橙色メルヘン
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僕は昔から右手が引き攣り上手にファックサインができなかった。
その日もむやみやたらに好きですだの愛してますだのよく回る口を張り付けたガキにやってやろうとして、見事失敗した。ぐんにゃり、と傾く中指は彼にファックサインとは受け取っては貰えず、右腕ごと奪い取られて食べられそうにすらなった。間一髪で逃げ帰ったはいいものの「負けた!」という感じがどうしたってぬぐいきれない。苛立ちと敗北感を前にもう一度中指に力を込めるが、ぐんにゃり。

ED患者ってのは、こういう気持ちなんだ。
と、ピンと立たない右中指を見つめたその瞬間である。脳ミソからガキンという音がした。
骨が折れるような鋭く短い音だったが、当然それは骨の折れる音などではない。脳ミソのどこかの部分の歯車がはまった音だ。そうして今まで停止していた理解がうごめきひしめき悲鳴を上げて、脳髄から足の裏へと突き抜けた。

『そうだ!僕の恋愛がうまい具合に行かないことはもちろん、友人関係家族関係お金のことや地位や名誉全てがでたらめに悪い方向へ行くのもこの不器用な右手のせいなのだ!』

こいつは大変な発見だった。世界のすべてを理解して手にしたような気がする。だってそうだ。そうだそうだそうだ!
ファックサインというのが僕のただ一つの汚点であり、つまりファックサインさえできれば僕は完成するのだ!


僕は逃げ疲れふやけきった体を布団から引きはがし右手中指をぐいっと立ち上げようとする。が、人差し指か手首あるいは親指になにかがつかえて持ち上がりきらず、中指はぐにゃんと情けない。
このふにゃちん野郎!と自身を叱咤しつつ手をグーパーして再び挑む。

ぐにゃり。ぐぬ、ぐみゃり。

どこかに何かが引っかかっている。馬鹿にするかのようにへなへな動く中指はなんだかあのクソガキにすら見えてくる。憎たらしい。
右腕をぶんぶん振り回して絡まりをほどこうとするがやはり言うことを聞かず中指の上の重力だけ以上に強くなって押さえつけられているような気さえする。地球単位の妨害である。それかバネのようなものが邪魔をしているのか。とにかく中指は立ち上がらない。
しかしこんなことで諦め落ち込んでいる場合ではなかった。ファックサインさえできれば僕はあの町に戻れてあのアナウンサーに求婚されて(といっても彼女はすでに死んでいるっていうか殺しちゃったんだけどまあ生き返るなりなんなりするんじゃなかろうか)あの日夢見たような出世をして将来はお手軽に天下り子供たちも立派に育ち老後の心配もなく楽しくやっていけるはずなのだ。ファックサインなどという重大なポイントを見逃して今まで僕はいったい何をやっていたんだろう。勉強?そんなものにどれほどの価値があるというのか。何をしてもしなくても関係ない。すべては右中指に帰結するのだ!

せいっ、イエス!とばかりにため込んだ日々の鬱憤とやるせなさを中指に込め大宇宙めがけて突き立てる。「イエス!!」と叫んでしまうがまあこの際どうでもいい。その時僕は隣人の壁ドンなど気にならない高みにいた。右腕全体に光がさしぎゅりぎゅりと無理のある効果音でゆっくりと中指が持ち上がっていく。そうして、越えられないいくつもの突っかかりを通り越して、ベキン!というおぞましい音と共に、ついに中指はここに立ちあがった。ファックサインと僕の完成の瞬間であった。


「やっ」


た、と声に出す間もなかった。光り輝く右手が急にぐいん、と地面と平行になった。90度の急激な大移動である。手首を上に向け、中指はそれこそ人を指し示すような形だ。唖然とする僕をしり目に完璧なファックサインは光っている。そもそも人体ってこんなふうに発光しないよなと表情を変えるのすら忘れて慌てふためく僕に右腕は容赦しない。コントロール不可能の右腕は僕の体を引っ張り出した。

「ええええちょっと待って」


おかしいでしょ、おかしいでしょと口をパクパク動かしている間に、強すぎる引きに体が浮いて、ぎゅわあんというスピードでもって空を飛ぶ。釣られた魚だ。肩がちぎれるように痛むが関係ない。部屋をぐるり一回りして、右腕は中指を先頭にドアへ突っ込んだ。
もうどんな音がしたかも覚えちゃいない。気が付くと僕は右肩に安っぽいドアをぶら下げて町内を飛んでいた。なにがどうなっているか、考える気すら起きない。らーりほー。

肩さえいたくなければ少しは楽しいのになどと開き直りながらスーパードア男は住宅街を抜け、商店街を飛び、そこいる里中千枝を見つける。里中千枝も足立透を見つける。僕を見つけた瞬間に彼女は刑事さんすごい!と無邪気にはしゃいでみせた。風の音がつんざくように響く中その声を聴きとれたのは奇跡としか言いようがない。というか動体視力もかなり向上してる。少しだけお得感を感じた瞬間に右腕の位置ががくんと下がる。この位置はまずい。正面にいる里中千枝の、丁度スカートのあたりだ。スピードは下がることを知らずむしろ上がり、里中千枝へと一直線に進んでいく。彼女はと言えばなんら危機感を感じることなく僕を待ち構えているので避けようもなく、だからこれは事故だった。まったく不幸な。

ぐちゃとかぶちとかなんか濁音にちって文字をくっつければ大体表現できそうな音で、里中千枝の左太ももあたりが僕の中指に突き刺さり、彼女から奪い去られた。顔中に血が舞って、でも拭うこともできない。ドアに引き続き僕の肩にはきれいな女子高生の生足が引っかかることになってしまった。
風圧のせいで振り向くことができないので彼女がいまどんな顔でどんな思いで、そうしてこれからどんな生活をしてどんなパンツをはくのかは想像するしかないのだけど、本当に悪いことをした。なんでこうなっちゃうんだろうと感慨に浸る間もなく今度は正面にりせちーとかいうアイドルが見える。本名は忘れた。忘れたが、彼女の足まで強奪して罪を増やすことだけは避けたかったので、逃げて!と叫んだ。叫んだけれどなぜだろう。彼女は血まみれのドア生足な足立透から逃げようとしなかった。アイドルの顔で笑っている。
もう一度注意しようと口を開けた時、今度は腕が上がった。体がしなり無防備に開いた口には空気がめちゃくちゃに流れ込んでくる。間抜けにむせている間に僕の中指には彼女の片目がお団子のように刺さっていた。もううんざりだ。
目をそっと開けると、あの馬鹿な仲良し組が本当に馬鹿みたいにずらりと商店街に大集合している。傷つけられるために順番待ちをしているようにしか見えなかった。そんなに僕を悪者にしたいのか、と呟き顔が歪み、そんならやってやるよ、と開き直ったところで中指が天城雪子の細腕を犯した。




※ ※ ※




日が落ちかけて町がオレンジ色に染まるころ、僕はそれはもう真っ赤で、でもまだ飛んでいた。僕の右腕には本当に色々なものが串刺しになっていてちょっと笑っちゃうくらいだ。巽完二の胴体やジュネスのとこの名前が分からない彼の首とか、探偵の彼の下半身とか色々なものを刺した。一般市民も容赦なく強姦した。堂島さんは口から首の後ろまで貫いていたのだが、いつしか自重で壊れ落としてしまったらしい。もったいないことをした。
さて、それを除けば心残りは銀髪の少年だけだった。彼の姿をまだ僕は見つけていなかった。血まみれでドロドロの僕をどこかで見かけて逃げ出したのかもしれないが、その可能性はとても低い。彼は危険なものによって行きたがる。自殺願望でもあるのだろうか。
静まり返った町で彼のことを考えていると腹の奥から笑いがこみあげてくる。これで最後なのだろうなあと嘆息した。卒業式の夜、現実味のない現実が迫ってくるあの感じによく似ている。結局いつまで経っても何の感慨もなく現実感なんてとっくの昔に失われていることに気が付く、あの夜。
風の音だけが耳を千切りとろうとする中で、僕はようやく自分がどこへ向かっているか分かった。僕の家だ。少年は僕と入れ違いにやってきて、壊れたドアと隣人からの苦情で驚きあきれて、僕の部屋でふて寝をしているのだ。そんな気がする。

びゅんびゅんと安易な効果音で飛んで飛んで向かった先はやはり僕のアパートだった。せまっ苦しい階段にガダガダとぶつかりつつぽっかりと空いた穴のような僕の部屋に飛び込む。夕日が差し込むがらんとした部屋の中央に、彼はぼんやり立ちすくんでいた。ふて寝しているという予知が外れてしまい、僕はちょっとだけがっかりする。
そんなしょうもないことを嘆いていたものだからお別れの挨拶をする暇もない。僕の中指は彼の心臓めがけてまっすぐに伸びる。ひゅう、と風を切って彼の真正面に飛び込んで

あ、刺さる。

と目をつぶった時だ。突如として僕の右腕は進行を止めた。
ガクン、と宙を舞っていた体が右肩を軸に地面と垂直になる。足の裏が久しぶりに畳について酷い違和感を感じた。自分の足をまじまじと見つめ、視線を上にあげていく途中少年と目があった。
彼の灰色の目がギュッと細められて、ぎゅりぎゅりという音がする。目と目があった効果音ではない。僕の右腕の力が完全に抜け切った音だ。力の抜け切った腕はブランと下に垂れ下がり、ボトボトと床の上に戦利品をこぼした。ファックサインだけはそのままに、床を指さしている。掃除がめんどくさそうだけどこの子にやらせればいいか。しかしさすがに親友の首を見つけたら怒るだろうか。
にへ、とあいまいに笑う僕を無視して彼の口はそっと開く。

「なんで俺は刺せないか、分かりますか?」

笑うような、見下すような目で彼は僕に出題した。わかんない、と首を振れば少年は溜息のような声で、「俺のほうが頭がいいからです」とだけ言った。
彼はそんなに頭がいいのだろうか。ところで僕は探偵王子といわれてる子も刺せたのだけど、僕は彼より頭がいいのだろうか。探偵王子より少年のほうが頭がいいのだろうか。わからない。
疑問は次々と浮かびそのどれもが少年の理論にとって致命傷になるように思われたが、僕は話す気がしなかった。疲れていた。

「頭がいい人のほうが偉いんです。ファックサインができれば完璧です。それを知ったから足立さんは空を飛んだんでしょう?でも俺のほうが、あなたより、」

あたまがいいんです。


オレンジ色の部屋の中、オレンジ色の髪の少年が、オレンジ色の目で、溶けだしそうな肌の色で立っていた。
それを見て思い出す。オレンジ色の勉強机。オレンジ色の教科書。オレンジ色のノート。オレンジ色に染まった母の声。「勉強ができる人のほうが偉いのよ」。


そうだった。
僕は勉強をたくさんして、そうしてある日嫌になって生物の教科書を見ながら右手の腱を切ったのだ。うまくいかなくて治っちゃって、右手の突っかかりが少し残っただけであんまり意味はなかったけどでもそうだった。どうして忘れていたんだろう。やっぱり頭が悪いからだろうか。
夕日の中、僕は血の色にあちこちが浸るのを見ながらこれでもう二度と完成しなくていいんだって安心したんだった。

思い出すと同時にベキン!という音がして僕の中指はへにょんと折れ曲がる。




僕は昔から右手が引き攣り上手にファックサインができない。








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