- ナノ -


(15話)



「ツッキー、次体育だよ。早く行こう」


 体育館に着くと、コートの半分から向こう側にクラスメイト達の姿が見えた。

「あ、女子も体育館なんだね。バレーだ」
「……そうみたいだね」

 取り立てて興味もないので適当に相槌を打つと、嬉しそうにボールを弾ませているミョウジナマエの姿が目に入った。
 そういえばバレー経験者だと言っていた。足の怪我はもう大丈夫なのだろうか。ふとそんなことが頭をよぎる。愛おしそうにボールを見つめる姿が印象的で、彼女からしばらく目が離せなかった。


『月島君、悔しそうだったから。だからきっと上手くなるね』


 青城との練習試合で彼女に言われた言葉が頭の中で再生された。
 あれだけ偉そうな口を叩いたんだからどの程度の実力か見てやる。

 ……そんな思いで見つめていたはずだった。


 十分ほど経って、隣にいた山口がポツリと呟いた。

「ミョウジさん、上手いね」
「……そうだね」

 上手いなんてもんじゃない。全部とまでは言わないが、彼女のレシーブしたボールは殆どがセッターの元へと返っていった。自分自身、レシーブが苦手だという自覚はあった。だからこそ余計に彼女の凄さが分かる。ここまで来るのにどれだけの時間を費やしたのだろう。

 それなのに怪我で道を絶たれた彼女は、今どんな思いでコートに立っているのだろう。


 そこまで考えて、ハタと気付く。

 そうか。彼女はあちら側の人間か。そう思った瞬間、急に心が冷めていく気がした。
 彼女は僕らとは違う。あの王様や西谷さんと同じ人種。選ばれし者。

 僕ら凡人とは住む世界が違う。

 その事に気付いた瞬間、彼女が全く見知らぬ他人に見えた。





 その後、男子の方のバスケも始まり、授業へと戻るが、なんだか落ち着かない。隣のコートが気になっているのだと、本当は分かっている。だがそれを認めたくなかった。

「ツッキー!」

 不意に意識を戻される。しまった、ぼーっとしてた。意識外からボールが飛んできて慌てて構えるが、ボールは手元で弾けてコートの外へと飛んでいった。

 変な受け止め方をしたせいか人差し指がズキッと痛んだ。

「ツッキー、大丈夫? 突き指してない?」
「多分大丈夫だと思うけど……」

 一応念のため保健室へ行こうか迷っていると、隣のコートからも声が上がった。

 見ると、ミョウジナマエが地面にうずくまり膝を抱えている。心配そうに駆け寄る友人達に笑顔を向けながらなんとか立ち上がると、彼女は体育館を出て行った。足をピョコピョコと引きずりながら。

「……ごめん、ちょっと保健室行ってくる」
「えっ! ツッキー!?」

 なぜ彼女の後を追ったのかは分からない。何故か気になった。怪我の具合がなのか、彼女自身なのか。それとも両方か。


 ただ単に気になったんだ。



***



 体育館を出るとすぐに、彼女の姿を見つけた。

 膝を投げ出すようにして階段に座り、小さなポーチからテーピングのようなものを取り出していた。

 無表情で淡々と膝にテープを貼っていく。三枚目のテープを貼る時、テープがくっ付いたのか、手をプラプラと振り始めた。振ったせいか別の箇所もくっついてしまった。ああなってしまってはもう取れないだろう。諦めて新しく仕切りなおした方が早い。それなのに彼女は引き剥がそうと奮闘していた。やがて諦めたのか苛ついた様子でグシャグシャとテープを丸め始めた。

 ぎゅっと両手で握り締めたまま、彼女は動かなくなった。

 唇を噛み締め、睨むように自分の膝を見つめている。そして、手元にあったテーピングの入ったポーチを掴み、力任せに地面へと叩きつけた。

 叩きつけられた勢いで、ポーチの中身が地面へと散らばる。その時にポーチから飛び出したテーピングが、コロコロと転がりながら僕の足元へとやってきた。


 悔しい。悲しい。そんな感情が嫌でも伝わってくる。

 まだまだバレーがしたかったのだと、彼女の全身が叫んでいた。

 彼女はバレーを諦めたわけではなかった。


 両手で顔を覆い隠し、肩を震わせている。あれだけ気が強いのに、こんなふうに泣くこともあるのだと、どこか冷静な頭で考えた。あれだけの実力があれば当然か。
 きっと、僕ら凡人には分からない感情なのだろう。バレーが大好きだとか、取り上げられたらもう何も残らないというような、そこまでの感情は持ち合わせていない。

 きっと彼女の気持ちは、僕には一生分からない。


 足元へ転がってきたテーピングを拾い上げると、声も上げずに泣く彼女の元へ、そっと近づいた。

 声をかけようとしたのと同時に、彼女が顔を上げる。

「えっ、月島君!?」

 そう言うと彼女は慌てて顔を背け、乱暴に頬を拭う。

「な、何か用? あ、体育終わっちゃった?」

 顔を背けたまま早口でそう言う彼女の傍に、そっと拾ったテーピングを置いた。

「落ちてたよ」
「あ、ありがとう」

 えへへ、と作り笑いを浮かべながら、彼女はテーピングを手に取り、膝に巻き始めた。ぼんやりとそれを眺めていると、彼女は気まずそうに笑った。

「あの……まだ何か用だったりした?」
「……歩けるの?」

 歩けないなら、保健室に運ぶくらい造作もないことだ。前にも運んでやったことがある。そう思って問いかける。が、彼女は先ほどと同じように笑った。

「心配してくれたの? 優しいんだね、月島君。でも大丈夫。ちゃんと、一人で歩ける」

 どこか意地のようなものを彼女の口調から受け取った。

「……そう」

 片手で身体を支えながら立ち上がると、彼女は保健室へと向かって歩き出した。



***



「……なんでついてくるの?」

 片足を引きずるようにして歩きながら、チラリとこちらを振り返ると、彼女は小さな声でそう言った。

「別に君の後をつけてるわけじゃ無い」
「じゃあなんで? 体育は?」
「……突き指」
「え?」
「突き指した。バスケで」
「そうなの!? なんで言わないの! 私テーピング持ってるのに!」

 言うなり慌てた様子でヒョコヒョコと駆け寄ると、僕の手を取った。

「どこ?」

 手をひっくり返したりしながら、腫れているところが無いかと探しているのだろう。しきりに首を傾げている。

「人差し指。ほんの少しボールがぶつかっただけだから大丈夫。少し冷やしておこうと思っただけ」
「それでも固定しておいた方がいいよ。手かして、やってあげる」

 そう言うと、ポーチから細いテープを取り出し、手慣れた様子で僕の指に巻き付けた。

「はい。変だったら、ちゃんと病院行くんだよ」
「分かってるよ」
「じゃあ……保健室、行きなね」
「君も行くんじゃないの」
「……先行っていいよ。私歩くの遅いから」

 一人にして欲しい。そんな意思が彼女から伝わってくる。

「別にたいして変わらないデショ。それに『普通のクラスメイト』なら、怪我したクラスメイト置いていったりしないんじゃない?」
「……そっか」

 諦めたように笑う彼女を確認してから、とりあえず彼女の前でしゃがみ込んだ。

「えっ……いいよ、歩ける……」
「次の授業に間に合わなくなるよ。僕まで遅刻させる気?」
「……分かった」

 しぶしぶといったように頷くと、彼女はようやく僕の背中へとおぶさった。


 やっぱり彼女は軽かった。



***



 保健室で氷嚢をもらい、それぞれ痛めた箇所を冷やす。途中で養護教諭は職員室へ行くと言って出て行った。

「……さっきはゴメンね。お恥ずかしい所をお見せしちゃって」

 気まずそうに笑いながら、彼女は小さな声で呟いた。

「別に、バレーやってたらレシーブで転ぶことくらいあるデショ。珍しいことでもないよ」
「え……?」
「……何」

 ポカンとした顔で見つめてくる彼女から、そっと目を逸らす。彼女が小さく笑う気配がした。

「……ううん、なんでもない。……ありがとう」
「……どういたしまして」



 しばらく無言でそうしていると、不意に彼女が口を開いた。

「手術するっていう選択肢も、無くはなかったんだ」

「……なんでしなかったの」
「手術してリハビリをして、今までと同じようにバレーが出来るようになるまでには一年半から二年くらいかかるって言われた。
 受験もあったし、それが終わって春休みに手術をしたとして、まともにバレーが出来るようになるのは高校二年の終わりくらいだよ? そこからどこを目指すの?」

 彼女が諦めたように笑う。

「私はプロになれるほど上手くない。それは自分が一番分かってる。私は……『あの人達』みたいにはなれない。悔しいけどね。
 それなのに、手術してリハビリして、そこまでのコストをかける価値が自分にあるのかなって考えた時に、手術には踏み切れなかった。好きでバレーを続けてても、いつかは諦めなきゃいけない時が来る。ずっとは出来ない。なら、別に今でもいいのかなって思ったから。……日常生活には支障無いからね。それにほら、手術って、なんか怖いじゃない? 私、注射とか嫌いなんだよね」

 嘘か本当か分からないようなことを言って、彼女は笑った。

 僕から見たら、十分すぎる実力だと思った。でもそうじゃないと、彼女は言った。『あの人達』と言いながら、誰を思い浮かべたのかは嫌でも分かる。自分は天才じゃない。それを認める事は容易ではなかっただろう。もしかしたら、さっき見たように一人で泣いていたのかもしれない。今までに、何度も。


 ……その気持ちなら、なんとなく分かる気がする。僕の場合は……自分のことではなかったけれど。


「……後悔してる?」
「ん?」
「手術しなかったこと」
「んー、どうかな……。今日みたいにバレーやっちゃうと、やっぱりもう少しバレーやりたかったなって思うけど、実際に手術受けるかってなったら分からない。……前にね、『好きなら選べばいいだけだよ』って言われたことがあるの。手放しで選べるほど、私はバレー好きじゃないのかもね」

 そう言って、彼女はやっぱり寂しげに笑った。



***



「帰りもおぶってくれなくていいのに」

 大人しく人の背中におぶさっておきながら、彼女はそんなことを言った。

「君が遅いからだよ」
「ねえ、やっぱり重い?」
「重いよ」

 小さく笑いながらそう言うと、彼女もハハハ、と笑った。

「この正直者。そういう時は嘘でも『重くないよ』って言うんだよ」
「重いもんは重いよ」


「ナマエ?」

 不意に声をかけられて振り返ると、体操着姿の影山が怪訝そうな顔でこちらを見ていた。彼女の足元に視線を落とすと、ハッとした顔で駆け寄ってきた。

「足、どうした」
「あぁ、体育で――」
「あぁ!? なんで体育なんかやってんだよ!」
「なんでって……お医者さんからもう体育くらいならやっていいって言われたから……」
「でもこうやって怪我してんだろ!」

 鼻息荒く憤慨する様子の影山を見下ろしながら、僕はどうしたものかと背中の彼女の様子を伺った。

「あ、ごめん月島君。重いよね。ちょっと下ろしてもらっていいかな」

 気まずそうな声でそう言われ、そっと彼女を降ろした。

「ありがと。もしアレだったら先に行ってくれる?」
「長くなるの?」
「いや、全然」
「なら別にいいよ。歩けないデショ。……外した方がいいなら向こうに居ようか?」
「いや、それは大丈夫」

 ごめんね。彼女はそう小さく呟いて、影山へと向き直った。

「あのね、飛雄。私の怪我は、あんたのせいじゃないんだよ?」

 まるで小さな子供に言い聞かせるように言った。しかし、子供は納得していない様子だった。

「私が、あんたとの練習中に倒れたりしたから、責任を感じてるんでしょ?」
「……俺があんなボール出したりしなければ」
「違うよ。……私の足は、倒れる半年くらい前からおかしかったの。あの日のあの一球のせいなんかじゃないよ」
「……なんですぐ病院行かなかったんだよ」

 彼女は言いにくそうに俯いて、ポツリと言った。

「……勝ちたかったから。病院に行けば部活を休めって言われるのが分かってたから。でもどうしても勝ちたかった。大会が終わったら病院に行こうって思ってた。本当だよ。……だから私の足は、飛雄せいじゃない」

 影山は何か言いたそうにしながらも、結局は何も言わずに口を閉ざした。

「ほら、分かったら体育行きな! 遅れちゃうよ!」

 影山の背中をバシッと平手で叩きながら、彼女は笑ってそう言った。影山は納得したのかしてないのか分からないような表情で彼女を見て、その場を立ち去った。

 ふぅっと、彼女の深いため息が聞こえた。伏せた目元に、長い睫毛が震えている。一瞬泣いているのかと思ったが、そうではなさそうだ。

「……じゃあ、教室行く?」
「あ……、ちょっとトイレ寄ってから行くから、やっぱり先に行ってて? 待たせるだけ待たせてごめんね」

 嘘っぽい笑いを向けて、足を引きずりながら彼女はトイレへと向かった。


 その後、次の授業が終わるまで、彼女は戻ってこなかった。



***



 ようやく戻ってきた頃には、すっかりいつも通りの顔で、足は少し引きずっていたが、それ以外はまるで何もなかったかのようだった。

「はい、コレ」

 そう言って彼女は僕の机にイチゴ・オレを一つ置いた。

「お礼。さっきはありがとう」
「……わざわざどうも。っていうか、別にイチゴが好きなわけじゃないんだけど」
「そうなの? じゃあ次は違うのにするね」

 そう言って、彼女は笑いながら席についた。

 『次は』ということは、お礼をしなければいけないようなことがこれからもあるのだろうか。いや、きっと深く考えてないんだろうな。


 ふと、先程の影山とのやり取りを思い出す。二人にしか分からない絆のようなものを見せられたような気がした。

 最初からそうだった。彼女は『王様の女』だった。忘れていたわけではないが、この数日はその事実が頭から抜けていたような気がする。

 なんとなく面白くない気がするのは、僕が王様の事を嫌いだからだと結論づけた。


 思い返してみると、ここ最近は近づきすぎていたかもしれない。最初の頃に感じていたイライラや嫌悪感はもう感じなかった。だからといって、彼女のことを好きだとかそういう感情ではない。
 それでも他の女子生徒たちと同じかと聞かれたら、少しだけ違うような気がする。

 きっと、あんなところを見てしまったからだ。

 見なければよかった。知りたくなかった。彼女の意外な一面なんて。そうすればきっと、気にならなかった。


 気にする必要なんて、最初から無かった。

 だって彼女は『王様の女』なんだから。
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