Creepy,crawly
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自分の手で吐き出させた精液を蠢く蜘蛛の上にぶちまけてみると、白い半透明のそれの中で蜘蛛は黒い点となってうじうじとしていた。見た目にはもはや蜘蛛ともわからない。
この生き物は、まさか自分の生涯がこんな形で幕を閉じることになるとは思うまい。部屋の隅で虫を取りながら、時々埃を食べたりなどして誰にも迷惑をかけずに生きてきたのだろうし、これからもそういう生活が続くと信じてきたはずである。将来は子供を作り、その子供にもまた、彼(あるいは彼女)と同じような生活が待っていただろう。この蜘蛛には何の罪もなかった。ただ、僕の自慰の途中ぶら下がっていた白い糸が切れ、床に落ちてきたというだけだ。
しかしどうだ。この蜘蛛は今、くだらない男の精液の下でもがき苦しみ死のうとしている。これを理不尽というならそれは全く正論だが、僕の意見としては、蜘蛛として男の部屋に住みつき生きることを決めた時点で精液まみれで死ぬくらいのことは当然覚悟すべきなのだ。さらに言えば、蜘蛛でこれなのだからまして人生、テレビの中に入れられて電柱や電線に引っかかった遺体になる可能性くらい、考えておいてもらわないと困るわけだ。

持論にうなずきながら汚れたフローリングを重ねたティッシュで拭い、その中身を潰すように握りしめてゴミ箱に投げ込む。しかし、そうして蜘蛛の痕跡がなくなってしまった途端に蜘蛛のことが可哀そうになってしまった。蜘蛛の存在は無駄過ぎた。僕が無駄にしてしまった。生きてさえいればあの蜘蛛は子孫を残したり進化したり、研究材料になったり、重要な役目を持っていたかもしれない。それが僕によって抹消され、全く残すものもないちんけな死骸に劣化したのがあまりに哀れだった。存在というものが全く失われてしまったのだ。
この部屋の同居人として、僕らは割とうまくやっていたように思う。それをほんの気まぐれと絶頂間際の高まりでぶっ殺してしまったことを少し後悔した。せめて、土に埋めてやるべきだったのだ。
部屋に残された感慨からか少し寂しくなり携帯を手に取るが、表示される時刻と登録数の少ない電話帳にその期待は失われる。
つまらないなあと思ってため息をついたところで、チャイムの音がしていることに気づいた。ピンポン……ピンポン。と5秒ほどの間隔で均等にならされている。ここの所壊れ気味なそれは音が一定にせず、小さかったり、最初の音だけが妙に大きかったりする。いつから鳴っていたのだろう。自慰の最中から鳴り続けている可能性も十二分にあった。
しかしこんな時間にこんな病的な鳴らし方をする人間なんてあの少年以外にいやしないのだ。別にいくら待たせようと出てやらなかろうと僕の知ったことでは無い。ただ僕は今何となくうんざりしたい気持ちだった。この落ちどころのない心臓をどこか、嫌なところへ蹴落としてしまいたかった。


「何か、用?」

素っ気なくそういいながらドアを開けると、背筋を伸ばした少年はチャイムを押そうとして伸ばした手をピタッと止め、「足立さん」と嬉しそうに言った。少年の背後に広がるのは田舎の真っ暗な夜だ。
もう遅いし、と言いながら部屋に入るよう促すと、少年はニコリと笑っていそいそとついてくる。学生靴をそろえて(そういえばまだ制服だ)部屋に上がった彼は、ふと眉をひそめて鼻を動かした。
ああ、まだ残ってるのか、匂い。そう気づき、少し落ちる気持ちに、でもまだ足りない。



「皆、入れ替わっちゃってるんです」

ちゃぶ台に組んだ両手を置いた少年はおもむろに語りだした。何の飲み物も出してやる気はないが、少し殺風景なちゃぶ台の上、彼の熱弁は不釣り合いだった。
部屋に残ったそういった気配を言及するよりはいくらかましだろうか。どちらにせよ、素晴らしいとほめられる話題ではない。
入れ替わるって?と促せば少年はいつも僕を愛しているという熱心さで説明を始めた。

「入れ替わってるんですよ。見た目はそのままに、偽物に。俺は多分宇宙人か地底人だと思ってます。妖怪って説も捨てがたいですが、奴ら科学技術を知っているどころか高度に使用できるので、俺としては宇宙人を押したいですね。
気づいたのはつい最近です。まず初めにおかしいと思ったのが友人の料理がおいしかったとき。いつもは本当に、ろくでもない料理を作るのですよその子は。それなのにきちんとカレーを俺にふるまったんです。俺はその子の顔をよく見てみました。しかし、やっぱり彼女は彼女のままでした。
そこでは疑念をバカバカしいと切り捨てて、俺はまた生活を始めました。でもおかしいことだらけなんです。みんなが、少しずつずれて見えるんです。考え方や感じ方が俺の知ってる彼らに一致しない。誰かが設定を間違えたみたいに。
初め、世界が勘違いしているのかと思いました。世界がみんなの設定を上手く反映できずに誤魔化しているのかと。でも、それにしては見た目は寸分の差もない。多分そんな適当なことを許す世界だったなら、見た目だってもっとちぐはぐになってもおかしくないんじゃないかと思います。
次に俺がおかしくなったのかと疑いました。記憶が変な風に捻じ曲がっていて、それでこんな風に違和感を持つんじゃないかって。でも皆に確かめると俺の記憶の方があってるんです。近所の人や叔父に確かめても、確かにそうだなって笑うだけ。ね、おかしいでしょう?
だから俺、分かったんです。みんなはもう殺されたんだって。みんな全部殺されて食われて、でもその皮だけは取っておいて宇宙人が着て、嘘をついてるんだって。全部宇宙人なんですよ足立さん。俺たちを、地球を狙っている肉食のピンク色をしたおぞましいぬらぬらと光る宇宙人なんです」

気を付けて、といつの間にかちゃぶ台からはみ出した彼の腕は僕の肩を掴んで押し倒した。そのまま首筋へと、鎖骨へと降ってくるキスに嫌気がさして、目的が達成された僕は彼に「僕も偽物じゃないの」とけしかけてみる。

「足立さんは、何も変わってませんもの」

シャツの下からもぐりこむ手は腹をまさぐって、温度を上げていく。落ちてくる瞼へのキスは何となくいつものものより控えめで、誓うような感触がする。
何にも変わってませんもの。と、耳元で繰り返し囁かれる言葉は熱く湿っていた。



※  ※  ※


水っぽい、いやらしい音が部屋に充満したとき、ふらつく頭で不意に「馬鹿だなあ」と思った。夢見心地で羊を数えては撃ち殺して泣いてこいつはバカだし、精液まみれでほとんど死んでいるような僕がそれに気づかず蜘蛛に同情しているのもバカだ。僕らは多分いつも何も見えない事に気づかないし、本当のことを知っても忘れてしまう。キスをするヤツの舌がもう何の味も分からないことを僕は知っていた。彼の灰色のまつげや瞳を綺麗だと思う僕の網膜がもう何の像も結べないことを彼は知っていた。
ゴミ箱の中でティッシュにくるまれた蜘蛛の死体と僕らのイメージが重なる。まるで蜘蛛の交尾だ。
哀れだった。悲しさからか生理的なものかはもはやわからないが、にじんだ涙が半透明に彼の姿をぼかした。(しかしそれも見えていない。)
蜘蛛の柔らかな頬にそうっと前足を添えると、彼は八つの目を驚いたように見開いた後、そっと細めてほほ笑む。揺さぶられる度に涙がしずくになってこぼれていくのがむず痒かった。彼の舌が口へそっと忍び込み僕の舌を舐め取ると、彼のそれはやはり爛れている。料理の味もこれではまともにわかるまい。
――変わったのは君だけだし、全部殺して食って、でもその皮だけは取っておいて、それを着ながら嘘をついてるのも君だけだよ。宇宙人め。
ふっと笑うと、少年は荒い息をつきながら「もうあなただけです、俺の言葉が分かるのは」と言って僕を強く抱いた。中が熱い。
このまま二人でティッシュにでもくるまれて、死んじまえば、いいのに。

「……可哀そうだね」



※  ※  ※


翌朝、日の光に照らされた蜘蛛の巣を見つけた。
キラキラと埃を纏いながら輝くそれを見て、僕は蜘蛛を羨ましく思った。









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