生え変わり(千枝雪)
-----------------------------


狭い檻の中に入っている鳥って、なんだか可哀そうで、あんまり好きじゃないなと、つい口が滑る。
鳥籠の中さえずる小鳥のさざめく胸を見ながら「しまった」と思った。


雪子の部屋の籠の中、小鳥の小さな柔らかい鱗が毛羽立っては整い、忙しなく動くくちばしは象牙のように鈍く滑らかに艶めく。枯れ木と同じように水気がなく、それなのにどこかグロテスクな鳥の足は、今にもバランスを崩しそうな危うさと柔らかいものを滅茶苦茶に切り裂いてしまいそうな攻撃的な一面を併せ持ち落ち着かず、美しかった。
そんな小鳥の姿を金網越しに見ていると、自然、この生き物が全身をいっぱいに広げ、筋肉の全てを集中させて自由に空を飛ぶ姿を想像してしまうのだ。だから、その言葉は零れ落ちてしまった。


「千枝は私のこと、残酷だと思う?」

少しだけ目を伏せながら、口元と声は普段通りを装って彼女はそう言った。長いまつげの下の瞳が嫌な感情で揺れている。濡れている。落ちるまいとしがみつくそれが彼女を酷く痛めつけていると思い込んでしまいそうで、でも本当はそれは痛めつけた証に過ぎない。
こんなはずじゃなかった、と心の下のほうに濁った後悔が沈殿する。自分の無神経さが堪らなく嫌になった。先ほどの言葉を掻き毟って過去から掻き出してしまえるのなら今すぐそうしてやりたかった。
爪が剥がれるのが分かった。両手両足合計20もの爪がポロンポロンと取れてしまったのだ。
雪子はそれに気づかない。

爪のなくなった両指を見ながら言い訳をいくつも考える。
ようやくそれらしい言葉が見当たったので顔を上げれば、雪子の真摯な目が見えた。それを見つけた瞬間どこからともなく
「お前はどうしてそう浅ましいのだ」
と声が響く。
いつの間にか自分の指には乾いた血の色の、湾曲した醜い爪が生えそろっていた。これは殺す爪だ。傷つける、痛めつける爪だ。
そんな爪をもっているのだから、聞こえの良い嘘くらいいくらでも吐けてしまう。その場しのぎに連れ込んで縛り上げていたぶって殺すための嘘なんか腐るほどあった。そうしてそれを吐き出してしまえばもしかすると少し上等な人間になれるかもとも思う。
でも、吐かないと決めた。卑怯であることが好きでなかった。
「あたしは飛べないからさ」と少しだけ照れくさくて恥ずかしい告白をすると、雪子は驚いたように顔を上げこちらをじっと見つめた。いつでも濡れたような黒い瞳はこちらを遠慮なしに伺っている。真面目と不真面目を決めかねているのだ。
本当だよ、と薄っぺらいダメ押しをする代わりに、笑って「空を飛べるの、憧れちゃうな」と付け足す。そうすればそれを聞いた彼女はようやく強張りを解き同じように笑った。
「千枝なら飛べるよ」
大輪の花が。ワッと開くような、開かせたような、そういう誇らしい気持ちがする。
二人で『くすくすと』というには少し騒がしい声で笑えば、チチチ、と小鳥も同調するように鳴いた。それが可笑しく、笑い声は大きくなった。
笑うたびに尖って固い爪の先が、ほんのちょっぴり柔らかく、ピンク色になる。だから余計に笑ってしまうのが、少しだけ打算的だった。

頬の筋肉が少し疲れて部屋に落ち着きが戻ったあとで
「でもさ、ほんとのとこ、あたしたちは飛べないよ」
とぽつりと言えば、雪子は赤ん坊を見るとき、誰もが無条件でするあの目をしながら「千枝は飛べる」と断言した。

「千枝は飛べるんだよ。飛べないと思ってるだけ。私、千枝がいつか、どこか遠いところに行ってしまう気がして……」

雪子は窓を開ける。雲一つない青空が四角く切り取られてそこにあった。眩しそうに目を細めながら鳥籠に手をかけて、彼女はその鍵を外した。
小鳥は最初戸惑ったように首を傾げ、トト、とよろめく様に横木の上ですくむ。しばらくそうやって怯えた仕草をしていたが、黒く濡れた瞳が空をしかと見据えたその瞬間、小鳥は羽を震わせ、軽やかな音と共に、飛んだ。
小さな体が全身を、そこにある限りの全てを使って羽ばたいていく姿は先ほどの想像よりはるかに力強く、翼は何もかもを切り裂いて進むような気さえする。骨が肉が筋肉が内臓が翼が脳が、飛ぶためだけにそこにあったのだ。澄み切った空に吸い込まれていく小さな命が丸ごと、世界を震わせるようだった。
青い空に小鳥が溶けていく。
いつの間にか、自分の手が人間のそれに戻っていることに気づき、深く安堵した。
のに。

「でも忘れないでね千枝」

雪子はまだ僅かに見える小鳥を見送ることをやめて窓をきっちりと閉めた。
しんとした部屋の中、鍵が開いたままの鳥籠だけが収まり悪そうに揺れる。青空と小鳥のなくなった部屋は昔から知っている彼女の部屋なのに、どこか虚ろで淋しかった。キイと、開け放された籠のふたがなって、陰鬱な空気を震わせる。先ほどまで日当たりはこんなに悪かっただろうかと、どこか知らないところへ飛ばされたような不安感だけが大きくなり、そんな暗澹たる気配と飛んでいった小鳥の美しい姿とのギャップにぞわり、とおかしな予感がする。
そうしてその予感は雪子が口を開いた瞬間に、事実に確定してしまった。

「飛べない小鳥だって、いるんだよ」

ある種の呪い的な言葉と同時か、少し遅れて、バン!と窓に何かが勢いよくぶつかった音がした。
その後、その何かが地面に落ちた鈍い音が続く。
目を細めて「ね?」とこちらに問いかけた後、おかえり、と雪子は薄く美しい唇でもってして、小鳥の帰還と死を迎合した。

爪が、またぐんにゃりと曲がった。



※ ※ ※




雪子の白く整った手の中、小鳥がびくびくと蠢いている。
惨めな肉の塊はもう二度と飛ばないだろう。それどころかもって数分の命であることは明らかだった。
千枝、と雪子が名前を優しく呼んでくれなければ、きっと自分はそのまま立ちつくし、爪の用途を知らなかった。
醜悪で狂暴な赤黒い爪を見て、あたしは「わかったよ」と、自分にか雪子にか宣言する。
雪子はにっこりと、本当に、お人形さんのように笑って、こちらに小鳥の残骸を渡した。痙攣する筋肉の動きが手のひらを揺らしているのが嫌というほどに感じられた。
「さあ千枝、手折って」
耳元で囁かれる。
「お願いだから、その時は、手折ってね」
後悔なんかしないから。飛ぶことなんて、無いのだから。

心なしか水気の多い声が部屋をちゃぷんと震わせて、もう窒息しているのかもしれなかった。その時が来たら(必ず来るけど)、あたしはきっと雪子の願いを叶えるんだろうなと思う。
だんだん震えの少なくなる小鳥の首に尖った爪先を当てて深呼吸をしたら、愛っていうのはこういう爪をしているのだろうと、なんとなく分かった。








prevnext



×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -