(前編)
コツン。
消しゴムを小さくちぎったものを、向かいの窓ガラスに向かって投げる。昔からの彼と私の合図だった。程なくして彼の部屋のカーテンが開き、少し呆れたような顏で彼は私を睨め付けた。私はそれを無視してベランダを伝って彼の部屋へと飛び移る。
「お邪魔しまーす。研磨、ゲームやろ!」
「……普通に玄関から入ってきなっていつも言ってるじゃん」
はぁ、とため息をつきながら、研磨は私をジロリと睨んだ。
「だってこの方が早いじゃん」
「落ちても知らないよ。クロにも言われてるよね」
「平気だよ。昔から今まで散々こうやって入ってきたんだから」
目つぶってでも来れるよ。笑いながらそう言うが、研磨は笑わない。それどころか、呆れたようにため息混じりで呟いた。
「いつまでも昔と同じってわけには行かないでしょ」
たしなめるような口調に、私はムッと口を尖らせる。
「……何怒ってるの? 今までそんなこと言わなかったじゃん」
「言わなかっただけでずっと思ってたよ。……もう子供じゃないんだからこういうのもやめたら?」
うんざりしたような、呆れたような声で紡がれた拒絶の言葉に、心臓がドクンと音を立てた。
「……こういうのって……なに……?」
恐る恐る問いかけると、研磨はため息混じりに答える。
「……こうやって軽々しく男の部屋に来ること」
男の……部屋?
研磨は一体何を言っているんだろう。研磨の部屋なんかもう何百回も何千回も来てる。なんで? 急になんで研磨はこんなこと言い出したんだろう。
追いつかない思考に呆然と研磨の顔を見つめる。
「……もう来るなってこと……?」
「別にそうは言ってないけど……」
「言ってるじゃん! なんで急にそんなこと言うの?」
「……ナマエは女の子なんだからもっと気をつけた方がいいんじゃないのってこと」
言いながら、研磨は呆れたように小さくため息をついた。
なにそれ。全然意味わかんない。ただ分かるのは、研磨に拒絶されているという事実だけ。唇を真一文字に結び、必死に涙を堪えていると、研磨の部屋の扉がガチャリと開いた。
「うぃーっす。……何、お前らどしたの」
この微妙な空気を察したのか、もう一人の幼馴染のクロが私と研磨の顔を交互に見比べながら「喧嘩か?」と聞いた。
私は小さく首を振る。違う。喧嘩じゃない。私が一方的に研磨に攻撃されてる。私はいつも通り。何も変わらない。なのに研磨がいきなり意味わかんないこと言い出した。
「……私、帰る」
クロの横をすり抜けようとした時、クロの大きな手が私の腕を掴んだ。
「おいおい待て待て。何、何があったの。喧嘩なら仲直りまでしていきなさいって」
「知らないよ! 研磨がもう来るなって言ったの! だから帰るの!」
「だから……そんなこと言ってない」
「言ったじゃん! なんで嘘つくの!? 『軽々しく男の部屋に来るな』って研磨が言ったんでしょ!?」
堪えていた涙が溢れて頬を伝う。コップから水が溢れるようにボロボロと涙が溢れてくる。
「あー、落ち着け落ち着け」
クロがそう言いながら背中をさすってくれた。
「別に研磨はそういうニュアンスで言ったんじゃないだろ。研磨も、言葉が足んねーんじゃねぇの? ちゃんと話をしなさいよ、話を」
ほら座れ。そう促され、研磨のベッドへと腰を掛ける。私の隣にクロが座り、クロを挟んで反対側に研磨が座った。
本当は気付いてた。研磨の様子がおかしいことに。ここ二ヶ月くらい、時々態度が余所余所しかった。二人っきりにならないように、意図的に避けられてる気がしてた。
でも見ないようにした。だって見たらもう私は生きていけないから。研磨はいつだって私の世界の中心に居て、私の全てだった。それを取り上げられたら、きっと何も残らない。
研磨に嫌われたら、生きていけない。
「……で? なんでいきなりそんな話になっちまったわけ?」
クロが研磨へと問いかける。
「私はいつも通り研磨の部屋にゲームしにきただけ。なのに研磨が――」
「お前に聞いてねぇの。まずは研磨に聞いてんだろ。黙ってなさい」
ピシャリと言葉を遮られる。まるで裏切られたような想いでクロを睨みつけるが、クロはそんな私の視線も物ともせずに研磨へと視線を戻した。
「ナマエがベランダから入ってくるから、危ないから玄関から来たらって言っただけ」
「おまっ……ベランダはヤメロってあんだけ言ったダローが! 落ちたらどーすんだ!」
クロの大声が鼓膜にビリビリと響き、思わず顔をしかめる。
あー、しまった。そういえば散々クロにもやめろって言われてたんだった。別に忘れてたわけじゃないけど、気にしてなかったというのが本音だ。
「だ、だって! その方が近いんだもん……」
「だってもクソもねぇの! 危ねぇだろーが! 何のために玄関があんだよ!」
「分かったよ……もうしないよ」
「……ったく……お前は女の子なんだからさぁ……」
まただ。『女の子』。さっき研磨も言ってた。再びどうしようもない気持ちが込み上げてきて、視界がユラユラと揺れる。まるで自分だけが除け者だ。
小さい頃は三人で一緒にいるのが当たり前で、誰からも何も言われなかった。でも中学になって部活が男女分かれて、それから段々と昔のようには一緒に居られなくなった。何かにつけて分けられる。
男だから。女だから。
どうして一緒にいちゃいけないの? 男なら一緒に居られるの? ならいっそのこと、自分も男だったらよかった。男に生まれていたら、ずっと二人と一緒にバレーをして、ゲームをして、ずっとずっと一緒に居られるのに。
『女だから』私だけが一緒に居られないの?
「……ナマエ?」
黙り込んだ私に、クロが訝しげに声をかける。
「……聞いてるよ。ちゃんと聞いてる」
小さくため息をつきながら答えると、クロは困ったように頬を掻いた。
「……帰るね。もうここには来ない。それでいいんだよね」
「だから……んなこと誰も――」
「もういいの。……もういい」
おじゃましました。と小さな声で呟くと、どちらのものか分からないため息が聞こえた。
部屋を出ようとしてドアノブに手をかける。ふとあることに気づいた。……ベランダから来たから靴が無い。まぁいいや。隣だし、裸足で帰ればいいや。
「お前ベランダから来たのに靴持ってんの?」
「裸足で帰るからご心配なく」
「……靴貸すよ」
小さくため息をつきながら研磨が言う。
「いらない。裸足でいい」
「怪我したら――」
「隣だよ? 怪我なんかするわけないじゃん。それとも何、研磨の家の前はマキビシでも落ちてるわけ?」
鼻で笑いながらそう言うと、研磨の眉間に再びシワが寄る。自分でも嫌な言い方をしている自覚はあった。でも口が止まらない。
「……本当に大丈夫だから。悪いんだけどほっといて。もうここには来ないし、クロんちにも行かない。なんなら家から一歩も出ない。学校にだって行かない」
「お前は……なんでそう極端かね……」
クロは呆れたように大げさに溜息をつく。研磨に至っては言葉も出ないって感じだった。いつまでも、子供のようなことを言って二人を困らせることしかできない自分が、なんだかとても惨めで情けなかった。
「本当に学校行かないわけないじゃん。……バッカみたい。じゃあね。明日から迎えに来なくていいから」
そう言い残し、今度こそ研磨の部屋を出た。裸足で家へと到着するが、特に怪我はしなかった。
ほらね、平気じゃん。
倒れこむようにベッドにダイブする。きっと今頃、困った顔をして二人で顔を見合わせてる。癇癪を起こした私をどっちが宥めるか、相談しているかもしれない。でもそんなのどうでもよかった。
研磨に拒絶された。その事実だけが重くのしかかる。
もう無理。生きていけない。
何もやる気が起きず、その日は食事も摂らずに寝た。