- ナノ -


One day we'll...




「うーん……」

 先程からしきりに眉間にシワを寄せながら携帯電話を睨みつけている恋人を見ながら、僕は小さくため息をついた。

「いつまで見てんのさ。せっかく久々に会えたって時にやること?」
「だって……イメージが固まんないと選びようがなくてさぁ……」

 チラリとこちらを見たかと思えば、そう言って彼女は再び携帯電話へと向き直ってしまった。やれやれ。どうやら今回は長そうだ。


 高校の頃からずっと想いを寄せていた彼女をようやく手に入れてから、まもなく二年が経とうとしていた。
 付き合ってすぐの頃はなかなか実感が湧かず、それどころかいつか『友達に戻ろう』と言われるのではないかと、ずっと思っていた。彼女の気持ちが読めず、自分が恋愛対象に見られているのかも正直言って分からない。付き合ったのだってきっと、断りきれずに流されただけなのだろう、と。

 だが、待てど暮らせどそんな日は来なかった。

 付き合って一カ月くらいが過ぎた頃から、彼女は折に触れて自分の気持ちを僕に示すようになった。それは、さりげなく手を繋ぐ程度の小さなものから、ストレートに『好きだ』と伝えるようなものまで形は様々だったが、彼女なりに僕に歩み寄ろうとしてくれている気がして、素直に嬉しかった。


 そんな彼女は今、生まれて初めて招かれた先輩の結婚式で着るドレスのデザインについて悩んでいる。なにも今この場で選ばなくても……とは正直思うが、彼女が気になったらいてもたってもいられない性格なのは今に始まったことじゃない。もう慣れっこだ。

「……ねぇ、じゃあ蛍も一緒に選んでよ」
「なんで僕が……自分で着るドレスくらい自分で選びなよ」

 再びため息をつきながらそう言うと、彼女は口をムッと尖らせて手に持った携帯をポイッとベッドへと放り投げた。

「蛍はいいよね、男はスーツで行けばいいんだからさ。悩まなくていいじゃん」
「スーツって一口に言っても色々あるけどね」
「へー、そうなんだ。何色?」
「黒」
「えー、無難ー」
「結婚式なんて本人たちが主役なんだからいいんだよ。むしろ目立たない方がいいデショ」
「蛍は背が高いから存在を消すのは無理だよ」
「君も顔が派手だからどんな服着ても存在を消すのは無理だろうね」
「わーありがとう。何着ても目立っちゃう美人な彼女でよかったね」
「……」
「……ねぇ、黙んないでよ。薄ら寒くなるじゃん」

 彼女は少し大袈裟にため息をついてから、再び携帯へと手を伸ばした。

「……ねぇ、明後日空いてる?」
「明後日? 午前中はゼミ」
「午後は?」
「練習」
「忙しいねぇ。練習何時に終わる?」
「……ドレス買いに行くのに付き合わせようとしてる?」
「なんで分かんの。エスパー?」
「いや、分かるでしょ。僕は行かないから」

 短く意思表示をすると、彼女は不服そうに眉間にシワを寄せながら声を上げた。

「えー! なんでよ!」
「君が僕に何を求めてんのか知らないけど、ドレスとかよく分かんないし。TPOだけ守ってあとは自分の好みで選びなよ」

 彼女はじっと僕を見て、深くため息をついた。

「……なんか蛍、最近冷たいよね」

 ため息とともに吐き出された言葉に、内心ドキッとした。動揺を隠しながら彼女をチラリと見やると、彼女も同じようにこちらを見た。

「昔は私のこと大好きだったくせにさ」
「……別に今も変わってないけど」
「そうかなぁー。付き合ったばっかの時は蛍の方が私のこと大好き! って感じだったけど、今はどっちか……」

 そこまで言いかけて、彼女は口を閉ざした。じっと空を見るようにしながら固まったかと思えば、今度はくるりと踵を返し、そしてニッコリと笑った。

「やっぱ何でもない。今日はもう帰るね」
「は? いや、ちょっと……」
「ドレスは仁花を誘って買いに行くから大丈夫だよ。じゃ、またね」
「ちょっと待って! 何? 怒ったわけ?」

 立ち去ろうとする彼女の手首を咄嗟に掴むと、彼女はキョトンとした顔を僕に向けた。

「私? 怒ってないよ?」
「じゃあなんで急に……」

 たしかに彼女の表情からは怒りなどは読み取れなかった。怒っていないなら、なんで急に帰るなんて言い出したんだろう。

 彼女はそっと目を伏せると、ポツリと呟くように言った。

「…………喧嘩に、なりそうだったからさ。あのままだと、嫌なこと言いそうだったから。だから帰ってちょっとばっかし頭冷やそうかなって思って。……私、蛍と喧嘩したくないんだよね」

 そう言って少し寂しげに笑うと、彼女は顔を上げた。

「そういうことなので。今日は帰るよ。またね」

 言うなり彼女は部屋を出ていった。



***



「……で? それっきりミョウジと会ってないの?」
「……タイミングが合わないんだから仕方ないデショ」

 呆れたような視線を向けてくる山口に短くそう言うと、口からため息が漏れた。

 結局あれから予定が合わず一度も会えていない。だから彼女が本当は怒っていたのか、今どう思っているかも分からないのだ。

「でもさ、別に喧嘩したってわけじゃないんでしょ? メールとかはしてる?」
「……してる」

 してるとは言ったが、内容は今日のゼミがどうだとか、そんな当たり障りのないことばかりだ。今更わざわざ蒸し返すのもなんだか不自然だし、あの日のことは聞けそうにない。


 あの日、明らかに様子がおかしかった。あんなふうに言いたいことを我慢するようなこと、今までは無かった。どちらかというと、彼女は言いたいことはハッキリと言うタイプで、それが元でカチンとくることは今までもあった。でもそれが原因で喧嘩になったことは無いし、特別僕が我慢を強いられているということでももちろんない。
 ……ただ、彼女と一緒に居られる。そのことが嬉しかっただけだ。些細な喧嘩なんてどうでもよくなるくらいに。

「ドレスくらい一緒に選んであげればいいのに」
「……ドレス選ぶのは今じゃないデショ」
「……ああ、そういうことか」

 山口が小さく笑った。

 我ながら子供っぽい理由だと分かっている。彼女とは別に結婚の約束をしているわけじゃないし、彼女がそれまで僕と一緒に居るつもりなのかも分からない。ただ、『ドレスを選ぶ』というのはなんとなく特別な気がして、気が乗らなかった。『その時』が来るまで取っておきたかったのだ。


「あ、そういえばアレは話したの?」
「アレって?」
「一緒に住もうと思ってるってやつ。あれ、言ってなかった?」
「ああ、『アレ』ね……」

 そういえば、そんなことを考えていた時期もあった。ナマエとは付き合ってもうすぐで二年になる。段々と一緒に過ごすことが増えてきて、今は大抵はどちらかの部屋に居る。それならいっそのこと一緒に住んだほうがいいのではと思った。
 ……だが、それも少し前の話だ。ここ二カ月ほどはお互いに忙しくてまともに会えていない。ようやく会えたのがあの日だった。この微妙な空気になった今、一緒に住もうなんて話、できるわけがない。

 小さくため息をつくと、全てを察したように頷く山口の姿が視界に入った。

「来週の田中さんの結婚式は二人とも来るんでしょ? 式の後にでも少し話したら? 一緒に住む住まないって話じゃなくてもさ、ミョウジとツッキーはどっちも溜め込むタイプだから、もう少しちゃんと思ってること話したほうがいいと思うよ。言わないと伝わらないこともあるしさ。それに、会ったら案外普段どおりかもしれないし」
「……そうだといいけどね」
「ま、そんなに気になるならこじれる前に会いに行ったほうがいいと、俺は思うけどね」
「…………うるさい」

 高校時代と比べるとズケズケと物を言うようになった親友を尻目に、僕は再びため息をついた。



***



 結婚式当日。待ち合わせ場所に30分も早く着いてしまって、どうしたものかと思案する。

 たしか美容室でヘアセットをして直接待ち合わせ場所へと来ると言っていたから、おそらくギリギリにならないと来ないだろう。


 あれから、結局お互いに忙しくて会う機会が作れず、できたのは相も変わらず何気ないメッセージのやり取りだけだった。もし、一緒に暮らしていたら、こうやって些細なことですれ違ったりしないんだろうか。

 ……いや、別にすれ違ったりしてないし。

 ただ、タイミングが悪かっただけ。ただのボタンの掛け違い。すぐ修正できる。頭ではそう思うのに、なぜか胸の奥が騒ついている。

 そういうちょっとした歪みが、後々にごまかしが利かないほど大きくなったりはしないのだろうか。もしこのまますれ違いが大きくなって、別れるなんてことになったら? もし、ナマエに他に好きな男ができたら? そんなことになって、自分は彼女を諦められるんだろうか。……無理だ。そんなこと、できるわけがない。やっと手に入れたのに。手放せるわけがない。嫌だ。絶対に嫌だ。

 考えれば考えるほど、どんどん悪い方へ悪い方へと向かっていく。やっぱり山口の言うとおり無理やり時間を作ってでも会って話した方がよかったのかもしれない。そうしたらきっとこんなふうに――

「……い? 蛍? おーい! 起きてる?」

 不意に意識を引き戻され視線をやると、ナマエが少し心配そうな顔をして、僕の顔の前でパタパタと手を振っていた。いつの間にか待ち合わせの時間になっていたようだ。

「大丈夫? なんか怖ーい顔してたけど。体調悪い?」
「……ああ、いや、大丈夫」
「……そう? なにか考え事?」

 彼女が小さく首を傾げながら、僕を見上げる。

 彼女は少し深い緑色のドレスを着て、淡い色のボレロを羽織っていた。それに、メイクのせいなのか、いつもよりも目元がキラキラして見える。睫毛も長い。……睫毛が長いのはいつもか。

「おーい! 聞いてる? 本当に大丈夫?」
「……平気。…………ドレス、似合ってる」

 そう一言だけ呟くと、彼女の顔がパァっと明るくなった。

「本当!? 結局仁花は予定が合わなくて従姉妹のお姉ちゃんに一緒に行ってもらったんだけど、アンタは顔が派手だから濃いめの色の方がいいって言われて……」

 恥ずかしそうに肩をすくめながら、彼女はそっと目を伏せた。

「……いいんじゃない? 似合ってる。……髪も、似合ってる」
「えー、どうしたの? 蛍にそんなふうにストレートに褒められるなんて初めてじゃない?」
「嫌なの?」
「嫌なわけないじゃん。……蛍もスーツ似合ってるよ」
「それはどうも。……無難だけど」
「もう! 意地悪。……じゃあ、行きますか?」

 言いながら、彼女はスッと手を差し出した。その小さな手を取ると、彼女は僕を見上げていつもと同じ顔で笑った。




 会場に着くといつもの顔ぶれが並んでいた。

「あ! ナマエ! 月島君!」
「仁花ー!」
「ドレス、結局その色にしたんだー?」

 谷地さんが心なしかニヤニヤと笑いながら言った。

「う、うん。……まあね」
「赤っぽい方もよさそうだったけどねー?」
「い、いいの。こっちの方が似合うかなーって自分で思っただけだもん」

 会話を聞きながら、何かが引っ掛かった。ドレスは従姉妹のお姉さんと買いに行ったと言っていた。なんで谷地さんが知ってるんだろう。

「……従姉妹のお姉さんと買いに行ったんじゃなかったの?」
「お姉ちゃんと行った。でも色が決まらなくて、仁花にも写真送って一緒に選んでもらったの」
「ナマエ、赤っぽい方とコレと迷ってたんだけど、高校の時の月島君のバレーシューズが緑ラインだったから緑の方が好きかもって言――」
「仁花!!!」

 慌てた様子で谷地さんの口を両手で塞ぐと、ナマエは少し赤い顔をしてこちらを見ずに言った。

「あ! ト、トイレ行こう! お化粧直ししよう!」
「えっ! ちょっとナマエ! ぐえっ」

 そのままズルズルと谷地さんを引きずりながら、彼女たちは化粧室へと消えていった。


「……ツッキー」
「……何、山口」
「……顔赤いからツッキーもトイレ行ってきた方がいいかも」
「…………うるさい」





 挙式が滞りなく終わり、披露宴が始まった。

「なんかいつものメンバーで落ち着くね」

 言われてテーブルを見渡すと、確かにこのテーブルにはバレー部の同期と一つ下の後輩たちしか座っていない。先輩や先生たちは隣のテーブルに居て、他のテーブルも学年が違うとはいえ、見たことのある顔ばかりだった。

「新郎新婦二人とも烏野だし、仕方ないよ」
「影山と日向も来れればよかったのにね」
「シーズンオフじゃないのと片方はブラジルだから無理デショ」
「日向は来たがってたんだけど……」
「まぁでも、仁花と私が二人からのメッセージ付きビデオレター作ったからさ、それでバッチリだよ。後で披露宴終わったら田中さんたちに渡すんだ」
「何、そんなの作ってたの?」
「滝ノ上さんにも手伝ってもらってさ。もう大変だったんだから! リモートで撮ったんだけど、日向はカチンコチンでロボットみたいになっちゃうし、影山はもちろん全然喋らないし。まぁバレー部の写真のスライドとか付けて、なんとか形になったんだけどね」

 それでここのところ忙しそうにしていたのか。なんとなく謎が解けた気分だ。

「何でも器用にやるよね」
「そう? 蛍にも何か作ってあげようか?」
「何かって何……」
「赤ちゃんから今までの、蛍の成長記録」
「却下」
「烏野バレー部思い出物語」
「いらない」

 ムッと口を尖らせる顔も可愛くて、僕は誰にもバレないように小さく笑った。



***



 二次会まで参加して、僕とナマエは家路についた。今夜はナマエの部屋に泊まることになっていたので、皆と別れて二人手を繋いで歩く。なんだか久しぶりだ。
 冬が間近に迫ったこの季節は、日が落ちると途端に驚くほど寒くなる。寒くはないだろうかと視線をやると、彼女は機嫌良さそうに鼻歌なんか口ずさんでいた。

「いい結婚式だったねぇ……」

 ほんのりと頬を紅く染めながら、彼女は呟く。お酒が入っているせいか普段よりは上機嫌だが、口調や足取りはしっかりしている。披露宴や二次会でもそこそこお酒を飲んでいたと思ったが……。相変わらずナマエはお酒に強い。

「潔子さん綺麗だったなぁ……いつも綺麗なんだけどさ、今日は特別輝いてたよねぇ……なんか幸せオーラ? っていうの? 溢れちゃってたよねぇ……田中さんもずっと泣いちゃってたし」
「あれは泣きすぎデショ」
「ははは。田中さん高校の時からずっと潔子さん大好きだったもんねぇ。なんかこっちまで嬉しくなっちゃった。……いいなぁ。私もドレス着たいなぁ……」

 はぁ〜っとため息をつきながら、彼女が何気なく放った一言に、思わず耳を奪われた。どういう意味だろう。彼女の真意を探るべく、ゆっくりと彼女の様子を窺うと、彼女も表情を消して固まっていた。

 あ、この間と同じだ。

 しまった、と顔に書いてある。気まずいとか、マズイことを言ってしまったって顔。次にどうするのが最善なのか頭の中で必死に考えている。そんな顔だ。

「……君も、ドレスに憧れとかあるんだ?」
「……そりゃね。ほら、女の子なら誰でも憧れるものじゃん? 仁花なんかはちっちゃいからフワっとしたドレスとか似合いそうだよねー? ……その、そういう……一般論的な話?」

 ハハハ、と小さく笑いながら、彼女はそう言った。

「……なんで?」

 逃げられないようにグッと手を握りながらそう言うと、案の定彼女の手がこわばるのが分かった。

「なんでって……? ドレス着たいって思っちゃ……ダメだった……?」
「そうじゃない。なんで最近そうやって言葉を呑み込むの。僕の顔色窺いながら」
「う、窺ってなんか……ないけど……」
「嘘。この間から変だよ。なんで急に? 僕、何かした?」
「し、してないよ! そうじゃなくて……」
「じゃあ何? 思ってることがあるなら言えば? なんで我慢してんの。君らしくもない」

 とうとう彼女は足を止めた。追い詰められた小動物のような顔をしてこちらを見ている。

「……僕が嫌いになった?」
「はぁ!? そんなわけない! なんでそうなるの!?」
「じゃあ何? 言ってよ。……言ってくれなきゃ分からない」

 彼女は目を伏せると、少しの間黙り込んだ。そして、ゆっくりと口を開いた。

「……なんとなく、最近うまくいってない気がして……ほんのちょっとすれ違ってるっていうか……うまく説明できないけど、しっくりいかないっていうか……そんな感じ? 蛍も……思わなかった……?」

 それを聞いて、ぎくりとした。彼女も僕と同じことを感じていたのだと思った。

「……前にね、そういうのをそのままにして、結局うまくいかなかったから……蛍とは、なんとかしたいなってずっと思ってて……。でもどうしたらいいのかよく分かんなくて。……ただ、蛍は大抵のことは私に合わせてくれちゃうから……もしかしたら、それが負担なのかなって。なら、できるだけ蛍の重荷にならないようにって……蛍に……嫌われたくなくて……。そんな事考えてたら、何が正解なのか分かんなくなっちゃって……」

 ポツリポツリと言いながら、彼女は僕の手をぎゅっと握り返した。

 嫌いになる? 僕が? そんなの天地がひっくり返ってもあり得ない。たとえ彼女が僕に愛想を尽かしたとしたって手放すつもりはないのに。そもそも、僕から逃げられるとでも思っているのだろうか。
 お酒のせいなのか、言いにくい話をしているせいなのか、彼女の大きな瞳が涙で潤んでいる。こんな話をしている時に不謹慎かもしれないが、それがやけに扇情的で、この場で彼女を抱きしめたくなる衝動を抑えるので精一杯だった。

 僕が頭の中でそんなことを考えているなぞ、つゆほども思っていないのだろう。彼女は再び懺悔でもするように口を開いた。

「……蛍は、私のことずっと好きだったって言ってくれたけど……付き合ってみたら思ってたのと違ったから、飽きられちゃったのかな、とか。でも……私は蛍と別れたくないし、この先もずっと一緒に居たいから……だから――」
「……結婚しようか」
「…………は?」

 自分が何を言ったか理解するより前に彼女の声が聞こえた。彼女のポカンと口を開けたままの顔も見える。あまりの可愛さに思わず口をついて出た言葉が、半テンポ遅れて自分の耳に戻ってくるのと同時に、目の前が真っ赤に染まった。

「…………ごめん。間違えた。……すれ違いが気になるなら、一緒に住まない? ……って、言おうとした。前から、一緒に住もうって言おうと思ってて……一緒に住めばいつでも会えるし……だから……その……順番を、間違えた……」

 ああ、死にたい。

 彼女がそこそこ飲んでいたので自分は飲まないようにと思っていたのだが、自分もしっかり酔っ払っていたらしい。酔いが冷めたのか、一気に頭の中がクリアになる。彼女のポカンとした顔もよく見える。

 ああ、もう……ほんっと最悪。酒なんて一滴たりとも飲まなきゃよかった。

 彼女はしばらく呆けたような顔をして僕の顔を眺めていたが、やがて嬉しそうに顔を緩めて、小さく「はい」と呟いた。

「え……? 今なんて……」
「えっと……両方とも……はい」
「……両方……?」
「うん……両方……えっ!? 最初のやつはほんとに間違えたの!? やだ! ごめんなさい、私……」
「違う。間違えてない」
「そ、そう……? よかった……」

 ホッとしたように息を吐き出すと、彼女は再びふにゃりと笑った。

「……いつ頃?」
「分かんないけど……就職して少ししてからだから……二、三年後とか……」
「……またちゃんとプロポーズしてくれる?」
「当たり前デショ」
「……じゃあ、待ってるね」

 そう言って、彼女は幸せそうに笑う。
 この顔が見れたなら、あの失敗も悪くはないか。怪我の功名とは言ったものだ。

 『その時』が来たら、幸せそうに笑う彼女の隣で、僕も田中さんのように泣くのかもしれない。

 そんないつかを想像しながら、僕は彼女の手をそっと握った。
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