(20話)
インターハイ予選が終わって三日目。今日も昼休みににぎやかなオレンジ色が顔を出した。
「ナマエ!!!」
『小さいの』は元気よくそう呼ぶと、一目散に彼女の元へと駆け寄っていった。そんな日向を見て、彼女は少しだけ迷惑そうにため息をつく。
「……あのさぁ、日向。待ち合わせは15分だよねぇ……。今、何時かな?」
「……だいたい15分……くらい……」
「まだ10分! 私まだご飯食べ終わってないから!」
「……ウ、ウス……」
「食べ終わったら行くから。先行ってて」
シッシと手で払うようにすると、彼女は再び食事を再開した。
「なに、あんたレシーブ練習って毎日してんの?」
「……まぁね」
「日向君だっけ? 可愛いよねぇ。小型犬って感じ?」
「分かる」
「二人ともやめて」
「ナマエ、日向君と――」
「無いから。ヒナちゃんホントにやめて。はい、じゃあいってきます」
そう言うと、彼女は足早に教室を出ていった。
席が近いので嫌でも会話が耳に入ってくる。ここ毎日のように日向がやってくるのは、彼女と一緒にレシーブ練習をしているからだったらしい。まあ日向が積極的に絡んでる時点でバレー関連なのは予想がついていたが。
「あ、日向とミョウジさんだ」
山口が窓の外を指差しながら言う。視線を向けると、中庭で日向が仔犬のようにビョンビョン飛び跳ねている。相変わらず煩い。声がしなくても存在が煩い。
「毎日とか、ホント意味分かんない」
「はは。日向は分かるけど、ミョウジさんは意外だよね。バレーは上手かったけど、熱血タイプには見えないのに」
そう言って山口は笑った。
山口はそう言ったが、僕はそうは思わなかった。彼女はあのバレー馬鹿達と同じ人種だからだ。怪我をしたとはいえ、それは変わらない。それが先日のやり取りで分かった。
やっぱり、僕と彼女は違うのかもしれない。
レシーブ練習を見ながら、改めて彼女は上手いと思った。彼女が返すボールはほぼ一定で、下手くそな日向相手でもほとんどブレることは無い。それと同時に、何球かに一球、日向が取りにくいボールをあえて出していることも分かった。漫然と日向の練習に付き合っているわけではなく、日向の技術を底上げしようとしているのだろう。熱心なことだ。
一つだけ気になった。短い時間とはいえ、毎日あんなふうにやって大丈夫なんだろうか。
「……もう治ったのかな」
「治ったって?」
「……別に。なんでもない」
***
次の数学の授業は珍しく自習となり、教室内はざわついているものの、各自課題に取り組んでいるようだった。
ふと視界の隅で何かが動いたのを感じた。
見ると、前の席のミョウジナマエが様子を伺うように
こちらを見ていた。
「……なに」
「ねぇ、ここ分かんない」
くるりと体ごとこちらへ向けると、僕の机にテキストを開いて乗せ、設問を指差した。
「……だから何」
「教えて」
ここまでは分かったの。でもここからが分からなくて。承諾もしていないのに、そんなことを言いながら、彼女はノートを僕の方へと向けた。相変わらずの『女王様』だ。断られるとは思っていないんだろうか。
「……教えるなんて言ってないけど」
ため息まじりにそう言うと、彼女は心底驚いたような顔で僕を見つめた。……なんでキョトンとしてんだよ。
「いいじゃん。教えてよ」
「ヤダ」
「けちー! いいよーだ。月島君のケチ」
ムッと口を尖らせてそんなことを言うと、彼女は渋々といった様子で自分の席へと向き直った。
いいもん、じゃあ自分でやるから。意地悪。そんなことをブチブチ言いながら、テキストをパラパラとめくり始めた。
「……36ページの公式」
小さな声で呟くと、彼女が再び振り返った。
「36ページ?」
「公式、あるでしょ。三番目のやつ」
あっ、と小さな声を上げ、慌てた様子でページをめくる。
「わぁ! そっか! ありがとう!」
にっといたずらっ子のように笑うと、ペンを走らせ始めた。機嫌も直ったのか、鼻歌なんか歌っている。相変わらずコロコロと変わる表情は見ていて飽きないと思った。
しばらくして、彼女がガタリと音を立てて席を立った。後退りしながら、自分の席を見つめている。
見ると一匹のクマバチが彼女の机に止まっていた。
あぁ、虫が嫌いなのか。しおらしい面もあるんだな。そんなことを思い、小さく笑った。
「なに、虫ダメなの?」
言いながら彼女を見上げると、カチカチと歯を鳴らしながら胸の辺りでギュッと両手を握っていた。異様な光景に、思わず眉をひそめる。
「なに、どうし――」
「ナマエ、こっち来い」
後ろの席の高橋が彼女を呼ぶと、ハッとした顔をして駆け寄っていった。
心なしか青い顔をしてガタガタと震える彼女の肩を、いつの間にか近くまで来ていた彼女の友人が支えている。
「ちょっと、たかが虫くらいでオーバーなんじゃないの?」
スズメバチが出たのならパニックを起こすのも分かるが、たかがクマバチでここまで大騒ぎする必要なんて無いだろう。だが、彼女は泣きそうな顔をしながら、なおも自分の席に訪れた小さな物体を見つめている。
アホくさ……。
少し呆れた気持ちでため息を一つ吐くと、立ち上がり、手に持っていたノートをそっと彼女の机で休憩していたクマバチへと近づけた。できるだけ驚かせないようにそっと壁を作りながら窓の方へと誘導すると、クマバチは何事も無かったようにそのまま外へ出ていった。
「ほら、出てったよ」
声をかけるが、彼女は放心したように動かなかった。先程よりも顔が白い。
「ナマエ、保健室行こう? 大丈夫、一緒に行くから。ね?」
友人の一人が彼女を支えながら言う。確かに、今にも倒れそうなくらい顔色が悪い。
友人に連れられながら教室を出る時、彼女はふと足を止めた。くるりと振り返ると、駆け足で僕の席までやってきた。
「あの……ありがとう、月島君。虫、外に出してくれて」
消えそうなくらい小さな声でそう言うと、彼女は小さく頭を下げ、今度こそ教室を出ていった。
たかが虫一匹で保健室とか、正直ありえないほど大袈裟だと思った。ただ、彼女の怖がりようが普通じゃなかったのも確かだ。中学の時も教室に虫が入ってきて馬鹿みたいに大袈裟に騒ぎ立てる女子生徒は居たが、彼女らの場合はキャアキャアと喚き散らしながらも平静は保っていた。虫が嫌いなだけなら、ああはならない。きっと何か――。
「ナマエ、やっぱりまだ虫ダメなんだねー……」
「そりゃそうだろ。あんなんされたら俺だってトラウマになるわ」
「だよねー……。ナマエかわいそ……」
彼女のもう一人の友人と高橋の会話が耳に入ってくる。
あぁ。やっぱりトラウマ的なものだったのか。あの怖がり方を見たらそんなところだろうと思った。
「ツッキー、何かあったの?」
騒ぎが気になったのか、いつの間にか山口が近くまで来ていた。
「……何でもないよ」
小一時間ほどして、彼女が教室に戻ってきた。顔色はだいぶ戻ったようで、ほんのりと頬に赤みがさしている。
だが、本日分の授業はもう全て終わっており、後はHRが残るだけだ。戻ってこなくても問題は無かったのではと思ったが、荷物があるからかもしれない。
「ゴメンね、お騒がせしちゃって」
いつものようにヘラっとした笑みを浮かべながらそう言うと、彼女は席についた。
「私、注射と虫だけは苦手なんだよね」
「……もう落ち着いたの」
「うん。もう平気」
そう言いながらも、ちょっとした物音でビクッと彼女の肩が跳ね、恐る恐るといった様子で周囲を見回している。
……全然平気じゃなさそうですケド。
「……ねえ、君は虫が嫌いなの? それとも怖いの?」
「えっと……両方かな。だって、虫は刺すじゃない。さっきのも蜂でしょ? 蜂が一番嫌い。怖いんだもん」
「刺さないよ」
「え?」
「さっきのは『クマバチ』。蜂だけど、彼らは比較的温厚だから、めったなことじゃ人を刺さない。まぁ手で握り込んだり巣を攻撃したりしたら、流石に刺されるだろうけどね」
彼女は鳩が豆鉄砲でも食らったような顔をして、僕を見つめた。
「そう……なんだ……。刺さない蜂もいるんだ……」
「虫ってだけで全部一緒くたにされたら困るよ。それに、蜘蛛なんかは益虫って言われてるしね」
「えきちゅう?」
「利益の益。蜘蛛は君の嫌いな虫を食べてくれるんだよ。ゴキブリとかもね。ゴキブリ好き?」
「好きなわけない! っていうかゴキブリも食べちゃうの!? お腹壊さないの!?」
彼女の大きな瞳がますます大きく見開かれた。
「壊すわけないデショ。蜘蛛は排泄もそんなにしないし、巣を張らないのもいる。そんなに害は無いよ。……まぁ中には毒蜘蛛も居るから、こっちも一概には言えないけどね」
ウッと息を飲み、彼女は顔を歪ませた。目を見開いて驚いたり、顔を顰めたり、相変わらず忙しい女だ。やっぱり見ていて面白い。
「毒蜘蛛って……やっぱり怖いじゃん」
「中には、ってことだよ。全部が全部そうじゃない」
彼女はまだ納得できないような顔をして口を尖らせている。
「……じゃあさ、君スズメ好きだよね?」
「うん! 大好き! ……なんで知ってるの?」
「いつも窓から見てるじゃん」
彼女はよく窓の外を眺めている。その視線の先は大抵訪れたスズメへと注がれている。
「じゃあスズメがどうして人間が近づくとすぐに逃げるか知ってる?」
「知らない。大きくて怖いから?」
「違う」
「じゃあ何?」
「スズメは昔から人間に追い払われたり捕まえられたり、人間から迫害された歴史があるからさ。本能で人間が危険な生き物だって思ってるんだよ」
再び彼女の目が大きく見開かれた。
「何それ! なんで!?」
「スズメは春に稲についた虫も食べるけど、秋になるとようやく実った稲も食べちゃうんだよね。スズメはあんなナリして大食漢だし、米農家にとっては死活問題デショ。だからスズメが居着かないように追い払われたり案山子で脅かされたりしたんだよ。まぁ日本は稲作が盛んだったから仕方ないんだろうけどさ」
「えー! でも私はそんなことしないのに! 人間だってだけで同じにされたら困る!」
ムッと口を尖らせながらそう言う彼女に、思わず笑いが漏れる。
「ほら、同じデショ。虫だって、虫ってだけで一緒くたにされて嫌われたくないんじゃないの」
そう言ってやると、彼女は口を開けたまま固まってしまった。
まぁ君の場合、トラウマっぽいからそう簡単なものでもないんだろうけどね。そう心の中だけで付け加える。
「……月島君って、生き物博士みたいだね。博士って呼んでいい?」
「……ヤダ。ほら、先生来たよ。前向きな」
彼女は「えー、博士いいじゃーん」などと言いながらクスクスと笑った。もう先程までのようにビクついたりしていない。どうやら少し落ち着いたようだ。
冷静になり、ふと気づく。ついムキになって色々喋ってしまったような気がする。別に虫が特別好きなわけじゃないし、彼女に虫を好きになって欲しかったわけでもない。ただ、あんな風に怖がるのが少し可哀想だと思ったから。
……可哀想なのが彼女なのか、怖がられる虫なのかは分からないけれど。
***
翌日も変わらずオレンジ色はやってくる。
彼女は自席で手早くおにぎりを食べると、日向が迎えにくるより前に身支度を整えていた。
「早いね。お弁当やめたんだ?」
「日向が来るのが早いから。席移動してお弁当食べてたら間に合わないんだもん。おにぎりの方が早く食べ終わるからさ」
少し困ったような顔をしながらも、彼女の表情はどこか明るい。
「毎日毎日飽きもせずによくやるよね」
「そう? 楽しいよ。日向がどんどん上手くなるから」
「…………あっそ」
なんとなく面白くない。青葉城西との練習試合で、日向と共にレシーブ下手を指摘された身としては、なんとなく自分だけが下手なままだと言われている気がしたからだ。
「月島君も今度――」
「ナマエ! 食べ終わった!?」
ドタドタという足音と共に日向が顔を出す。相変わらず犬みたいな奴だ。
「終わったよ」
「じゃあいこーぜ!」
言うなり日向はグイグイと腕を引きながら、彼女を連れ出した。
出て行く彼女の後ろ姿を眺めていると、ほんの一瞬、違和感を覚えた。
「ツッキー? どうかした?」
「今……」
なんとなく、一瞬だけだけど、足を引きずったように見えた。
いや、気のせいかもしれない。気にしすぎだ。
「いや、何でもない」
そう言うと、不思議そうな顔で首を傾げる山口を無視して、昼食へと取りかかった。
放課後になり、いつも通りに部活をこなし、ようやく長い練習時間が終わった。
部活も終わったし、早く帰って休みたい。今日はもう金曜日だが、部活をしていたら土日だって休みはないのだ。当然明日も練習が入っている。
「じゃあ、お疲れ様でした」
「お先に失礼します」
自主練をしない僕らはそう言って体育館を後にした。……正確には後にしようと扉に手をかけた。
「わぁっ!」
「!?」
扉を開けると、すぐそこにミョウジナマエが立っていた。
「何……してるの」
「ビックリしたぁ……。そろそろ終わるかなーって思って、ちょっと待ってたの。なんとなく扉開け辛くて」
そう言うと、彼女は少し照れたように笑った。
「いや、そうじゃなくてなんで……」
「えっとね、日向と――」
「あ!! ナマエ!!!」
オレンジ頭の煩いのがピョンピョンと飛び跳ねながらこちらへやってきた。
「ちょうど終わったところ?」
「おう! ナマエ、早く早く!」
そんな会話をしながら、彼女は日向に手を引かれながら体育館へと入って行く。
ああ、また日向とレシーブ練習か。ホント、飽きもせずによくやる。そんなことを考えながら彼女の後ろ姿を見つめる。
昼間感じた違和感を再び感じながらも、僕は体育館を後にした。
制服に着替え、このまま校門へ向かうはずなのに何故か足が地面に縫い付けられたように動かなかった。
先程見た光景が頭から離れない。
彼女が体育館へと入って行く時、やっぱり足を少し庇うように引きずったのが見えた。
……やっぱり気のせいじゃない。
「ツッキー、帰らないの?」
立ち止まったままの僕を見ながら、山口が言った。
「……ごめん。先帰ってくれる?」
体育館を見つめながらそう言うと、一呼吸置いてから山口が小さく笑ったのが分かった。
「分かった。じゃあまた明日ね」
「……うん。また明日」
『なんとなく、気になっただけ』
『ただ単に、気が向いたから』
何度そうやって言い訳をしてきただろう。
最初は見るたびにイライラした。煩くて、気が強くて、自由気ままで。同じ空間に居るだけで腹が立った。
腹が立つのは、彼女のことが嫌いだからだと思った。だからわざわざ攻撃的な言葉を選んで投げつけた。それなのに、何度辛辣な言葉を浴びせても、あの女はいつだって立ち向かってきた。なんて気の強い女だと思った。
いつしか、そんなやり取りを楽しんでいる自分に気が付いた。でも気付かないフリをした。彼女は出会った時から『王様の女』だったから。関わりたくなかった。手に入らないものを欲しがる子供のようにはなりたくなかった。
認めたくなかった。振り回されるに決まってる。今だってこうして振り回されているのに。
でも、もうきっと遅い。もう誤魔化せない。
僕は彼女が好きなんだ。
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