もう飽き飽きしてんだ
 朱智斗の目の前で一人のサラリーマンがふらついた。ぼさっとしてんじゃねえよ、と柄の悪い男二人組に絡まれ始める。すみません、すみません、とサラリーマンは必死に頭を下げるが、男たちは逃がそうとしない。
 駅のホームで迷惑なことだ。しかしそれを止める人は無く、遠巻きに皆去っていくだけ。
 ――男の品位を下げるんじゃないよ。
 朱智斗は嘆息しながら男たちへ近づいて行った。

 H歴。武力による戦争は根絶された。代わりに争いは、武力ではなく人の精神へ干渉する特殊なマイクにとって代わった。
 その名も“ヒプノシスマイク”。
 このマイクを通したリリックは、人の交感神経・副交感神経などに作用し様々な状態にすることが可能になる。
 H歴三年。その結果、人々たちはラップを使い優劣を決する。男性は中王区以外の各ディビジョンの区画で生活するようになった。各ディビジョン代表のMCグループが対決し、勝った地区は決められた分の領土を獲得できる。

 ――一年の頃に比べりゃマシでも、しょうもない喧嘩は起きるし、どうしようもない人間はやっぱりいる。
 頭を下げ続けるサラリーマンが突き飛ばされた。それを朱智斗は受け止める。「あ、す、すみません」とやはり謝るサラリーマンににっこり微笑んで、そっと背中へと庇った。

「何だよ、女がでしゃばってんじゃねーよ!」
「んだコラ、やんのかぁ? ああ?」
「やっても良いけれどお兄さんたちじゃ力不足かと思う」

 すっぱり朱智斗が言い切ると、相当喧嘩っ早い男たちは二人がかりで飛び掛かってきた。きゃあ、とそれを見ていた女性が脇で叫んだ。止めに入ろうと駆け寄ってくる青年が見えた。周囲を把握する余裕があるほど、朱智斗にとって二人の男の動きは酷く緩慢なものに見えていた。
 腰を沈めて、鳩尾に一発ずつ。一瞬でうずくまる男たち。背中の方から「えっ!?」とサラリーマンの驚く声がした。駆け寄ってきていた青年も目を見開いて立ち止まる。
 見事な手際。朱智斗は自画自賛した。

「正当防衛だからね、コレ」
「う、ぐっ……」
「強ぇ……」
「ほら早く、絡んだお兄さんに謝って。あなたたちがやりすぎだったよ」

 二人の首根っこを掴んで軽く揺さぶる。朱智斗の顔に張り付いた笑みを見て、男たちは「っさんせしたぁ……」と呟いた。言われた通りにしなければ痛い、反撃すればもっと痛い。そういうことを察したのだろう。よろめきながら二人はすごすごとホームを去っていった。
「もう悪さするんじゃないよー」と呑気に手を振って見送ってから、朱智斗はようやっとサラリーマンを振り返った。
 ぼさっとした短髪。徹夜か過労か、すっかり沈着してしまった目の下のクマ。突き飛ばされたところがまだ痛いのか、元からなのか、顔色も悪い。鞄を両手で抱えて、彼はまた「すみません」と口にした。

「いやいやコチラこそすみません。余計な手出しをしました」
「いえ、いえ……た、助かりました。ありがとうございます、その、お、お強いんですね」
「そうでもないですよ、護身術程度です」
「それでも助かりました……すみませんでした……」

 どうやら「すみません」は彼の口癖らしい。人が良いのか気が弱いのか両方か、気の毒になってくる。

「謝られるようなことは何にもないですよ」

 それでようやく彼が、すみません、と口にしなくなってくれて朱智斗はほっとした。

「引き留めちゃった形になって、こっちこそすみませんでした。お気をつけて、お兄さん」
「はい、そちらも……」
「それじゃあ」

 駆け寄ってきてくれようとしていた青年に向かって「ありがとう」、悲鳴を上げた女性へ「ごめんなさい」を告げて、朱智斗もホームを出たのだった。
 語るより行動の自分もどうかと思うのだ。しかしスピーディに事を収めるにはアレが一番だった。相手も血気盛んだったし、きっとこれがベストだった。
 朱智斗は自分にそう言い聞かせながら新宿の街を歩く。

「やっぽーい☆」
「やっぽーい、乱数」

 待ち合わせていた人物とはすぐに落ち合えた。飴村乱数。シブヤディビジョン・Fling Posseのリーダー。小悪魔的な魅力や仕草は数々の女性の心を掴んで離さない。そんな乱数と朱智斗は、いわば友人関係にあった。朱智斗が失恋で傷心中のところへ、乱数が声を掛けてくれたのである。

「オネーさん、フラれちゃった?」
「え……」
「このドーナツ見てみて」

 あの時ドーナツをかざして微笑んだ乱数の笑顔を、今も朱智斗は覚えている。

「今オネーさんが見てるのはこのドーナツの穴ぼこ。僕が見てるのは輪っかのドーナツ。どっちの方が楽しいかは一目瞭然でしょ? そんなわけだから僕の家来て良い服でも見ていかな〜い?」

 何かを含んだような、蠱惑的な笑みを。
 ……それから乱数とは友好的な関係を築いてきた。朱智斗にとって乱数は恩人でもあり親友でもある。乱数も朱智斗を良き友としてとらえてくれているのか、今日のように飲みに誘ってくれたりもする。

「も〜遅いから迷ったのかと思ってヒヤヒヤしたよ! 朱智斗ってちょっと方向音痴なトコあるからね〜」
「だいぶ慣れたよ新宿も。乱数があちこち連れ回してくれるから」
「僕が振り回してるみたいじゃない、それ?」
「あらら、違った?」
「違わな〜い!」

 朱智斗は乱数といることが心地よかった。家族を失って久しいが、それに近い感覚を覚えていた。乱数も乱数で、朱智斗といるのは楽しいのだろう。つまらないこと・無駄なことはしない乱数なのだから。

「そう言えば遅れた理由だけどね、絡まれたリーマンさん助けてたの」
「また正当防衛って言ってパンチしたでしょ」
「よく分かるねえ」
「だって朱智斗と僕の仲だからねえ。……っとっとっと。ごっめ〜ん電話!」

 乱数が『オネーさんからの電話』で路地の脇へと入っていく。暗に聞かれたくないということだ。当然朱智斗は踏み入らない。これからも乱数と心地よい関係を築いていくために必要な秘密のひとつだからだ。一体どんな“オネーさん”からなのか気にならないわけではない。ただ、時折煙草の香りをさせて戻ってくるから、一概に楽しいだけの相手ではないのだろう。乱数の「オネーさんの知り合い」は気が遠くなるほど多い。そのうちの何人かは、一癖二癖あって当然だろう。
 ――まあ、私も一癖ある部類か。
 人込みを眺めながら自嘲ぎみに笑う。普通の女子だったら男性二人相手に「殴る」という選択肢は出ないし、何より――……

「お待たせっ!」
「そんなに待ってないよ。お疲れ」

 電話を終えた乱数が飛び出してきた。ねぎらいながら頭を撫でると、ご機嫌な笑みで飴玉をひとつ朱智斗に差し出してきた。今日の乱数からは煙草の香りがしない。それほど難しい相手からの電話では無かったのだろう。遠慮なくありがたく飴玉を受け取った朱智斗が歩き出すと、

「道わかんないでしょぉ〜」

 と、乱数が前に入ってきた。

「せっかちなんだからもー」
「今日は実はとても飲みたい気分なの。会社でまたかましてしまっちゃってねぇ」
「へぇ〜また武勇伝増えちゃったんだ。聞かせてよね〜★」

 武勇伝と言えば聞こえはいいが、筋の通らない上司相手に喧嘩(あくまで口論)しただけだ。幸い同僚や後輩は――女性が多い、何故か――味方してくれるが、これ以上上司に歯向かえばあの手この手で何らかの仕返しを食らいかねない。それでも朱智斗は筋の通らない仕事はしたくなかった。覚えのないミスをなすり付けられたくもないし、手柄を横取りされたくもないし、性別や年齢を理由にした不条理に遭いたくない。同僚たちがそんな目に遭うのも黙って見過ごせる人間ではなかった。正当な評価。ただそれだけを望んでいるのだ。
 面倒くさいだろう。難しいだろう。それでも、自分を歪めて見られるのはもうこりごりなのだ。
 今まで散々に自分を歪めて見つめてきた自分自身に嫌気がさしたから。

「朱智斗って本当に面白いよねっ♪」
「乱数ほどじゃないよ」

 目的の飲み屋を見つけて、二人は共に暖簾をくぐった。
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