とある若聖騎士と犬に化ける悪魔のお話
さて、どうしたものか。
今置かれている状況を冷静に分析しながら、メフィストは長い溜め息を吐いた。
時は数時間前まで遡る。
麗らかな昼下がり、平和な我が学園。
正直言おう。退屈で脳が腐りそうだ。
「平和すぎるのも考えものですねぇ…」
物質界はこれ以上ない玩具箱だ。
しかし今、“一番のお気に入り”が此処にないが為、玩具箱の中身がどれもがらくたに見える。
壊してしまおうか。
悪魔の本能が嘯いたが、馬鹿らしいと、一つ頭を振る。
本能のままに動くほど、自分は低俗な輩ではない。
しかし、ああ、本当に退屈だ。
ここ数年は“あれ”が居たお陰で充実していたが、“あれ”が今傍に居ないだけで、酷く物質界が陳腐に見える。
「ふむ…少々肩入れしすぎですかね」
どうせ自分を置いて逝く存在だ、これ以上“あれ”に執着するのもどうかと思うが――
「………くだらない」
嫌な思考回路に陥りそうで、メフィストは席を立つ。
今日の仕事は片付けた。どうせ暇だ、玩具箱の中身でも探索してみるか。
1、2、3……パチンっ
煙りに包まれた長身の悪魔が、瞬く間に小さな犬へと変体する。
犬に化けた悪魔は華麗にベランダから地上へ降り立ち、玩具箱の中に飛び出して行った。
(ああ、つまらない)
とてとてと歩くは、毛並みが良く、育ちがよさ気な犬。
めぼしい日陰を見つけたその犬は、日陰に入り、優雅に腰を降ろす。
学園内を行き交う学生達を見遣りながら、大きな欠伸を一つ。
(つまらない、実につまらない)
瞬く瞳は鮮やかな翠。垂れた目尻を半眼にし、その犬は―――メフィストは、本日何度目か解らぬ溜め息を吐いた。
この姿なだけあって、奔放に探索することができた。
人間観察も兼ねての探索だったので、まぁ愉しめた。
だが、ものの10分かそこらで、飽きた。実にくだらない――こう感じたのだ。
いつもなら、そのくだらないことが面白おかしいのだが、最近“面白い”と感じることができなかった。
「―――あれが居ないと、つまらない」
無意識の呟きだったのだろう――ハッとしたメフィストは、すぐさま罰の悪そうな顔をする。
予想以上に、あれは我が心を占めているらしい。
(……全く、お前はいつまでこの私を待たせるつもりだ。いい加減、この退屈も飽きた)
早く帰ってきて、私を愉しませろ。お前には、その義務がある。
この場に居ぬ人物に、心中で悪態をついた時だった。
「ん……?野良犬か、お前?」
聞き慣れた声が、鼓膜を震わせる。間違いない、これは――
弾かれたように顔を上げ、ぐるりと周囲を見渡す。そこには。
「わりぃな、驚かせちまって。取って食おうって訳じゃねぇから、安心しろ」
祓魔師特有のコートを靡かせ、眼鏡越しの紅い瞳をやんわり細めた、今“一番のお気に入り”である――藤本獅郎が、佇んでいた。
「……野良の割には毛艶がいいな。
つーか首のスカーフといい、このバッジ……お前……」
ハッとしたメフィストは、珍しく、動揺した。
実は獅郎は、この姿に変体した自分を知らないでいる。
明かす必要性がなかったからだが…とうとうばれるか?
そう覚悟したメフィストだが、次の瞬間、拍子抜けした。
「そうか、メフィストの飼い犬か!あいつ、いつのまに犬飼ったんだ?」
興味津々にこちらを見つめてくる獅郎に、思わず脱力してしまう。
と、同時に、久方振りに感じる喜悦に、心を躍らせた。
やはり、これが居ないと愉しくない。
やっと己の元に帰って来た人の子に歓喜を覚えながら、さて、どうしようかと、考える。
正体を明かせば、これはどんな反応を見せてくれるだろうか?
いや、このまま様子を観察してみようか。
悪戯心が沸き上がる中、メフィストはひょいっと獅郎に抱き上げられていた。
「うっし、主人の所まで連れてってやる。ちょうど俺も、あいつに用があるからな」
にしても、見れば見るほどメフィストにそっくりだな。
目の色といい、気怠げな 顔つきといい…
「飼い主に似るって言うけど、ここまで似るたぁなぁ……お前の主人は厄介な野郎だが、可愛がってもらえよ」
ふんわりと細められる眼差しに、毒気が抜かれる。
止めに優しく頭を撫でられ、柔らかく抱かれてしまえば――正体を明かせなくなってしまう。
……まぁ、うまく撒いて、変身を解くか。
えらく可愛らしい表情を見せてくれているし、この腕に抱かれるのも悪くない。
メフィストは尻尾をちょろりと振り、獅郎の頬をペロッと舐めた。
そう、そこまでは良かったんだ。
本来の姿に戻ったメフィストは、眼下で無防備に眠る若き聖騎士を、ジッと見つめた。
「なんだ、あいつ帰ってきてねぇのかよ」
十日振りにヴァチカンから帰ってきてやったってのに。
日本に帰ってきたらいの一番に会いに来いっつったの誰だよ。
「しゃあねぇなぁ、待っといてやるか…」
待ってなかったら、臍曲げて余計面倒くせぇし。
お前の主人は我が儘で困りもんだよ。
獅郎は抱いてる犬を一撫でし、苦笑を浮かべる。
まさか腕に抱いてる犬が当人であるとは、夢にも思わないだろう。
(悪かったですねぇ、我が儘で。お前にだけだと、知らないでしょう)
心中で反論するなか、獅郎はメフィストの理事長室兼私室へ侵入し、奥まで進む。
奥の扉を開けると、仮眠室でもある見慣れたベッドルームが、視界に広がる。
「眠てぇ――……」
気が、抜けたのだろう。
凛然とした佇まいから一転、どっと疲れを面に滲ませ、覚束ない足どりで、ベッドへと倒れ込む。
勿論、犬に化けたメフィストを、抱き込みながら。
(おい、まさかこのまま寝るつもりじゃっ…)
メフィストは、身を攀りながら、腕から抜け出そうと試みる。
――が、犬に化けた状態で、尚且つ眠ろうとしている成人男性の体重が掛かっていれば、抜け出すなど無理な話で。
「んー…?メフィストは、まだみてぇだぞ……おとなしく、待ってろ――……」
ゆぅるりと頬を綻ばせた獅郎は、ぎゅうっとメフィストを胸に抱き込む。
そうしてすやすやと、深い眠りに落ちていったのだった。
そして、今に至る。
何とか腕から抜け出せたのが、1時間前。
すぐさま変身を解き、この場を離れようとした。
だが、運悪く服の袖を掴み込まれてしまい、立つに立てない状況に陥った。
なので仕方なくベッドに腰掛けて、無防備な寝顔を眺めることになった。
「あーあ、ティータイムの時間がなくなってしまうじゃないですか」
どうしてくれる、と、ぎゅっと袖を掴む指を、突く。
いや、この指を振り払うことなど、動作もないことだ。
それを、あえてしないのは――無防備に眠る人の子を、愛おしく、感じるからか。
「まぁちゃんと言い付けを守ったところは褒めてやります」
眼鏡を外してやり、目元に刻まれた隈を撫でる。
彼の寝顔には、疲労が色濃く滲み出ている。
この十日、本部で所謂、聖騎士としての品格やら何やらを叩き込まれたのだろう。
傍若無人で破天荒な、彼。恐らく、歴代聖騎士の中で、最も規格外だろう。
だが、世界で唯一父に見初められ、己を夢中にさせる実力と器量は、本物だ。
「いけない人だ…これ以上、私を夢中にしないでほしい」
―――これに肩入れしすぎているのは、自覚している。
先に逝く存在に執着してしまえば、後に残るものは何か――理解は、している。
それでも
「……今はゆっくり眠りなさい、獅郎。目覚めた時は、じっくりと私の相手をしてもらいますから」
この十日間、貴方が居なかったせいで、非常につまらなかった。
その落し前は、きっちりつけてもらいますよ。
新緑色の瞳がやんわりと細まり、熟睡する人の子の頭を、そぅっと撫でる。
その手つきが、酷く繊細であることに。
その表情が、酷く穏やかであることに。
当の悪魔は気付くことなく、ゆぅるりと、微笑みを湛えて。
飽きることなく、人の子の寝顔を、見つめる。
悪魔らしからぬ、愛おしげな、眼差しで―――
儚く愛し
(若聖騎士が犬に化ける悪魔の能力に気付くのは、また別のお話)
……………
もっと簡潔に纏める能力を身につけるべきですね…
11.07.27
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