アトカタモ
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「****?だれだそりゃあ」

堂島さんが何を言ったか理解できなかった。
煙草をぐりぐりと灰皿に押し付けて、いかぶしげな目で僕を見つめる。目元のしわや瞳の光があの時よちも鋭く、深くなっていて、会わなかった時の長さを思い知るようだった。そうしてこの人もずいぶん老いてしまったのだと少し、ほんの少し、失望した。

「誰って、冗談きついなぁ!ほら、あなたの甥っ子君ですよ、****」

せっかくの再会なのだから(もっとも彼が感じているのが憎悪や殺意でないという確信はないのだけれど)、あまり過去のことを、特にどうやって自分の犯行がばれたかなんて具体的な話をしたくはなくて、どこか逃げた回答だと自分でも思った。しかし今だけ、せめて堂島さんが「いま」のことを語り終えるまでは、まどろんだ郷愁的な心地に包まれていたかった。
……それにしても、甥の名前を忘れてしまうなんて。あの堂島さんが。そう思うと僕の基礎というのがずいぶん古めかしいものに思えておぼつかない。どこかふらつくような感覚を止めてしまいたかったのに、堂島さんの返事に、世界が歪んだ気さえした。

「甥ぃ?何言ってんだ足立。お前、大丈夫か。俺に甥なんて……」

気遣わしげな瞳だった。まるでいたわるような、そんな優しい目だ。僕には恐れ多いというか、もったいない目。目が僕の周りをまわりだしている。誰か助けてくれ。

「ちょっと待ってくださいよ。**君ですよ!僕と同じように春に町に来て、すごい面子でいつもジュネスに集まってて、僕の、その、ことがばれたのだって、彼らの……」

言いよどむ。堂島さんは眉根を寄せてそれをほどこうとはしなかった。

「確かにお前のことを教えてくれたのはジュネスで集まってた高校生だ。俺だってそのくらいのこたぁ覚えてるさ。しかし、**なんて名前には覚えはねぇよ。確かに姉の苗字は**だが……」

何か思い違いをしてるんじゃねぇか

世界が、僕の座る椅子ごとどこか深い、恐ろしいところに落ちていくような気がした。あくまで気がするだけだし、その気さえ本当ではない。なぜなら僕はもう落ちてしまっているからだ。**君を、あの****を堂島遼太郎が知らないと言い張るどこか知らない国へ。


それ以降の堂島さんとの会話は何か得体が知れず始終落ち着かなかった。話している内容は「堂島遼太郎」として完璧なものだった。僕はこの人を知っている。確かに彼は彼のままで、ただ****という要素だけがすっぽりと抜け落ちてしまっていた。
結局、また会おうと連絡先を教えあって別れた。堂島さんは僕に辛く当たるようなことはしなかった。むしろ優しくすらあったが、それが過去の関係には二度と戻れないということをはっきりと突きつけているようで、僕には逆に冷たかった。ぜいたくな悩みだ。


ここには堂島さんと会うためだけに来たようなものだった。しかしどうも釈然とせず、もう少しだけこの町に留まり話を聞こうという気になった。とりあえず今日は休もうと旅館に足が向きそうになるが、そうだ、旅館には……。
引き返してビジネスホテルに泊まった。この町もずいぶんと栄えたものだ。一年もいなかった町なのに、この疎外感はいったいなんだろう。**君のことが頭から離れず、嫌に浅く眠った。




そうして翌日、……結果から言うと、****という人間はこの町に来てなどいないということしかわからなかった。どの人に聞いても、彼の通った学校へ問い合わせても、答えは「知らない」ばかりだった。
そんなはずがない。そう思うものの、堂島さんの反応を見た後だったためにどこか諦めていた。諦めてはいたが、納得はできなかった。**君がいないのなら、僕が一緒に夕飯を食べた彼は誰だ。ジュネスで話したのは。恐れたのは。憎んだのは。僕を打ち負かしたのは。……手紙を送ったのは。
手紙のことを思い出してそれだ、と手を打ちたくなった。僕は今回この町に来るのに、一応の住所確認として堂島さんや****の手紙の束を持ってきたはずだった。一通抜き取ればいいものを、なぜだか全部鞄へと放り込んだのだ。投げやりな準備がこんなところで役に立つとは、という感じだ。鞄をあさる。白い束を掴んで口の端を釣り上げた。これでやっと、彼の存在が証明できる!
手紙の束が出てきて、違和感を感じた。数がどう考えても少なかったのだ。それもそのはず、束の大半を占める彼の手紙が、すっかりなくなっていたのだから。執拗に送られ続けた大量の手紙。美しい文字と残酷な言葉の寄せ集め。
そんなはずは、という気持ちとやっぱりな、という気持ちがぐちゃりと混じって気分が悪い。彼からの手紙は一通もなかった。消え去っていたのだ。僕にとっての一番立体感のある**君が鞄から(あるいはこの世から?)消えてしまったことで、僕は感覚的に悟った。


****は、**君は、本当にいなくなっていく。いなくなってしまった。いなかった。


堂島さんの手紙と、少しだけほかの人からの手紙。ベッドに広げた紙の中で僕は頭の中で、何かが変わっていくのを感じていた。****。名前が、なくなっていくような。いや、初めからそんなものなかったような。**、**?名前が妙なモザイクになって、文字が意味のない記号になって、******。霧散してしまう。同時に思い出までどこもかしこも白くなっていく。消えていく。ほどけていく。溶けていく。思い出そうとつかんだ記憶が崩れていく。話したこと、会ったこと、手紙のこと、書かれた言葉。
もう何も覚えていないような気がして、悲しい気持ちもなくなってしまって、穏やかな気持ちで最後、記憶の手のひらを開くと、ほろほろと解れていく最後の記憶が見えた。
揺れる銀の髪。にじむ淡い色の眼。緩く笑んだ薄い唇から紡がれる、ガラス越しの最後の告白。


(そうだ、君は)


「足立さん、俺は絶対に迎えに行きますから。覚悟して、待っていて下さい」


ほつれて、



(……嘘をついたね)








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