(1話)
何度目か分からない大きなため息をついた、目の前の大きな男を見て、ナマエは小さくため息をついた。
「もう、何回目? 大丈夫だって! 旭、そんなに成績だって悪くないでしょ? ……まぁ良くも無いけどさ」
「おい! 傷つく事言うなよ!」
「このくらいで傷つくな!」
情けない声を出した男の頭をベシッと叩くと、男は「いてっ」と声を上げた。
この男の名前は東峰旭。背は高く、184cm。髭面の長髪。ぱっと見はイカツイ兄ちゃんだが、見掛け倒しな繊細な心の持ち主で、何かあるたびにこうしてため息をついて落ち込んでいる。そんな時、話を聞くのはナマエの役目だ。
ちなみに今回はこのあと控えている進路相談のことで悩んでいるらしい。
「お前はいいよなぁ……」
羨ましげに呟かれ、ナマエは首を傾げた。
「何が?」
「ナマエは成績もいいし、進路も決まってるんだろ?」
「進路っていっても専門だけどねー。まぁ進む分野が決まってると楽だよね」
にっと笑ってそう言うと、東峰は再びため息をついた。
「俺なんかバレーしかやってこなかったから、部活行かなくなったら何していいか分かんないよ……」
なら部活行けよ。
喉元まで出かかったが、ナマエはその言葉をぐっと飲み込む。今の東峰にとって、部活の話はとてもデリケートな問題なので、下手に刺激をしてはいけないと、ナマエも知っているのだ。せっついて更に拗れて部活を辞めてしまったりしたら、それこそ主将の澤村に殺されてしまう。
バレー部主将、澤村大地は、ナマエの中学時代の同級生だった。当時から同級生の中でも落ち着いた雰囲気を放っている澤村は、とても頼りがいがあり、一人っ子のナマエにとっては兄のような存在だった。
烏野に進学してからは、澤村を通じて、現副主将の菅原や、この目の前にいる東峰とも仲良くなった。最初こそ、見た目が怖い東峰の事は少し苦手意識があったが、内面を知るや否や、その気持ちはすぐに消え去った。
普段は気弱で情けない面も目立つ東峰だが、心根は誰よりも優しくて、思いやりに満ちている。
そして何より、バレーをしている時の東峰は最っ高にかっこいい。
そんな東峰の事を好きだと気付いたのはいつのことだっただろうか。きっかけはもう覚えていない。でも東峰の優しい面に惹かれたのは間違いない。
そんな東峰に、もうかれこれ一年以上片想いをしている。
普段から女子と積極的に話すタイプではない東峰にとって、ナマエはどんな存在なのだろうか。おそらく、今の東峰との関係は、『友達以上恋人未満』といったところだろう。この関係は心地よい。
……だが、物足りないというのも事実だ。卒業まで一年を切った今、ナマエはそろそろ東峰との関係を変えたいと思っている。とはいえ、今の関係が壊れてしまうのも、それはそれで怖い。
ナマエはどうやったらこの男を手に入れることができるのか、ここ最近ずっと考えていた。
「まぁまぁ、そんなに重く考えないでさ、気楽にいきなよ。この時期の進路指導なんて大したこと言われないって」
大丈夫、大丈夫。そう言って肩をポンポンと叩くと、東峰は再びため息をついた。
「俺もお前みたいにポジティブだったらなぁ……」
「旭はネガティブすぎじゃん? あれだね、足して二で割れたらいいのにねー?」
ふふふ、と笑いながら首を傾げながら問いかければ、東峰は照れたように笑いながら頬を掻く。
可愛いなぁ。180cmオーバーの男に可愛いも何もないと思うが、可愛いのだから仕方ない。
「旭……」
声をかけられ、二人同時に顔を上げる。深刻そうな顔で菅原が東峰のことを見下ろしていた。チラリと東峰を盗み見ると、気まずそうな顔で頬を掻いている。
「……さてと、うちもそろそろ面談呼ばれるかなー?」
そう言って立ち上がると、菅原は申し訳なさそうな顔で目配せをした。そんな菅原の肩をポンポンと叩くと、ナマエは教室を出た。
廊下に出て、窓から空を見上げる。菅原がわざわざ東峰に会いに来たということは、きっと要件はバレー部に関することだろう。
説得しに来たのかな。いい加減部活に戻ればいいのに。
そんなことを考えていると、オレンジ髪の男の子と、黒髪の長身の男の子が教室の前で中の様子を伺っていた。一年だろうか。声をかけてあげるべきか……。そう思ったのはほんの一瞬だけで、すぐに考えを改めた。
まぁいいや。子供じゃないんだし、自分たちでどうにかするだろう。冷たいと思われるかもしれないが、ナマエにとって東峰のこと以外は割とどうでもいいのだ。ナマエは再び外へと視線を戻す。
東峰を部活に戻すいい方法は無いだろうか。バレーが好きなはずなのに、責任を感じて苦しんでいる姿を見るのは、ナマエにとっても少々キツイ。できれば無理せず、自分の意思で戻って欲しい。傷つかず、自然に。何事もなかったかのように……。そんな都合のいい話は無いか。ぐるぐると毛先を指に巻きつけながら、ナマエは一つ大きなため息をつく。
「あれ、進路指導行ったんじゃないのか?」
声をかけられ振り返ると、東峰が立っていた。
「……だって私の順番は、旭の次の次だもん」
「えっ! ……あー……そうか……」
東峰は、申し訳なさそうな、気まずそうな顔でそう呟く。どうやら意図的に席を外したのがバレたらしい。ナマエは小さく笑うと、東峰の方へ向き直った。
「もう話は終わったの?」
「ああ。もう――」
「旭、待てよ!」
「「旭!?」」
菅原が東峰を追って出て来るのと同じタイミングで、先程教室の前でウロウロしていた二人組が勢いよく振り返った。
「はい?」
咄嗟に返事をした東峰の隣で、ナマエもジロジロと二人組を見た。東峰に用事だったのか。元気の良さそうな二人組だ。バレー部だろうか。東峰に用事なら声かけてあげればよかったかな。
先ほどあっさり見捨てたことなど忘れたように、ナマエはそんなことを思った。
「お前らこんなとこで何してんの」
菅原が二人組に声をかける。すると、オレンジ髪の一年生はエースになりたいからエースを見たかったと答えた。
困ったように固まる東峰と真剣な顔で詰め寄る一年生。どうしたものか。バレー部でもないのに出しゃばるのも気がひける。
「おーい東峰、進路指導。先生待ってる」
東峰を呼びにきたクラスメイトが困った様子で東峰に声をかける。東峰も気まずそうだし、仕方がないから助け舟を出そう。そう思い、ナマエは小さく咳払いをした。
「旭、進路指導。後つかえてるから早く行って。菅原、悪いけど出直してくれる?」
ニッコリと菅原に向かって笑いかけながら、東峰に向かってしっし、と手で追い払うような仕草をすると、東峰は申し訳なさそうな顔でその場を後にした。
東峰の後ろ姿を見送りながら、ナマエは菅原へと視線を向ける。
「ミョウジ……」
困ったような顔で菅原に見つめられ、ナマエは呆れたようにため息をついた。
「あのさぁ、旭を部活に戻したいんでしょ? ならこんな方法で戻るわけないじゃん」
「だからってこのままーー」
「私だって旭が部活に戻ったらいいって思ってるよ。でも、旭がちゃんと納得した形で戻んないと、意味無いでしょ」
ふう、とため息混じりに呟くと、背の高い黒髪の子が口を開いた。
「怪我とかですか?」
「いや、元気」
菅原が答える。
「外的な要因があるわけじゃ無いんだ。旭がバレーを嫌いになっちゃったかもしれないのが問題なんだ」
菅原は深刻そうな顔で東峰が部活に来なくなった経緯を説明している。ブロックがどうのとか、ボールを集めすぎたとか、そんなことを言っていた。ナマエはバレーのことは全くと言っていいほど分からないので、耳から入ってくる話の殆どが反対の耳から抜けていった。
東峰も居ないしここに居ても仕方ないからそろそろ教室に戻ろうか。ふう、とため息をつきながら、そんなことを思っていると、オレンジ髪の一年生が遠慮がちにナマエを見上げた。
「あのっ!」
「……何でしょうか?」
「どうしたらアサヒさんは部活に戻ってきますか!」
「わ、私に聞かれても……分かんないなぁ。私バレーの事分かんないから。でも、旭は押しには弱いけど、変なとこ頑固だから無理やり説得したってダメだと思うよ。何かキッカケがあればまた違うんだろうけど……」
そう言うと、菅原は気まずそうな顔で頷く。
「キッカケか……そうだな。西谷のことがキッカケになればと思ったんだけど……」
「ああ、あの可愛い子ね。ま、焦っても仕方ないじゃん? とりあえず、みんなも部活行ったら?」
部活へ向かった三人を見送ると、ナマエは教室へと戻る。そろそろ東峰は戻ってくるだろうか。進路指導に部活。考えることが多くて大変だなぁ。思い悩むタチの東峰には、今が一番しんどいだろう。それを考えると、告白したりなどという気は起きない。東峰を困らせたくないし、そもそも今のままではいい答えは聞けないだろう。せめて部活のことが落ち着いてからでないと。
「ただいま……」
どんよりとした面持ちで教室へ戻ってきた東峰を見て、ナマエはギョッと目を見張った。
「ど、どうしたの……そんなに悪かった?」
「いや……なんか先生と話してたらどんどん落ち込んできちゃって……」
東峰は重々しくため息をついた。
「ちょっとココ座りな。ほら」
東峰に着席を促すと、ナマエは自分も座り直し、東峰へと向き合った。
「先生、何だって?」
「いや、別に大したこと言われたわけじゃないんだ……。でも考えれば考えるほど、悪い方に考えが向かっちゃって……」
そう言いながら、ポツリポツリと東峰は話し始めた。
元々進学希望ではない東峰は、卒業後の大まかな進路について話をしたらしい。卒業、就職、結婚、子供の誕生、マイホーム購入。順風満帆な流れだ。ここまでは良い。
だが、その先に起こりうる不景気、からのリストラ、そしてローン破綻……。まるで絵に描いたような転落人生を想像し、東峰の心は折れてしまったようだった。逆によくここまで悪い方に悪い方に考えることができるもんだと、ナマエは感心したほどだ。
「あのさぁ……、ちょーっと悪い方に考えすぎじゃない? ローン破綻とか話が飛躍しすぎだって」
「そんなことないだろ。この間だって夕方のニュースで特集してたし、今は不景気だし珍しい話じゃないんだって……」
「そうだとしてもさ、なんで旭が何でもかんでも一人でやらなきゃいけないの。今時共働き世帯だって珍しくないでしょ? 奥さんだって働くかもよ? 夫婦で助け合えばいいじゃん」
「そうかなぁ……」
「そうだよ。私も共働き派だもん。結婚したって仕事辞める気無いし、多分ずっと働くと思うよ? だからさ、元気だしな!」
「えっ……」
驚いたように目を見開いて固まる東峰を見て、ナマエは首を傾げた。なんだこの反応は。自分が今言った事頭の中で反芻し、ナマエはハッと息を飲んだ。
「ち、違う違う! その……そういうタイプの女の人もいるよってこと! だから……その……旭も、そういうお嫁さん見つければ……いいんじゃないかなってことで……」
「だ、だよな……」
若干の気まずさに包まれ、ナマエは安易な自分の発言を後悔した。東峰は慎重だ。迂闊に攻めても、守りに入られるだけで何も進展しない。
今までだってそうだった。何度かいい感じになったこともある。だが、その度に東峰ははぐらかしたり冗談にしたりしてごまかした。
肝心な所でいつも線を引かれる。それが分かっているからこそ、こちらも慎重に距離を保ってきた。
まずったなぁ……。変に警戒されたらどうしよう。告白前に振られるとか、ホント笑えない。
そう思いながら東峰の様子を伺う。
「ナマエは俺と違ってこんなふうに思い悩んだりしないんだろうな。ポジティブだし、サバサバしてるし……」
「そう? そんなこともないけど……」
今だってこうして東峰のことで悩んでいる。
「そんなことあるって。ナマエはかっこいいよ。男の俺よりずっと男前だよ」
「……私、一応女なんで、男前って言われても嬉しくないんですけど……」
ムッとした顔で睨むと、東峰はアワアワした様子で手をバタバタと動かした。
「ゴメンゴメン。……でも、いつだってナマエは凛としてて、強くて。俺はカッコイイって思ってるんだよ」
「ありがとう……」
どうやら、先ほどのナマエの発言は特に気にした様子もない。東峰の普段通りの様子に、ナマエはホッと息を吐き出した。
「ナマエみたいな子と付き合ったら、俺ももう少し自信が持てるのかな……」
突如降ってきた思ってもみない言葉に、ナマエは目を見張った。
あ、コレ。チャンスだ。
いまだかつて東峰の方からこんな話題が振られたことなんてあっただろうか。いや、東峰のことだ。きっと深い意味なんか無いんだろう。話しの流れでつい口に出しただけなのだろう。だが、これは紛れもなく好機だ。
『攻め時を逃すな』
頭の中で声がする。ゴクリと唾を飲み込むと、覚悟を決めてナマエは勝負に出た。
「……じゃあさ、付き合う?」
「えっ……」
「……旭が、嫌じゃなかったら。付き合わない? 私、大事にするよ、旭のこと。ウジウジ悩んでても、ちゃーんと話し聞いてあげるし。旭に今好きな子がいる、とかじゃなかったら、……いかがでしょうか」
チラリと視線を向けると、東峰は目を見開いて硬直していた。
心臓がバクバクと音をたてる。一気に畳み掛けるべきか戦況を見定めながら、ナマエはとりあえずこの戦いが動くのを待った。
少しの沈黙の後、東峰が口を開いた。
「じょ、冗談……だよな?」
ははは、と言いながら笑う東峰を見て、ナマエは心の中でため息をつく。『冗談』にされた。まぁ、こうなるか。予想した通りの行動をとる東峰に、ナマエは思わず苦笑した。
ここまではある程度予想の範囲内だ。きっとここで、「冗談だよ、本気にした?」と笑いかければ、何もなかったように元の関係に戻れるだろう。
……でもそれじゃあ今までと何も変わらない。
もう『友達』じゃ満足できない。この男が欲しい。友達じゃなく、隣に居たい。そう思うのは贅沢だろうか。
『幸運の女神には前髪しかない』
いつだったか本で読んだ。これはきっと、ようやく訪れたチャンスだ。せっかく神様か誰かが気まぐれで用意してくれた、小さな小さなキッカケ。ボヤボヤしていたら掴み損なってしまう。
失うことになるかもしれないが、そうなったらそれまでだ。待ってるだけじゃ、欲しいものは手に入らない。
「ふふ、ビックリした?」
ニッコリ笑って問いかけると、東峰はホッとしたように笑った。
「ビックリするよ。いきなり――」
「でも、私は本気だから」
再び口を開けて固まってしまった東峰を真っ直ぐに見つめながら、ナマエは続ける。
「私は、旭が好き。ずっと好きだった。二年の時からずっと。旭にとって、私はただの仲の良い女友達なのかもしれないけど、私は嫌なの。旭の『特別』になりたいの。
旭は今、部活のこと考えるので精一杯だと思う。だから、バレーの次でいい。部活のことが片付いたらでいいから、考えて。私のこと」
そう言って立ち上がると、ナマエは逃げるように教室を出た。
言ってしまった。言ってしまった。言ってしまった。
心臓がものすごい勢いで鼓動を刻んでいる。ナマエは口元を押さえながら大きく息を吐き出すと、その場に座り込んだ。
果たして言って正解だったのだろうか。
……分からない。
でも、きっと言ってよかったんだ。あのまま友達ごっこを続けていくよりよっぽどいい。そうに決まっている。
そう自分に言い聞かせながら、ナマエは立ち上がると進路指導室へと向かった。
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