太らないように気をつけてね」
「あー……そっか、怪我してから運動してないもんね。うん。じゃあ、食べすぎないように気をつける」

 ひひひ、と悪戯っ子のように笑う。……そんな顔すら、可愛いと思ってしまうのだから、自分は重症だと思った。

「じゃあ、またねぇ」
「……また明日」

 彼女を見送り、ため息を一つ吐く。


 ああ嫌だ。彼女への気持ちを自覚した途端、案の定彼女の行動一つ一つに振り回されている自分がいる。

 別に彼女に何かを告げようとなんか思ってない。ただ、自分がこの感情を持て余している事だけは分かる。


「……サイアク」



***



 二日間の合宿はあっという間に終わった。二日目も初日と変わらずペナルティの嵐だった。

 行きと同じように窮屈な車内で寝ることも叶わず、疲労感だけが蓄積している。幸い明日は体育館の点検が入ったらしく部活は休みだそうだ。

 久々にゆっくり休める。


 ふと見ると、見慣れた彼女が大きな荷物を抱えて前を歩いていた。

「ホント小さいね。荷物に埋もれてたよ」

 そう声をかけ、ヒョイと荷物を取り上げる。

「あはは、ありがとう! ちょっと調子乗って持ちすぎちゃったからどうしようかと思ってたんだ」

 そう言って、花が咲いたように笑った。

「まだ帰らないの?」
「ううん。これ部室置いたらもうおしまい」
「なら送るよ。時間遅いし」
「えー? どういう風の吹き回し?」
「……嫌ならいい」

 少しイラッとしてそう返すと、彼女は慌てた様子で僕の腕を掴んだ。

「あー! うそうそ! じゃあお願いします」


 体育館の横を通り過ぎる時、ボールの弾む音が聞こえた。

「あれ……今ボールの音しなかった?」
「あの馬鹿二人じゃないの」
「はは……合宿終わったのに元気だよね……俺もうクタクタ……」

 山口が苦笑いしながら言うが、彼女は体育館を見つめたまま足を止めた。

「……帰らないの?」
「あ……ごめん、やっぱり先帰って? ほら、あの二人後半全然話してなかったし。ちょっと心配だから様子見てから帰る」

 その分かりきった答えに、ため息すら出なかった。

「…………あっそ」
「あ、月島君! えっと……次の合宿の帰りに送ってくれる……?」
「……気が向いたらね」
「うん。ごめんね! じゃあ、山口君もお疲れ様!」

 そう言って彼女は体育館へと駆けていった。



***



 分かっていた。彼女が王様を優先することくらい。分かっていても、腹が立つのは仕方ない。僕のせいじゃない。

「あのさ……」

 山口が控えめに口を開いた。

「……何?」
「あの……ツッキーは、その……ナマエちゃんのこと…………」

 聞き捨てならない単語に、思わず目を見開く。

「あっ! いや、なんとなくそうなのかなーって思っただけっていうか……その……最近よくナマエちゃんと一緒――」
「名前……そんな風に呼んでたっけ?」

 ポツリと問いかけると、山口は驚いたように目を瞬かせた。

「えっ、名前……? ああ……日向と影山は呼び捨てだし……先輩たちもみんな名前で呼んでるからついつられて呼んじゃって……そしたらナマエちゃんが名前でいいよーって言うから。……その……ごめん」

 山口は言いづらそうにゴニョゴニョと語尾を濁らせながら頬を掻いた。

「なんで僕に謝んの」
「……嫌だったのかなって……」
「だから、なんで僕が……」

 そこまで言ってようやく山口が言わんとしていることが分かった。


「………………山口」
「ハ、ハイッ!」
「……誰かに言ったら――」
「いっ! 言わないよ!!!」

 くそっ。失敗した。別に誰が誰をどう呼ぼうが関係ないじゃないか。思わず取ってしまった自分の不自然な行動が悔やまれる。


「……ツッキーも『ナマエちゃん』って呼――」
「呼ばない」


 やっぱり自覚しなければよかった。何度目かわからないため息をついて、僕は肩にかけた鞄を抱え直した。
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